戦国時代の奴隷②


戦国時代の奴隷の2回目です。


 ではこうして人取りされた人々は、どうなるのでしょうか。


 藤木久志氏の上杉家に残る文書の研究によると、「1566年2月 小田城を攻め落とした際、上杉謙信は『春中 人ヲ売買事』を許し、市を立て」、「二十文、三十文の安値で売買された」とあります。

こうして市で売られた人々は、買った人の元で下人として働くことになります。

売られなかった場合は、人取りした人たちの下で働くことになります。

そして飢饉や家が衰退した場合、この奴隷たちは売られていくということになります。


 では何故、このような人身売買がなされたのでしょう。

確かに貧しく、年貢が納められない事態となった時に、子供や下人を納めたり、売ったりしました。

ということは反対に、それだけの価値が人にあったということです。



 戦国期の戦の定方であった、まず戦の前に敵の城下町に火を点けたり、収穫直前の麦や米を「苅田狼藉」して勝手に収穫してしまったりというのは、相手方の収益に打撃を与える為だけではありませんでした。


当時の税制は田圃にかけられる段銭、家にかけられる棟割税と色々ありましたが、こうした戦火に見舞われますと、商人や職人の皆さまも農民の皆さまも「払えない!」ということになります。

焼かれたんじゃ、年貢の払いも考えられませんが、明日からどうしたらいいものか困りますよね。


そうすると、どういうことになりますかと言いますと。

守護所清須を攻めた那古野城主織田信長軍を見て見ましょう。


 ギギギ


清須の城門を開いたのは、守護代織田大和守の家臣である若様こと名古屋弥三郎の家臣です。(「戦国のロミオとジュリエット」参照)

「かかれ!」

入ってきたのは信長公の弟、末盛織田家の一おとな、柴田勝家率いる織田信長軍です。

入るやいなや、次々に火を点けた矢を町屋や足軽長屋に射こみます。

火の手は上がり、燎原の火のごとく燃え広がっていきます。

その火と一体になって、信長軍は清須の城下町を守護代屋敷めがけてかけていきます。


足軽たちが長屋や館城を攻め始め、あちこちが戦さ場になっていきます。

町屋に住んでいた商人、職人たちは、最初こそ火をなんとか消そうとしていましたが、無理とわかった途端、それぞれ得物を手にして、戦うために道へ躍り出ました。

そして城に向かって走り出します。

信長軍と戦うために!


敵は守護代屋敷にあり!


守護代の町人たちを飲み込んだ、信長軍は膨れ上がります。

しかし残念なことに、守護代屋敷の守りは堅く、退くことになりました。

そして城門を出て行く信長軍の後を、商人や職人、その家族が続きました。

それから名古屋弥三郎を始め、守護代の家臣たちも続きます。


それを見た農民たちも……


つまり相手方の領民を、味方に引き入れるための高度な手法だったのでした。

籠城戦の時に、本城に彼らを入れるのは、二重の意味で「守っていた」ということがわかります。


彼らは基本的な生活や生産活動の安全が保証される範囲内で、領主の支配を受け入れていたわけです。

それが保証されないならば、他の領主の下へ行くのは当然のことです。


 戦国大名家の正規の「武家」は一割。残りは商人だったり、神職だったり、百姓だったりの兼業農家ならぬ兼業兵士です。

この九割が人身売買や人取りなどで増えることが大名家にとって大事なことでした。

大名というのは決して、自領の領民からの税金だけで成り立っているところばかりではなく、貿易や手合(戦争手伝い)の礼金など、別口の収入口を持っている方が多かったそうです。


そうなると、楽市楽座に関税の撤廃など税金を撤廃した信長公の意図も見えてきます。


さて、こうして濫妨される人々には価値があったことがわかりました。

その結果の一例をイエズス会の「奴隷貿易者破門令議決書」から引くと

「日本人は奴隷として所有するものを遥かに良く待遇し、いひ得べくんば彼等をその子供の如くにも見做みなす。平民は時々その奴隷を養子として娘または親族の者をめあはす。奴隷の獲る凡ての物をその所有に帰し、意志によりてその行動を自由に委す」

とあります。


少し私たちの印象と違う感じがしませんか。


それは、西洋のそれも同じで、アメリカの歴史学者で古代奴隷制研究の大家である、ウイリアム・リン・ウェスターマンは、「西洋古代の奴隷制」の中で、

「およそ歴史上において、いかなる奴隷所有社会にあっても、その社会の実際上の慣行として、純粋に理論的な意味での奴隷、つまり法的人格性を全く欠如し自己の財産を所有しない一個のとしての奴隷が現実に存在したことは滅多になかった」

と論じています。

そして西洋の学者は特に「黒人奴隷制から由来する種々の固定観念を持ち込んでいます」とし、奴隷制に関して持ち込んでいる固定観念を捨てるように警告しています。

そして「奴隷制は数多くある隷属形式の一つにしか過ぎず、また必ずしも最悪のものではありませんでした」としています。


それは江戸期までの日本も同じで、まだ時代的に国全体が貧しかったので、私たちから見ればとんでもない境遇に見えますし、乱取られることで、以前の生活から切り離され、中には以前と比べると非常に不幸だったこともあるでしょう。


しかし、黒人の方々の、人であることを蹂躙したような奴隷制とは違うのだということを知っておきたいと思います。



※奴隷貿易者破門令議決書…岡本良知箸『十六世紀 日欧交通史の研究』で一部読むことが出来ます。

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