戦国大名、子が出来たで御座る(出産編)

さて、今回は出産当日の話になります。


 出産の予兆というのは、脈に現れるそうで、尺中(手首にある脈を取る三つのポイントのうち、一番手首から遠いところ)が「沈細にして滑」であると、すでに赤ちゃんは「もう、出よっかな」となっているそうで、この脈が現れて、夜中に腰が痛むと日中に、日中に痛めば夜中に生まれる、とされていました。


その日のうちだといいんですが、どうなんでしょうね。


そして、いよいよ、御内室様が御出産召されるぞとなりますと、まず、お産を指揮する総奉行の元へ、報告が上がります。

すると、すぐさま、父親である殿に報告の使者が飛びます。


 精進潔斎し、この日に備えていた、蟇目、鳴弦役の重臣たちが、御産所の中の御内室様が子供を産まれる産屋の前で、ブ〜ンブ〜ンし始めます。彼らは、この日のために、寺や神社で練習もしていたそうです。

この音で、妖魔が退散するそうなので、上手にブ〜ンブ〜ンしなければなりません。しかも、出産が終わるまでです。持久戦ですね。


 御産所となった屋敷の庭では、陰陽師が祭壇を作り、火を焚き始めています。

御内室様が御入りになられる部屋の隣では、僧侶たちが護摩を焚き、よく通る大きな声で読経をしています。


穢れを嫌う神社の神主は、知らせを受けて、本殿に入り、祈祷を始めます。

また、懇意の寺の僧侶達も、知らせを受けて、本堂にて読経を始めます。


御産所の部屋の中に、産気づいた御内室様が、白装束に着替え、心安い侍女達を引き連れて入られます。

この部屋に入る方々はみな、白装束です。


御内室様がお子様をお産みになる部屋のことを、「産屋」と書き、「うぶや」と読みます。同じ「産屋」でも、屋敷の外の庭などに建てられた、出産のための小屋のことは、「さんや」と読むとする説があります。


また、産屋の絵は、ネット上でもよく出回っており、「産屋は大通りに面して建っており、公開の場で行われた」とされているものがあります。

これは保立道久氏の唱える『公開された出産』に拠るもので、氏の根拠となり、出回っている『融通念仏縁起』の図は、念仏教によって救われたという布教用に、わざわざわかりやすく描かれたもので、歴史学者さんの中でも意見が分かれています。


そして、平安期は貴族も河原で産んでたという、コラムを読んだことがありますが、『紫式部日記』でも、普通に屋敷内でお産みになっておられますので、転生しても大丈夫かと思います。


別に産屋が設けられたのは、穢のせいですが、お産の穢れというのは、結局は血の穢れという方もおられます。

しかし、少なくとも、戦国期までは、それを拭う為のお経があり、どちらかといえば、もともとは死の穢れではないかと思うのです。

と言うのも、最終生理日から出産まで「十月十日」と言いますが、実際は40週で約10ヶ月。残りの十日とわざわざつけているのは、子供があの世のものから、この世のものへ移行する期間のことではないのかと考えると、このお産の体制、産褥期の行事、考え方と言うのが分かりやすいのです。

そうなると、お産は「隠すもの」であり、大通りには面していない気がします。


ということで、お釈迦さまは道端で、イエス様は馬小屋でしたが、日本の我らは、概ね、人目につかないところで、執り行われていたと考えられます。


このお経などに関して、また、後日、纏めたいと思います。


 さて、出産による穢れの禁忌のために、竃も分けられ、別の火を使います。

大変ですね。


 産屋には御簾の下がったスペースが設けられています。

季節が夏で暑い場合は、お部屋の奥まった陽の差さない場所にそれがしつらえてあります。そして、戸や窓は開けはなち、冷水を用意しておきます。

冬から初春の頃は、戸を閉め、内外を春のように暖め、御内室様のお腰には冷えないように、衣を巻きます。


御内室様の、御入りになられた産屋には「お産棚」が設けられ、そちらの方には神様に鎮座していただき、瓶子などが供えられています。


また僧侶が、軽く御内室様の髪の毛を僅かばかり削ぎ、髪下ろしをし、受戒をして「出家」させ、仏のご加護の篤からんことを祈ります。

うむうむ、こんなとこでも神仏習合ですな。


脈を取った医者が、漢方薬をお出しし、受け取った侍女が、タイミングを見計らって御内室様に手渡し、御飲みになるのを一同、固唾を飲んで見守ります。


医師は常に脈を取ります。


この脈でさまざまなことが、わかるようなんです。

凄いのが、受難の相ならぬ、受難の脈なんてのがありまして、ここいらの人が皆、受難の脈で、なんでかと思ったら、災害が来たなんてことが書いてあります。

是非とも、なんとか現代に蘇らせ、南海トラフとか、富士山噴火などの予知に活かして欲しいですね。


かくのごとく、御内室様のおられる産屋の外では、陰陽師が何やら呪文を唱え、僧侶が読経をし、古来よりの仕来り通り、有力な家臣達の手による破魔弓が鳴り響き、鏑矢が音を立てて射られる、鳴弦、蟇目の儀が続いています。


さて、産屋の御内室様は、「ああ、産まれそうだな」と感じたら、みだりに力まず、力を抜いて休養を心掛けます。そうしなければ、子供が横を向いたり、逆子になって、難産になります。


御心に煩悶を覚えられますと、よくありませんから、付き添っている侍女が、御湯に溶いた白蜜を啜らせます。


更に陣痛が付いてきますと、御内室様は上から垂れ下がった紐をお持ちになられ、お腰を自らの乳母や親族の女房達に、後ろから抱えられながら、激しくなる痛みに耐えます。

この腰を抱える人は「御腰懐」と呼ばれ、他の侍女たちとは別に、後に引出物が渡されています。


側では巫女が砂を撒いて、悪霊を祓い聖域を保っています。

これは散米うちまきという米を撒くものです。豊かだった平安時代の公家や後世では、白い米を撒いたようですが、戦国当時の場合、白い砂を撒いたと記述が見られます。


端武者、足軽や小者や庶民の出産では、僧侶や陰陽師は省かれ、人が足りない場合は、巫女が腰懐を兼ねることもあります。

反対に大名家や有力な武家では、次第に巫女の姿が消えていきます。

大名、有力武将たちは、医師との繋がりが増えるにつれ、道三先生の薫陶を受けた彼らの意見を入れて、巫女を排除する動きがあったのかもしれませんね。


 さて、陣痛に耐える声をかき消すように、巫女は米や砂を撒き、庭の陰陽師は声を張り上げ、蟇目、鳴弦役たちはヒュンヒュン言わせ、隣の部屋の僧侶は大声で読経をします。


駆けつけた家臣たちも、屋敷の周りや庭で、大声でお経を詠みます。

虎口の辺りには、足軽や小者、町屋の皆さんが集まったかもしれません。


御産所に御渡りになられた殿は、白直垂に着替えられ、小姓が僧侶から下賜された経典の巻物を握り、無事に我が子が生まれることを、家臣共々心を一つにして祈ります。


何しろ、戦さ場で鍛えた声です。さぞや、うわんうわん、響いたことでしょう。

その声に、犬なんかも遠吠えをしたり、鳥が飛び立ったりしたのではないでしょうか。

もし、殿の本城の二廓の重臣のお屋敷とかですと、まさに、本城あげての一体感のあるお産です。


祐筆は、お産の進み具合に不具合があれば、本城の敷地に建っている、或いは懇意の神社や寺へ祈るように、催促をします。


 中には、長い分娩にお腹が減ってしまう御内室様もおられます。

そういう時には、柔らかな白粥を勧めます。決して硬いご飯類を食べさせてはいけません。喉が渇いた時には、粥の重湯を飲ませてあげましょう。


また疲れ切って、ウトウトしてしまう御内室様もおられます。そうした時に、御腰懐が不適当に立ったり、座ったりすれば、中で子が圧迫されて亡くなってしまい、難産になります。


御侍女達もご飯は食べたのでしょうか?気になります。


 お産が進み、御内室様の御苦しみの声が、高くなり、部屋から漏れ聞こえて来ます。

どんなに苦しくても、体を曲げてはいけません。曲げていると、子供は転動(回り動くこと)し、産門には辿り着いても、産門は閉じてしまうので、子供が力尽き、難産になります。


 そうこうしていると、胎漿(羊水)が下りて参ります。そうすると、一、二刻(2〜4時間)で出産となります。


庭では陰陽師が吉凶を占い、祈り始めました。

巫女は神の符を、神に供えた水に浸したものを、「催生の符水」(お産を促す呪い)として飲むことを勧めますが、道三先生は、「そんなものは、金稼ぎのため!飲んではいけない!」と切って捨てておいでです。


付き添っていた医師が進み出で、医師の調合した「滑利迅速」の薬を勧めます。これは兎脳、筆頭灰、弩角、蛇退だそうです。なんでしょうね?ちょっと知りたくない気持ちになりますね。


 前回、お産が進むよりも前に、羊水が下りた話が出ましたが、そういう場合は、猪脂、油、蜜、乳、葵水(黄蜀葵に粘液のこと?)、楡皮(天然の水溶性の粘り成分)、葱白そうはく(ユリ科の根の白い部分、鎮痛?)、滑石かっせき(水液代謝の調節、粘膜面の鎮痛?)などを使用するそうです。

あるいは

滑石の粉末を一両と葵水二合を煎じて、阿膠あきょう(ロバの皮を水で加熱して作るゼラチン)の炒った末と混ぜて、再び沸かしたものを、二度に分けて御内室様に飲ませます。

また当帰、川芎せんきゅう、芍薬、地黄を混ぜた「四物水」を飲ませます。

そして葱を濃く煎じたもので、産門を洗い、滑石の粉末と蜜を混ぜたものを中に塗るそうです。



 こと極まり、いよいよということになると、殿が御簾の中に入り、自ら御内室様の腰を抱えられることは、珍しいことではありません。殿たちが産所に入られ、腰を抱えたという記録はたくさん残っています。このように、この頃はお産は「男子禁制」の場ではありませんでした。


殿も、大変そうですが、夫婦の一体感は深まったかもしれません。


ここで一気にお子様が出て来られれば、問題はないのですが、逆子だったり、横産だったりすると、お子様は受難の時を迎えます。


もし、逆子で手や足が先に出て来た場合、な、なんと、細い針で刺して、その上塩を塗ります。

或いは、足の裏に塩を塗り、カルカルと大急ぎで掻きます。更に御内室様の腹も塩で擦ると、良いそうです。


頭から出て来ても、そこで詰まった場合は、これは臍の緒が絡まっていますから、御内室様を仰臥位にし、ゆっくりとお子様を押し上げ、徐々に手を伸ばし、な、中指で臍帯を外すそうです。この産道に手を入れ、お子様を押し上げるというのは、回旋異常の時にも使われます。因みに、お子様の額が現れた時には、直腸の方へ手を入れるそうです。


お産というのが、御内室様も、介添えの皆様も、そしてお子様も、命がけだとよく分かります。


 さて、無事にお子様が産まれますと、臍の緒を切る前に、すぐに!口腔内を拭われます。

甘草を煮立て、絹漉しした水溶液に浸した布を指に巻いて、口の中を拭ったと言います。そうしなければ、痞病ひびょう(胸や胃腸系の病気)に掛かるそうです。

中には「一合を数度に分けて吸わせて飲ませ、吐かせる」とも書いてある部分もあります。そうすると、悪い汁が出て、無病息災になるそうです。吸っても吐かない子は、そもそも悪い汁は飲んでないそうです。

それから、軽くお子様を拭き、殿、自らが臍の緒を切られます。

この時に、頭に白いものが付いていたり、痣がありますと、「あら、殿ったら、御盛んね」と言う目で見られることになります。


 平安時代に遡ると、臍の緒は産婦の実母、祖母などが切っておられ、鎌倉、室町にかけては嫡男に限り、実父が切るるような形に変わってきました。

この頃、臍の緒を切ることは「つぐ」と言い、御家の存続を意識していることがわかります。


室町期のお産を記録した『御産所日記』に、将軍たちが白の直垂姿になり、臍の緒を結び、竹刀で切っておられる様子が書かれています。

その竹刀は、お産の行事を執り行う事を任命された「総奉行」が、晴れがましくも白直垂姿で、三方に乗せて恭しく、殿に差し出します。


帝や将軍ともなると、お出ましになるのは、「嫡男、誕生!」の報が入った時だけのようで、家臣からの上申によって、おもむろに着替えをされ、三方の上に置かれた竹刀で臍の緒を切っています。


 嫡男が生まれ、殿に主君がおられるの場合、嫡男誕生の報は、速やかに主人に伝えられて、刀が即座に届くシステムになっていたそうです。

また、大名家でも、幕府がしっかりしていた頃の守護職の殿の場合は、将軍より届いたそうです。

多くの家臣を抱える殿も大変ですね。


 お子様が生まれ、臍の緒が切られますと、乳付ちつけの女が呼ばれます。

これは、当家の血筋の女で、産まれた赤子と反対の性の子供を、ここ最近、産んだ人でした。

ということは、乳付は二人、待機していたことになりますね。

これは、乳母よりも先に乳を与えることで、体内に当家との繋がりを刻印する為、更に反対の性がクロスすることで、丈夫に育つ為です。ええ、首を捻らないでくださいね。

当時は、そういう常識だったんです。


また、この段階では、御差は決まっておらず、乳付の女がそれまで授乳してたという説もあります。


ただ、「当家の血筋の方」は、いわゆるお姫様な訳で、子供を産んでも自分の子供には授乳してないので、出産後、日が経っていれば、乳は出ないと思われます。

実際には、最初の儀式のあとは、乳付の役目の方のお子様の乳母が、授乳していたのかも知れませんね。

ただし、正式には、当分の間、次回で言及いたしますが、おまじないで、色々と別の物を飲まされてるご様子です。


そして、この乳付の女は、この赤子の後見になったそうです。


 さて、御内室様に於かれましては、無事に子が産まれても、後産が重要であることは、古来よりわかっていました。

そこで、こしきという蒸器というのか、湯煎用というのか小さな穴の空いた細長い土師器の容器を持った侍女が、屋根の上に登り!えいや!とその甑を投げ落として割ります。

昔は男児ならば南側、女児ならば北側と決まっていたそうですが、段々と曖昧になったようです。

これは、今となっては定かではありませんが、後産を促すまじないだったようで、しきりと様々な資料の中で、描かれています。


また、この後産の件に関して、鎌倉執権、金沢貞顕の書状が残っています。

寺で安産を祈ってくれている僧侶に向けて、孫の誕生をリアルタイムに報告した、大変貴重な書状です。


一通目には

「ただいま子の刻に、無事に男児が産まれた。」

と書状を遣わしています。


二通目は僧侶の祈念に感謝しつつも

「男児が産まれた後、辰の刻まで何事もないが、後産がまだ始まらないので、返す返すも心もとない。どうか更に祈って下さい」

と頼み込んでいます。

三通目は

「無事に後産が終わった。北条高時様(太守)より、使者が来て御劔を頂いた。」

と感謝の言葉を連ね、喜びに溢れた書状になっています。


後産が進まない場合は、足の指に灸を据えたそうです。お医者さん、結構忙しいですね。


 御内室が後産をされている頃、生まれて臍の緒を切られたお子様は、産湯の儀が待っています。

産湯の儀は、この後、湯殿始めとして、お七夜まで、朝夕二回湯に入れられる度に行います。

相変わらず、ビョンビョン、鳴弦の儀が続く中、博士が儒教の中の「明経道」、或いは史書の「紀伝道」の中から、祝意のある一節を取り上げて読み聞かせます。

あたりでは、まだ散米が行われています。


砂、足りたのかな。


お産も長いですが、この項も長くなりました。

さて、次回、産褥期の御内室様たちについて、かけるといいなぁと思っています。


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