巡礼から織田弾正忠家本城城代へ 埴原植安
埴原次郎右衛門尉植安(初名は常安)
甲斐、あるいは信濃出身の巡礼からの召出されです。
永禄十年(1567)十一月、信長公朱印状によると美濃の「岩滝内」の「20貫文の地」を宛てがわれたそうです。
秀吉の侍としての初任給は米での換算で15貫文と言われています。
宛行地の20貫文では、同じくらいですね。
追加分ではないかなと思います。
というのは、埴原さんの息子は、実は信長公の隠し子だという話が有るので、もう少し古くから仕えていたのでは無いかと思います。
しかも、なんと2回お預けになられています。
1人目は信長公が14、5歳の頃と言いますから、1548年~1549年のことです。
信長公の子を妊娠中のお手つき侍女が埴原さんに与えられたという話です。
これは、信長公が血気盛んな若者という訳では有りません。
当時の若様教育システムによる賜物で、殆どの若様には正室との婚姻前に子供が出来てしまいがちです。
男児の場合には、例えば信長公のお兄さんの信広のように名前が残りますが、女児だと残ってないことが多いです。
信長公のように、同盟の証としての婚姻では、このように後から「これは殿の子で!」と言い出さないような信頼出来る家臣に下げ渡される、養子に出すというのは、当時では常識的な行動です。
そうすると、那古野時代、信秀生前には出仕していたはずで、相当古いおつきあいですね。
次期当主の若様の落とし胤を預ける程、織田家から信用をされていたのでしょう。
もう1人は、天文23年1月24日(1554年2月25日)に起こった村木砦の戦いの頃、生まれた男児を養子にしたというものです。
信長公が二十歳の時の子になります。
美濃の20貫文はこの男児の元服に伴う祝いという説を唱えている方もいます。
この時の侍女さんはちょっとタイプの女性だったのかもしれませんね。
養子に出されたのは、その方の実家が「嫡男」に相応しいものでは無かったのかもしれませんし、もしかしたら、本妻鷺山殿がご懐妊中だったのかもしれません。
生まれた子供が女の子であれば、結婚しない限りなかなか名前も残りにくいですし、男児だったとしても子供の半分は幼児期に亡くなる時代です。
鷺山殿が嫡男を産んでいないからといって、信長公との間に子供が出来なかったという事にはなりません。
さて
埴原次郎右衛門尉植安
天正三年(1575)織田家の家督が信忠公に移ると、信忠公の近習になり、清須城に入り、城を預かる城代として尾張の様々な実務の責任者になります。
寡聞にして、戦歴を見出す事は出来ませんが、天正五年(1577)五月二十四日付けの信雄宛の信長公の書状に、連枝(親戚)扱いすらされていない遠縁の津田掃部助一安(武田信玄との交渉役などなかなか活躍されて、おまけに最後には殺されるという不憫さ)の所持の金子、銀子、米を埴原植安へ預けるように指示が書いてあります。
そして本能寺の変の後の「清須会議」では、幼君三法師(当時の常識からして、会議が三法師の本城で行われたことから、三法師が織田家の後継として認識されていたとされる)の本城を預かる城代として、会議の成り行きを見守った後、尾張の主になった信雄に仕え、信雄失脚の後は、秀吉にお願いをして岡崎殿(信長公長女五徳)に従い、彼女の母である生駒殿の出身地小折、生駒屋敷のすぐそばに埴原屋敷を建て、そこで慶長三年(1598)亡くなっています。
彼は本能寺の変の後、鍔口という花入(花瓶)を本能寺から持ち帰り、それを一周忌に臨済宗長光寺に寄進しています。
この寺は、巡礼で尾張に流れ着いた埴原植安さんが疲労で眠り込んでいるところを、たまたま立ち寄った信長が見つけ、召し抱えたという場所です。
彼は八条流馬術の名手だったそうです。
埴原さんは当時、馬の産地の出身です。あり得る話です。
その馬の技術を若き日の信長公は買い、忠義心の厚い植安を信頼してたのでしょう。
こじき同然の身分から取り立て、大切にしてくれた信長公への感謝で、植安はずっと織田家から離れることなく人生を全うしたのでした。
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