戦国大名、子が出来たで御座る(産褥編)


 さて、前回では、御内室様に於かれましては、無事に出産召され、後産もつつがなく終えられました。家臣たちも、夜通し、ビュンビュンしたり、お祈りしたりで、クタクタです。

修験者の皆様も巫女さんも腰砕け状態でしょう。


そんな、心を合わせてお産をした皆様の、その後の経過を見ていきましょう。


 まず御内室様はどうでしょうか。


産婦たる御内室様も、御内室様の乳母も、御侍女たちも、もうやれやれで、早速、横になって寝たいものですが、ところがどっこい、過酷なことに、ここからまた産穢に入り、産婦以外の出産に関わった方々は七日間、産婦は三十日の物忌に入りました。更に産婦は百日間、神社にお参りをしたりしないようにとされていました。


 御内室様は、まず七日間というものは、部屋から出る事は勿論、横たわることも、地方によってはグッスリ寝ることもできません。ただひたすら何かにもたれかかり、横になる事は許されず、寝たらダメ地方では、大声で延々と話しかけられるそうです。

横たわると、血が頭まで上がってしまうからだそうです。

これは、昭和20年代まで、農村では見られた風習だそうです。産婦の死亡率の高さって……これ?


せめても、ご飯は贅沢に食べたいものですが、産穢の間は、城屋敷にある台所のかまどの火は使えませんから、簡易式のものが作られ、そこでは簡単な料理しかできず、粥のようなものしか食べられなかったようです。


七日が過ぎますと、普通のかまどが使えるようになります。御内室様は、産屋から出られ、輿に乗ってご自分の元いた主郭、奥御殿に戻られます。物忌みが続くといっても、そりゃあ、気持ちよかったでしょうね。


しかし、こうした辛い目にあっても、子供が元気に生まれたと聞けば、なんとか耐えられるかもしれませんが、流産、死産の場合も、三十日物忌になるそうで、それは御辛いことでしょう。


 さて、後産という話がありましたが、この時の胎盤などは、子供と同等のもので、成人するまでは子に影響を与えると考えられていました。ちょっと分かりにくい考え方ですね。


これは下でも書きますが、生まれたての子供は「人」ではなく、「あの世から来たもの」で、時間を経てこの世に馴染んで、人になっていく、という考え方が、古来から日本にはありました。


人は子供を招く儀式としての営みをすることはできても、実際に子供が出来るのは、「人ならざるものの技」があってのことです。

永遠に生きたいと望んでも、生きることができないように、生死の前で人は無力であり、それは神仏の決めることでした。

それ故に、死、あの世が実体としてあった当時は、胎盤というのは、あの世のものであり、それを丁重に扱いつつ、封じることは重要な「生者の世界」の住人の務めでした。

上記の産穢とは「あの世に触れた」為の穢れであり、「胞衣えな納め」は荘厳な儀式でした。


 『産所之記』に拠りますと、胞衣は水や酒で清められた後、一幅四方の白絹で包み、蓋のついた須恵器の壺、あるいは胞衣桶に納められます。

桶の方の大きさは書かれています。

おおよそ高さは八寸、口の広さは七寸、厚めの板を二重に貼り、底も厚くし、切り蓋にすべしと書いてあります。切り蓋とは、容器の縁部分に被せる形ではなく、蓋の下の部分が、容器の縁の中に入る形のものです。

壺や桶は、胡紛で白く塗り、縁起の良さそうな亀や松、竹などの絵を雲母で描くとあります。

しかし、他の資料を見ていますと、須恵器ではなく、白磁の容器に入れたりしています。白は「あの世」と関わる時の色ですから、白いというのが重要で、材料はこだわりはなかったのかもしれませんね。これは、明治が近づくと、茶色い土器に変化して行きますが、戦国当時は白い容器だったようです。


さて、この壺、桶を六本脚の付いた丸い木の箱(桶?)に入れます。この外の箱は、出来るだけ、壺や桶にぴったりするように作ったそうです。

中には、二幅四方の白絹を二、三枚敷き、その中央に胞衣壺、桶を入れて、敷いた布を上にかけたり隙間に詰めるようして、壺などが動かないようにしました。

またその箱の中には銭、筆、硯などを入れたそうです。そして、釘を打ってかたく閉めます。


江戸期に入ると、首桶のように、紐をかけて十字に閉じたそうです。


胞衣を納める場所は、「あの世」とクロスする場所と言われている「四ツ辻」、または屋敷、城の「境目」で、男児は城屋敷側、女児は外側に設定されたと言います。

納める穴は、あらかじめ掘っておき、四方を石垣で作ってあったそうです。胞衣を納め終わると、石の蓋をしめます。

これは、死産の場合も同じで、残念なことになった胎児も、このようにして、あの世とこの世の狭間に、埋葬をしたそうです。


そして胞衣納めの日は、陰陽師が占い、産所から見て、吉方に向かって出て行きますが、この時も、陰陽師と蟇目役が二人でいくことになっていたようです。

それから、納め終わると、なぜか大笑いしながら帰城するそうです。



 さて、父になった殿はどうしていたでしょう。

まず、奉行が「産立うぶだちの祝い」「産養うぶやしないの儀」を執り行います。


 子供が無事に生まれた場合、その夜に執り行われる宴席を「初夜の祝い」と言います。

これは、嫡男の誕生だった場合、非常に盛大に祝われ、広く家臣を集め、昼夜を徹して祝ったそうです。

宿老達は、それぞれ刀を一腰ずつ、また宿老ではない有力武家は、馬を献上します。殿はそれを一旦納めた後、後日、領地の主要な神社に、奉納をします。


 それから、三日夜の祝い、五日夜の祝い、七日夜の祝い、九日夜の祝いと続きますが、これらは、日によって招待客が変わり、彼らは御内室様や生まれた若君への祝いを手にやってきます。それは衣類であったり、食べ物、調度品のようなものだったそうです。

ただし、嫡男の場合、家臣たちはこぞって、刀や武具、馬を贈りました。

殿の本城で祝う場合は、馬などは、主郭の広場で披露をしました。


ある大名家の家臣が、自分の息子たちに白の水干を着せ、馬に乗せて、それぞれ、若君への贈り物である兜、甲冑、弓、槍、刀などを持たせて、本人は駿馬を曳いて披露目をしました。

その口上が「息子共々、若への祝いの品とし候」。

馬や武具だけではなく、息子たちも若へのプレゼントというわけですね。

祝いの品の破格さもさることながら、子供たちの容色が優れていたこともあって、殿を始め、一同を、大いに感心させたという逸話が残っています。オシャレですね!

戦国期は、殿にアピールしてナンボの世界ですから、これは流行ったのではないかと思うのですが、肝心の若が亡くなっちゃったのか、広まりませんでしたね。

まぁ、博打みたいなもんですね。


 七日目になると、若君は「産剃りの儀」として、産毛を削いで、産土神を祀る神社に金品とともに納めます。(九日目、あるいは三十二日に行うこともある)

これは何かあった時に、産土神がその髪の毛を持って、引き上げ、助けてくれるという信仰があったからです。


そして七日夜の宴で、殿は重々しく、嫡男の幼名を家臣たちに披露します。

この七日目というのは、とりあえず、子供が無事にあの世のものから、この世のものへ移動できた日と考えられていました。ここまでの祝いは「白」を基調とし、古い資料では家臣たちも白い衣装に身を包んだと書いてありますが、戦国期にはどうだかはわかりません。

これをもって、若君は一家の者と認められました。同日に、御内室様も産屋を出られていますね。


 そういえば、平安時代の頃の帝、公家では、生まれた日や時間によって、付ける名前や着せる産着の色が違いました。戦国期になると、大名家のいろんな幼名を見てもそういう漢字は使われていませんし、産着は腹帯を浅葱色に染めたものだったので、そういう風習は、武家には伝わらなかったのかもしれませんね。ちなみに産着は新品ではなく、使い古した柔らかな布を染めて使われていました。戦国時代はご内室様の腹帯でしたね。


しかし、信長公の息子さんみたく「人!」とか「良好!」とかね、どんな顔をして聞いたらいいんだか、わかりませんけどね。

「お母さんが鍋だから『しゃく』!」ってのは、ダジャレ三昧の戦国期ではウケたかも?

「髪の毛が茶筅っぽいから、『茶筅』!」とか言われたら、「それはおまえや!」と心の中で、突っ込んだ家臣もいたはず。


さて、この頃、無事な出産を祝して、第一段階の物忌を乗り越えた、産婦である御内室様をはじめ、女房たちに金品を贈り、また蟇目役たちにも引き出物を贈り、神社と寺に念入りに布施をしました。



九日目の宴は、無礼講で遊びの要素を盛り込んだ宴が行われ、これが祝いの一区切りになりました。


三十日前後には「行始ゆきはじめ」が行われました。これは子供の吉日に、犬の字を書いて、吉方に向かう行事で、今も行われている宮詣りの原型でしょう。この頃は、子供の吉日というものが重要視されており、九日の祝い以降は、日の吉凶を見て行いました。


それから、「五十日いかの祝い」が執り行われ、殿が若君のお口に匙(あるいは餅)を含ませる儀式で、お食い初めとはまた違うそうです。御食い初めは「百日ももかの祝い」になります。


こういった行事が、有力な家臣の奉行の指揮のもと、形式張った儀式が主殿で執り行われ、その都度会所を使った宴会が開かれました。

こうした男性側のお産への参加、有力家臣による「奉行」、「蟇目、鳴弦役」、「御産所役」は、嫡男三人が産まれた後、または母親の身分が低く、嫡男になり得ない子の出産、また殿が代替わりしている場合などは、規模が縮小されました。

最後の場合を除いては、御内室様の実家やその縁者が主体となって、執り行われる場合も多かったようです。


信長公も、嫡男信忠公がお生まれの際は、生駒の方の産所であり、実家である小折城に駆けつけ、無礼講の宴席を楽しんでおられる様子が残されていますが、自らの居城で、嫡男誕生の祝いの宴会を設けた様子はありません。


その後、信忠の乳母に手をつけ、娘を産ませていることから、信忠が五歳以降(或いはもう少し早い時期)には居城に引き取っており、そこから正式に嫡男とするために、正室、鷺山御前(美濃の方)の子として育てたと考えられます。


またこのことから、当時、鷺山御前を憚る状況、つまりご懐妊や流産、死産、あるいは死亡が続いていたのではないか、少なくとも妊娠が見込まれる状態が続いていたと思われます。


 その後、三、五、七歳と行事が続きますが、ここでは、一旦切らせていただきます。


 次に殿のお子様をみていきましょう。

生まれてすぐに、白装束の女房たちが、御湯を張った桶に入れます。時には感激した殿が、お湯を遣わした事例もあります。


夕刻であれば灯を点け、周りでは、相変わらず、破魔弓がブ〜ン、ブ〜ンと音を立てています。この鳴弦の儀は、殿の思い入れが激しい場合は、庭に二十名ほど侍らせたというのもあります。

なんだか、大変な役目ですね。


また、巫女が大好きなご家庭では、砂を撒いてもらったりしていました。


もちろん、冬場や寒い日であれば、帳を下ろして、戸を閉めて、火を両サイドで焚いて、春のように暖かくしたそうです。


初めてのお風呂では、牛脂、または羊脂、それから虎の頭の骨などを入れると、古来より、無病息災になると言われており、平安時代にはなかなか虎の骨が手に入らなかったことから、張子の虎を子供の頭側においたそうです。

尾張一国時代から、虎の皮をガンガン、引き出物にできるセレブ系大名の信長公などは、虎の骨も入れ放題でしょう。


また、お風呂には、五根湯(柳、桃、れん、梅、槐)、或いは金銀草や益母草の煮汁を用いると、生涯、瘡疥ができないそうです。


この後、七日間、朝夕に仰々しく入れるのは、戦国期には、格式高い家くらいで、臍帯が取れるまでは、寅、卯、酉の日に御湯を使っていたようです。


また、糸で縛って、父である殿に切って頂いた臍帯ですが、6、7寸残した部分を布で包みます。

よく叩いて柔らかくした練絹(帛布)と新しい綿(安土桃山時代は大名家では木綿、それ以外では葵から作った布)の4寸四方にカットした物を合わせて、二十日間、包み込みます。

三日目にはお臍を焼き、雑菌に侵されないようにしました。もしジクジクするようなら、枯礬(焼きミョウバン)を付けると良いそうです。明礬には殺菌作用がありますから、なるほど、という感じがしますね。


そのほか、個人的にショックだったのが、連舌ですね、舌小帯短縮症ですね。

麒麟屋、コレなんですけども、コレね、ちゃんと切っとかないと、子供は喋ることができず、転舌になるそうです。いや、喋りますけど。

rの発音出来ねぇんで、イタリア語とか激しく、たどたどしい違う言語になるんですが、それでも、喋れますよ!ゆっくりなんですけど、喋ります。黙れってぐらい。ダラダラ喋るの得意です。文章とおんなじですね。

いやだ、戦国期に行ったら、巻き舌できないから、信長公から疎まれるかも。

「かかれrrr(巻き舌)」って、できないとダメなのかなぁ。


 さても、さても、巻き舌はさておき、乳児は出生時から七日間で体が整い、魂も体内に宿り、完全な人になるえられていました。お七夜の風習は、このことから派生してると申し上げました。

反対に望まぬ妊娠、出産だった場合、しきりと堕胎、赤子殺しが行われたのも、この考え方に起因しています。


何度も言ってますけども、子供というものは、当時、生まれた状態では「人」ではありませんでした。

32日を一周期として、子供は熱を出して、人に近づいていくとされていました。

これを「変蒸へんじょう」と言います。

現代でいう、「知恵熱」というものがそれに当たるらしいです。

この「変」の周期で、五臓六腑や眼などの器官が作られていくので、変がなければ、その月の部分が機能不全に陥るそうです。


食事においては、まず、生後三日目までは、「朱蜜」と呼ばれるものを与えます。

「真朱(第二硫化水銀)」を砕いて精錬したものを、おおよそ大豆ほど。それに、蜆の殻一杯分の「赤蜜」に混ぜたものを、綿に染み込ませ、吸わせるそうです。

この大豆一個分が一日分で、三日で三個分を一度に作り、三日で吸わせきるので、少食の赤ちゃん、大迷惑かもしれませんね。


赤蜜とは、なんでしょうか。

岩場にかけられた蜂の巣から取れた蜂蜜を、白蜜と呼ぶそうです。それ以外の蜜のことか、蜂の巣を煮て採取したものか、白蜜を煮たものか、今となってはわからないようです。


この朱蜜によって、精神と魂魄を体に鎮める役割があったそうです。


しかし……確かに、第二硫化水銀は、現在も漢方薬として、使われており、毒性は低いそうですが……低いって、低いって、低くたって毒性があるってことですよね……

ましてや、蜂蜜は、現代では乳児には毒になると言われていますから、新生児に与えるというのが、なんだかビックリです。でも、蜂蜜は歯が悪くなるから、生え変わるまでは禁止とも書いてあるので、赤蜜は蜂蜜ではなく、甘葛のような植物の甘い成分かもしれません。


そして、これが終わると四日目には、牛黄を与えます。いわゆる牛の胆石ですね。

これは作り方は朱蜜と同じで、やはりどうも「赤蜜」と混ぜるそうです。蜂蜜系だとマジやばいですね。

また四日目からは、米をすり潰し、乳酪状(チーズやバター)にした飲み物を、大豆三粒分、一日三回与えるそうです。


この米のすり潰したものを七日間与えると、次には、「」、或いは「哺穀ほこく」と呼ばれる、穀物を潰したものを与え始めます。

これは、男の子は甲乙、女の子は壬癸に始めると良いそうです。


「哺穀」は、乳母や御差とかがアニアニ噛んで与えていたようですが、これは『日本書紀』にもそのまんま「飯噛いいがみ」として残る、日本古来からの風習です。大丈夫か?乳児の死亡率、上げてない?

しかし、これによって病気にかかりにくくなるそうです。


いや、離乳食じゃないんですよ?


日本の昔の赤ちゃん、難易度高いですね。なんだか、虎の赤ちゃんみたいに、これを乗り越えられる強い個体だけ、育てるぞ案件みたいな気がするのは、気のせいでしょうか。


不安になる産褥編でした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る