戦国大名、子が出来たでござる(妊娠後期編)

さて、前回は妊娠前後から、中期あたりまでのお話をした、つもりでございます。


そして、細心の注意の下、ご内室様のお腹が、順調に大きくなっていきますと、出産の準備を整えて行きます。


現代でいう岩田帯を巻くと、乳母の選定も始まります。


古来より貴人の乳母は、基本的に3人のチームでしたが、これは、必ずこの人数だというものではありません。

乳母は子供の人格形成に影響を与え、なおかつ、子供が成長すると、家中で影響力を発揮することになるので、基本的には殿の実家の関係者がリーダーになり、それから奥様の実家の信頼できる方、家の教育方針に準じた教養深い方という組み合わせが多かったようです。

しかし、ご内室様が家臣の娘であったり、身分が高くない場合は、奥様の関係者でなく、別の有力な家臣の縁戚関係の女を採用し、家中のバランスをとったりしていたようです。


乳母に限らず、殿に近く侍る上級女房(侍女)に、身内の女性がなることは、殿との意思疎通が上手く行くポイントでしたので、家臣たちは、こぞって身内の信頼できる女性を推薦をしていました。


明智光秀も、自分の妻の関係者が、信長公のお気に入りの上級侍女で、後年、彼女が亡くなったことで、力を落としたとルイス・フロイスが伝えています。


その乳母には、実際に乳をやる乳母、当時は「御差」といいますが、それと教育係の乳母と二種類おり、また両方を兼ねる場合もありました。


乳をやる乳母、御差は、当時の考え方もあり、厳重な選考基準があります。


当時の考え方とは、どのようなものでしょうか。

それは、前漢(紀元前206〜8)の胎教の考え方の影響を受けて、胎児というのは、元来、無垢で無個性な存在であり、妊婦の心身の影響を強く受けるというものです。それから、前回の胎教が出てきたわけです。

そして乳児の頃は、御差の生活態度や心持ちが、乳を通じて子供に影響を与えると考えられていました。


つまり、「母と子の絆」で書きましたが、信長公が乳児の頃、気性が激しかったのは、当時では、土田御前の妊娠中の過ごし方と、御差の性格や生活態度のせいであると考えられていました。

その為、個性の基が出始める二、三歳頃に、御差を何人も交代させて、すんなり乳を飲ませることができた、池田恒興の母親が選ばれました。


現代では、相性が良かったのかなぁと思いますが、当時では、恒興の母の性格、生活態度が素晴らしく、その乳を飲んだ吉法師が影響を受けて、落ち着いたという解釈になります。

常識が異なると、解釈がえらい変わりますから、注意したいポイントですね。


 ということで、御差の選考の基準とは、具体的にどのようなものかというと、穏やかで素直な性質、慎しみ深く、教養溢れるものの言い方は勿論、病歴や怪我の跡がなく、そしてふっくらとして、骨太ではなく、身体に歪みがないこと。顔の色艶は良く、色白で、歯茎は赤く、口臭がないことなどがあげられています。

また、乳母や御差に関しては、傅役、御伽と共に別項を設けたいと思います。


御差は、候補は絞りましたが、より産んだ日が近いほうがいいこと、実際に乳の出がどうか、またお産がどうだったか、乳兄弟になる子の様子も見なければいけませんので、ご内室様の出産までは、決まってなかったようです。


また、その他、出産に参加する、祐筆、医師、御験者、修法を行う僧侶、陰陽師、巫女、介添えの侍女、乳付けの女性などの人選もします。

そして、殿の子が生まれることを阻止しようとする、妖魔撃退のために、家臣団からも蟇目ひきめ役、鳴弦役が選出されます。


医師は出産そのものではなく、前後に服用する薬の調合のためにいたそうです。

また産婆が専業の職業になるのは、江戸期も後半になってからで、当時は経産婦の侍女が、産婆役をしていたものと考えられています。

このなかで、出産中に腰を抱く役目の侍女は、また別格で、産婦殿の乳母やお身内の女性、信頼できる古参の侍女だったようです。


この腰抱きは、嫡男候補を産むかもな場合、終盤から平安朝の帝もされていた記録があり、案外、立ち会い出産というのは、昔から日本ではある風習だったことが分かります。


現代の男性とは違い、こと、戦国期の殿は出血や苦しみなどには慣れておられましたから、父親学級に出て、イメトレしなくても大丈夫そうですね。

しかし、極限状態のご内室の腰を抱くのは、初回の殿には難しく、ここはレクチャーがあったと思います。


 このように、着々と出産準備が進むと、有力家臣の邸宅が「御内室様御産所」に選定されます。

御産所を提供する家臣のことを「御産所役」と呼び、「産褥の共有」による絆が結ばれ、これを介在とする権勢の拡大が期待できるものでした。


 しかし、信長公の場合、嫡男候補たちのご産所は、自分の重臣ではなく、ご内室様の縁者、実家で産ませています。

嫡男信忠、長女五徳、次男信雄は、側室生駒の方の実家、小折城で生まれています。

そもそも、生駒の方とは、通い婚でしたしね。

また三男信孝は、熱田神宮神官家の出身である、家臣岡本氏の家で生まれています。岡本氏は、信孝の母親と縁戚関係にあるといわれています。


 これは、こうした縁を利用して、パイプを太くしようとする慣習を排除したものかもしれませんし、実は、正室美濃の方が、ご懐妊していた、或いは御不幸があったからかも知れません。

乳児死亡率というのは、寺などに残されている過去帳を調べるのですが、当時は「産まれて一週間は人ではない」或いは、「『つ』が付く間は神の子」という考え方があり、無事に産まれても、間引きが多かった為、正確なところはわかりにくいです。


確かな資料が残っているのは、江戸期の将軍家ですが、将軍家の2歳未満の死亡率は70%と言います。ご内室の皆様の運動量は、戦国期のご内室の皆様に比べて、格段に落ちていますから、また違うのかも知れませんが、半分が死んでしまうとしても相当に過酷な世界です。


 さて、さて、そんな決めことがなされていく中で、御内室様は、輿にお乗り遊ばされ、御内室様の乳母やお侍女衆共に、静々と御産所へお移りになられます。

これは、おおよそ9ヶ月のころだったそうです。


この御産所は喧騒を避けて、堅く門戸を閉ざして、ひたすら静かにお産が来るのを待ちます。穢れのある女性(生理中)、服喪中の者、外部の無用な者は来訪させてはいけません。胎気を冒して難産になります。


ここから、また禁忌が課せられ、御内室様は、寒い季節であっても、火熱で温めた服を着ては、急にお腹を下され、腹が引き攣れ、胎児が上がり、腰が痛んで寝返りができなくなるそうです。

さらに、この時期になると、乾燥した食べ物を食べるのは避けるように言われます。そして、十ヶ月になると髪の毛を洗ってはいけなくなります。胎児が横を向いたり、逆子になってしまうからだそうです。


たまに前駆陣痛と呼ばれる、腹痛がきますが、みだりに驚いて騒いではいけません。産まれるかどうか調べる為に、試水(子宮口が開いているか確かめること)を何度もすれば、胎漿(羊水)が破れて、風が産門に入り、膨張して乾ききり、難産になるそうです。

また、周りが騒ぐと、御内室様が緊張して、難産になるので、「紫蘇飲」を飲ませるように説いています。

また余りに前駆陣痛が来る場合、巫女を呼んで占わせたりすることもあったようで、曲直瀬道三は、非常に苦々しそうに「全くをもって、非科学的!反対に妊婦を驚かせるばかりだ(意訳)」と書いています。


出産しようとしても、しないのは、出産することではない(まぁ、当たり前のような気がしますね)、破水しても慌ててはいけないそうです。

え?大丈夫ですかね?

本当の出産というのは、腰腹の痛みが極まって収まらず、肛門が挺出し、目に火花が散るような兆候があるそうです……兆候……。


もし扶助して歩ければ、耐えるべきで、歩けなければ、物に寄りかかって立ち、それで歩ければ歩けなどと、急に過酷な話になっています。


次回は、分娩についてお届けします。


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