戦国期のおもてなし、振舞の酒

 戦国時代とお酒は、切っても切り離せない関係にありました。

公家の日記を見ても、毎日誰かの屋敷や寺を訪れては、お酒を酌み交わしていますし、武家も朝の会議「評定」からして、殿と宿老たちは盃片手だったとする学者さんもおられます。


公家や武家たちが、いかにお酒を消費したかは、飲酒に関する言葉が、馬の毛並みを表す言葉と同様、沢山あることから見てもわかります。


宴会に於いてのお酒の飲み方も、「十度呑」(十人が車座になって、酒を飲んでいく)「鶯呑」(十杯の酒の飲む早さを競う)など、様々に考案されています。


その結果鯨飲(大酒)し、沈酔(泥酔)したり、余酔(二日酔い)することになります。


 ロドリゲスの『日本教会史』を見ると、日本の文化においてお酒による歓待は「客人がどんな身分であろうとも、その客人を尊敬し厚遇するために行う礼法のうち最も重要なもの」と書かれています。

またフロイスたちも、「ムッチャ酔っ払って理性を無くして、それを自慢気しているのって、本当に無いわ〜」としかめっ面で報告書を書き上げています。


しかし、ここに疑問点があります。


一つ目は、江戸期とは違い権力基盤がゆるく、冷静な判断を求められていた武家が、毎日、毎日、朝から晩までお酒を飲んで、酔っ払っていて大丈夫なのか。


特に主人の城郭内に拝領屋敷を持っている武将同士の振舞なら未だしも、何時間もかけて相手の城屋敷まで出向いて振舞を受ける城持ちの武将が、いくら近習や足軽たちを引き連れて移動するといっても、帰り道、酔っ払っていて大丈夫なのか。

しかもお付きの人たちも、それなりに酒振舞を受けているわけで……

前回の巡礼の主郭観光事案とともに、戦国期の武家の危機管理に、疑問を感じずにはいられません。

「血を血で洗う戦国時代」なんて言いますが、思いのほか平和だった?


更には武家も商売を手掛け裕福な方々もおられますが、禄だけでは食べていけず百姓をしているという方々もいたと言います。

なのに?


困窮といえば、公家の皆様は、塀の修繕もなかなか出来ない程であるのに、毎日のように酒肴を手土産に、余所のお屋敷やお寺にいってはお酒を飲んでいます。


何でそんなに浴びるほど飲めるのか。


そもそも餓死者が毎年必ず出るような穀物の生産量であるのに、書いてあるほど上から下まで酒を消費しているとしたら、酒を作る穀物はどこから調達していたのか。


一体どういったカラクリがあるのか不思議でたまりません。


また、そもそもです。

元々日本人はアルコールを分解する酵素、ALDH2の欠損率が44%であるにも関わらず、老若男女、浴びるような飲み方をしているように史料には残っています。


しかし急性アルコール中毒、或いは武将の肝硬変などによる死亡、アル中による弊害が出ている記述は、ほぼほぼ見られません。


アル中だなと思われる戦国期の大名は、今のところ上杉謙信くらいで、彼は馬の上でも飲めるようにと盃に工夫している程の酒豪で、酒断ちすると幻影が見えていたらしいです。


ということで、実際のところかなり水で薄めていたり、味醂のようなものだったのではないかという説があります。


事情は違いますが、『ヨーロッパの食生活』によると、「16世紀のスウェーデンでは、今日の40倍ものビールを消費していた」と書かれており、更に『図解ヨーロッパ中世文化誌百科』には「大麦で作った中世のビールも重要な栄養源の一つで、アルコール度数は低かったと思われる」とあります。

ワインに関しては、高価だったということもありますが、『ヨーロッパの食生活』によると、あまりよくない水質の「水の味を良くするため」「消毒をする意味で」「ワインを水に加えていた」と書かれています。


このように本場のヨーロッパでも大量消費の時代は、日常生活では薄めたものを飲んでいたと考えられています。


そう考えると日常的な飲み物といえば、米を炊いた汁である漿こんず、白湯もしくは水という時代ですから、戦国期のお酒は私たちの口にするそれよりも、「アルコール風味の美味しい水」といった感じだった可能性もありそうです。


 また前回触れました島津家久の旅日記に、連歌師里村紹巴の紹介で坂本城に招かれた時に、光秀に茶を勧められるシーンがあります。


ところが天下に大手をかけている信長公の宿老で、文化人と名高い光秀の「茶」に恐れをなして、家久は白湯を所望しています。

この頃のお茶はご存知の方も多いと思いますが、煎茶やほうじ茶などではなく、碾茶てんちゃ挽茶ひきちゃと呼ばれる茶葉を粉にしたものを溶かして飲む、いわゆる抹茶形式のもので、千利休により「茶道」と栄え始めたものになります。


またこの時期は、光秀は当時でいう「茶会」の許しを得ていません。

風呂が入浴+宴会だったように、当時の茶会は、お茶+宴会のことを言います。茶会、法会など会がつくと宴会がつくんですね。


つまり、家久が茶を勧められたというのは、現在私たちがいうところの茶会に招かれたということになります。


こうして「茶」を断った家久ですが、家久に限らず酒振舞を断ることはあっても、振舞で酒自体を断った場面は、寡聞にしてあまり見受けられません。

多聞城の山岡氏の時に「どうせ誰だかわからないだろうから」と酒に口を付けず、ヤマモモをいじっていたというところでも伺えるように、盃をお断りするのは難しかったのかもしれません。


それを考えると、お酒の飲み方は酔っ払うのが礼儀ですから、やはり自己催眠的に、あるいは意図的に、礼儀として「あ”〜、酔っちゃった〜」とやってた?


また当時は休日というものがありませんでしたし、お酒に関して、かなり緩い考え方がされてたようですので、二日酔いにかこつけて、朝寝を決め込んだりしていたのかもしれませんね。


ということで、日常的に頻繁に行われる振舞で出される酒は、水に酒を加えたものだったのでは無かったでしょうか。



 また儀式で酌み交わす酒は、非常に重々しい意味合いを持たせられていました。


 拙作「深読み信長公記」でも書かせていただきましたが、信長公は天文22年(1553)ごろ、斎藤道三と会見を持っています。

『信長公記』にはサラッと書かれているので、重大さがスプレッドされていませんが、この会見で信長公と道三は盃を酌み交わし、湯漬けを食べていることから、信長公は道三の正式な「振舞」を受けていることが分かります。


つまり盃を交わすことで美濃太守斎藤道三は、信長公が当主である織田家と同盟を維持し、弟である信勝派には肩入れしないことを内外に現し、信長公を攻めるものあれば、同盟国である美濃が手合いとして駆けつけることを約束したことになります。


信長公と信勝の争いである稲生の戦いは、道三の死後約四ヶ月後に起きていることから、林、信勝は道三の力を脅威に感じていたことが分かります。


そしてこのことにより信長公は家中をまとめる一番家老から命を狙われるという、とんでもない危険から脱することができ、この会見後からうつけを卒業します。


起請文を交わし、また取次同士が顔を合わせて同盟を誓うものよりも、こうして当主同士が対面で盃を交わすものの方が重いとされていました。


これは道三と信長公との同盟が、道三が亡くなるまで保持されたのと同様、当主同士が対面で同盟を結んだ清須同盟も、信長公が亡くなるまで破却されることはありませんでした。

また反対に、対面していたからこそ、浅井家との同盟が、戦国期と言えども珍しい不意打ちの形で破られるとは思わなかったでしょう。


このように、正式に盃を酌み交わすというのは非常に重々しいものがありました。

この時にはアルコール度数の高いものが出されたかもしれませんね。



 さて平安期の宮中の社交生活は酒を酌み交わすことが必須で、時代を経るにつれ、盃を酌み交わすことに、どんどんと儀式ばった様式が編み出されて行きました。


せっかくですので前回で触れました、武家が酒を飲む場として最も格式の高い「式正の御成」の「式三献」を見てみましょう。

「式三献」は流派によって定式化されており、どういうものをどういう仕草で飲み食いするか決まっていました。

ここでは元々は朝倉家と織田家は同じ家中なので、この流派が伝わっている可能性がありますので、朝倉家に伝わる様式を見て行きます。


 膳は三膳出され、一膳目には「みみかわらけ」と呼ばれる箸台(箸置)に置かれた箸が、貴人の方から見て一番手前に置かれています。

時計回りに「へそかわらけ(小中こちう)」に「生塩」、「大中だいちう」のかわらけ(口径15センチ前後)に「梅干」が紙のかいしきの上に5〜3つ、それから「打鮑うちあわび」、同じく「大中」に「くらけ」、「へそかわらけ」に「生姜しゆうが」。

生姜と生塩の間、箸の向こうに白いかわらけの盃が三枚重ねられ置かれています。


この盃で、一枚目貴人、二枚目家臣、三枚目貴人が飲んだ後で同じ盃で家臣という飲み方で終えます。


二膳目には大中だいちうに鯉の刺身うちみが塩、酢、山葵、生姜という調味料とともに置かれ、三膳目には「三度入さんどいり」(口径10センチ前後)のかわらけに鯉の腸煎わたいり(腸を酒、塩、味噌などで煎り煮したもの)が出されます。

一膳目は貴人の左手に、二膳目は最初右手において、三膳目が出されると、上に移動させて、三膳目を右手の位置に置きます。

床の間に置鳥、置魚と呼ばれる飾り物が置かれていることもあります。


これが終わると主殿から会所に移りますが、その時にもし馬を献上したり、された場合は前の広場に引き出しておき、見ることになります。

以上が式三献になります。


こうした場面での盃は、唇を湿らせてからでないとくっつくかわらけが正式なものでしたから、自ずと水分は盃が吸収してくれてあまり飲まずにすんだかもしれませんね。



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