戦国期のおもてなし「振舞」御膳

 次に振舞で出される御膳について見ていきたいと思います。


当然、人を招いて行われる宴席には、招く人と招かれる人の身分、そして張られる宴の意味によって様々なランクがあります。


 戦国期の武将の日常生活を見ていると、とにかく恐ろしいほど社交的です。


武将たちは頻繁に夏は川狩に、冬場は鷹狩やうずらやらを突きに出かけたりして何やら獲物を得ると、また殿から鶫とか鶉を貰うと、親しい武将を呼んでそれを膳に出すといった感じのもののようです。


これらは形式張ったものではなく、豪華なものであったとしても酒、ご飯、吸物、焼物、和物などが何点か並び、季節の果物やお菓子があり、最後魚を毟ったものや、汁かけご飯にして締めていたのではないでしょうか。


 さてそうではなく、仰々しい振舞の方を見ていきましょう。


軽く振舞の歴史を振り返ります。


 元々入浴の後、浴場の前室で飲み食いをしていましたが、席を移し宴会をするようになり、ただ飲み食いするだけではなく、茶、連歌などをするようになってきます。


また追善法要のために施浴を行い、関係者と宴会を開くことが増え、これは「風呂」と言うより、「法要」であり、更には入浴を含まないものも出てきました。

そうなると「茶会」「連歌会」、あるいは「法会」などが別として扱われるようになっていきます。

特に風呂に入ってお茶を飲むことは、淋汗茶湯りんかんさゆと言い、寺で流行っていきます。


 時と共に発展していく振舞は、室町時代に様々なことが様式として確立をしましたが、公式的な宴会は信長公が天下に大手をかける頃には、あまりにも仰々しく、煩雑なものとなっていたらしく、信長公が簡略化をしたと前回申し上げました。

その内容とはどんな風な感じだったのでしょうか。


 信長公による改革は日本教会史を書いたロドリゲスによると、

「1普通の一般的な宴会、2三の膳の宴会、3五の膳の宴会、4七の膳の宴会、5茶会」となったと書かれています。


 信長公の振舞に関しては、具体的な宴会の史料が残されています。


 武田虎繁をもてなしたものが、『甲陽軍鑑』に残されています。

永禄十一年(1568)六月のこと、岐阜城に武田虎繁一行を迎え、七度の盃の度に引出物を虎繁に渡しました。

かつては17回も酒の置かれた膳を上げ下げして、その度に引出物を渡したのに比べれば、随分と簡素化された気がします。


二日目には正式な饗応である「七五三の御振舞」があったようです。

七五三の御振舞とは、客の前に据えられる一の膳(本膳)には七菜、次に本膳の左に置かれる二の膳には五菜、次に右に置かれる三の膳には三菜が供されるものです。

今回は三の膳までですので、ロドリゲスのいう2番目の宴会だったわけですね。

さらに三日目には能を舞わせての宴が繰り広げられました。

この翌日には、鵜飼に招待したそうです。


 また天正二年(1574)正月二十八日に岐阜を訪れた津田宗及は、翌月三日に信長公の「茶会」に招待されました。

この時の御膳の詳細を『天王寺屋会記』に書き残し、現代で再現されているのでご存知の方も多いのでは無いでしょうか。

これは岐阜歴史博物館さんが時間をかけて研究され、再現されたものを大切に展示されているので、あまり書いていいものか分かりませんので、別のものを。


茶会に関しては、天文年間(1532〜55)ごろから記録を「茶会記」として遺されています。

現代において解説した本も沢山刊行されていますので、よろしければ目を通してください。

また『中世武家の作法』に使われる盃や食器、折敷の種類など詳細が記されていますのでオススメです。


さて天正六年(1578)正月、正式に「許し茶会」、つまり茶会(茶+宴)を開く許可を得た光秀が初めて開いた茶会のお膳です。


この時茶会を采配したのが津田宗及のため、詳細が『天王寺屋会記』に残されています。


本膳は黒漆の折敷に乗せられ

1、鮒ノなます

2、生ツル汁(信長公より下賜された鶴を使った汁物。塩漬けされていない鶴のことで、生の鶴の切り身が入っているものでは無いようです)

3、アヘ物入レテ(スルメと鰹節の酒漬けの和え物)

4、飯タケノコ入レテ(たけのこご飯)

5、ウツラ焼鳥(うずらの焼き鳥)

6、土筆ウト(ツクシとウドの和え物)

7、薄皮ノアンチウ(薄皮饅頭)

8、イリカヘ(煎ったかやの実)


それから

1、サウメン、レイメン(いわゆる素麺)

2、セリヤキ(芹を酢で煮たもの)

3、ウケイリノ吸物(魚のすり身入りの吸物)

4、印籠ニ味噌、山从、ムキクリ、キンカン(印籠に入れた味噌、山椒、剥き栗、金柑の実)


4の印籠は、水戸の御老公の携帯している、身分証明みたいな印籠の前身です。

元は香料、火打石、薬を持ち歩く時に使う袋が主流で、うつけ時代の信長公に限らず、皆、ブラブラとぶら下げて歩く様子を宣教師によって書き残されています。


これが戦国期に三段、五段に重ねる容器に発展し、木製、紙製(重ねて漆でだみる)、金属製とこの頃発展していったようで、さらには蒔絵や螺鈿の施されました。

戦国期に至って、突然容器化した理由に、茶道具のなつめとの関連性が指摘されています。


江戸期には薬専用になったのかもしれませんが(江戸期のことはよく知らない)、戦国当時ではこうした食器としても使われており、この時には重ねた器に調味料の味噌、山椒と箸休めの金柑や栗が入っていたようです。


また印籠詰は、ウリ科の野菜を細工して印籠のように形作り、中に味噌などを詰めて供することもあるそうなので、そちらかもしれません。現在の二月、三月ごろにウリ科のものが取れるのか、ちょっと夏のイメージが強くてよくわからないんですけども。すみません。


こうした振舞では貴人を迎える時には、歓迎の意を示すために「サプライズ」が大事にされていました。

普通、酒の席での給仕は、男性、特に小姓や歳の若い馬廻たちがするのが正式でした。


それを信秀時代の那古野城で、信秀の嫡男三人に盃を運ばせて驚かせるという趣向を取っています。


天正二年(1574)の津田宗及を迎えての信長公の茶会では、一膳目は弟信勝の遺児で柴田勝家が育てた信澄が、二膳目は次男の信雄が、そして三膳目はなんと信長公自身が運んで来られ、ご飯のお代わりもよそってくれたそうです。これはビックリし、喜ばれたでしょうね。ぜひご相伴したい方も多いのではないでしょうか。


信長公は宣教師たちをもてなすのにも、自ら運ばれ、歓迎の意を示されましたね。

また給仕に女性を使い、斬新だと感嘆された例も見られます。


こうした食事の最後には、締めで残ったご飯に汁をかけていただきます。

ロドリゲス氏は「添い物 肉か魚の入った汁物」と書いています。光秀の茶会では「生ツル汁」ですね。

現在吸い物と言いますが、当時は添い物と呼んでいたのでしょうか。


大きな食台(食卓)に置いてある野菜で作った汁を少し取り、更に別の食台から鶴、白鳥、鴨で作った汁物を残ったご飯の上にかけまわして、すっかり混ぜて食べるようです。


何となくバイキング風に感じられ、部屋の中央に置かれたテーブルから各自取ってるイメージが湧いた方もおられると思います(紛うことなき私のことです)

各自目の前に置かれた御膳のことのようです。



ということで、以上が振舞における御膳になります。













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