戦国期の食

戦国期の飯事情(主食・ご飯)

 戦国時代の方々は、どんなご飯を食べていたでしょうか。


今回は、主食の農業事情と調理法を、見ていきましょう。


 応永27年(1420)に日本を訪れた朝鮮の官僚、宋希璟の「老松堂日本行録」にこのような記述があります。

「日本の農家は秋に耕し、大小麦植ゑ、明年夏、これを刈る。即ち苗を植ゑて、秋初にこれを刈り、又、木麦を植ゑて、冬初これを刈る。一畓を以って、一年に三度種植ゑるは、川を塞いで、即ち水を儲えて畓川と為し、決すれば、即ち、水を去って田と成す故なり」


なるほど。畿内のあたりは、三毛作だったようです。一つの田で、川をせき止めたり、水を入れて水田にしたりしながら、小麦、大麦、そして稲、それから蕎麦を作っていました。(関東は二毛作)こうした連作に関して、植える苗、肥料など工夫がされていたことも別書で、指摘されています。


田に水を入れたり、出したりするのには、水車が使われていたようです。

宋希璟の8年後に日本を訪れた朴瑞生、又、古くは鎌倉時代の吉田兼好が、水車について、書き記しています。

朴瑞生氏の方が詳しいんですけど、漢字まみれで、写すのが大変で……サクッとまとめてご紹介しますと、竜骨車(人力)じゃなくって、自転揚水車を設置している!と驚いています。


竜骨車というのは、人力式の水車……というと、ものすごく素朴そうなんですが、確かにシンプルなのもありますが、凝っているのは、相当、入り組んだ作りで、技術力を感じる逸品です。

ご覧になられてない方は、是非とも「竜骨水車」「竜骨車」で、画像検索してみてください。

足踏み、手回し水車とか、いろいろ種類があり、なかなか圧巻です。


知多の博物館にも、竜骨車が展示されていますので、決して、日本では自転揚水車しか使わなかったわけでは無いと思います。


 しかし、当時の川というのは、護岸工事をしていませんから、あたかもナイル川のように頻繁に氾濫し、流れを変え、国の境が変わっていました。

色々流れて大変だったのでは無いか、と思うのですが、大雨よりも、干ばつの方が深刻だったようです。「日本中世気象災害史年表稿」を見ると、洪水、大雨は、それがあった記録はあるのですが、干ばつの時のように、祈願をしたとか、儀式を執り行ったという記述は見えません。

洪水はまだしも、大雨で「雨どめ祈願?」とかしなかったというのは、結構、排水には、自信を持たれていたのでしょうか。農業をされている方のご意見を、お聞きしたいところです。


 当時の気象と災害、人々の亡くなる様子は、桶狭間の項でも書きましたが、とにかく、毎年のように災害が起こり、頻繁に流行病や飢饉が発生しています。飢饉とまでは行かなくても、餓死者のでない年の方が少ないのでは、という感じです。


そうした自然災害だけではなく、当時は戦術として、敵領の田畑を焼いたり、麦などを刈ったりし、宣教師たちは農民たちが田畑を投げ出し、農地が荒廃している姿を記録しています。


その為、戦国期の大名や武将たちは、食糧を生産し、戦さ場にも馳せ参じてくれる領民に対し、そんなに厳しい取り立てをしているわけではなく、彼らの訴えによく耳を傾けています。彼らの訴えに引き摺られて、庄屋が、そしてその奉行が、そして主人が、そして主君が争いを起こす様子は、「信長公記」にも見ることができます。


 こうして、皆の苦労しつつ、米や粟など農産物を作るわけです。この中でも、どのような米が当時、作られていたのかを探しました。


戦国期、大名たちが好んで使用していたのは、鎌倉期に輸入された「大唐米」(太米、唐法師、赤米)だったとされています。

江戸中期に成立した「和漢三才図会」によると、「赤米は」「糠を取り去ると白色で、やや紅文くれないもようを帯びている。飯にするとよく増えて粘らない。温かいうちは香気があって、大変良い」としています。ただ、冷えると香気が減ってしまい、食べてもすぐにお腹が減ってしまうそうです。

この大唐米には、赤白の種類があり、別に糯米もちごめ粳米うるちまいもあり、それらにも赤と白があったようです。

これらは、不良な土地でも早熟で虫の害に強く、更に収穫量も多く、脱穀もしやすいのですが、風水害に弱かったと言います。

また、現在「古代米」と呼ばれている「赤、黒(紫)、緑」の有色種の米も栽培されていたと言います。


こうした米が収穫されますと、加工され、主食としての「ご飯」と呼ばれるものが、作られます。

平安期のものになりますが、「延喜式」の中で以下のような、ご飯の種類が紹介されています。

強飯こわいひ姫飯ひめいひかたかゆ汁炊飯かしきかて黒米飯くろこめいひほしいいかれいい糄米やいごめ油飯あぶらいひ頓食とんじき、水飯、湯漬、、粔籹おこしごめ味噌水みそうず望粥もちかゆ薯蕷粥しよよかゆ漿こんず」(呼び方は一例)


中には、菓子の部にも名前が見える物がありますが、様々な「ご飯」の種類があったことが、わかります。


これを分類、整理してみましょう。


「強飯」は粳米うるちまい、あるいは糯米もちごめを、土器、木製のこしきに入れ、何度も水にかけて、蒸したもので、これが「ご飯」の原型ではないかと言われています。

「こわい」とも読み、現在の「おこわ」の語源になっています。


かたかゆ」は、土器で米を煮た「ご飯」です。饘は「固粥」とも表記されますが、「粥」は煮るという調理法を指します。

平安期に登場した、羽釜(竈にはめ込む鍋)で作られるものを「炊」と呼び、これで調理される「ご飯」は、「炊飯かしきめし」と呼ばれるようになります。

最初の釜は土器や陶器でしたが、鎌倉期になると、鉄製の物が登場します。

この粥、炊飯の作り方は、「湯取り式」と呼ばれるもので、湯取り式で作られた飯のことを、総じて「姫飯ひめいひ」と呼びます。


まとめます。

元々は蒸して作ったご飯は「いひ」、煮て作ったご飯は「粥」、煮て蒸して作ったご飯は、「炊飯かしきめし」「めし」と言ったようです。

飯は強飯。粥と炊飯は、姫飯に分類されます。


しかし、土製、鉄製の釜で炊く姫飯を口に出来たのは、ごく一部の人々でした。

鉄製の釜は、高価なものでした。

土製の鍋、釜も、1200℃以上を出せる登り窯で焼かれ、釉薬を塗った物で無ければ、煮炊きの最中で割れやすく、やはりそれなりに高価なものでした。

ですから、戦国期においては、下級武士や庶民は、手軽に作ることが出来る甑で、蒸して作った「強飯」を食べていたとされています。

また万事古式ゆかしい物を尊ぶ、禁裏、公家も、強飯を食べていたと伝わります。



さて、ここからは、上記の「強飯」「姫飯」をベースにした、料理になっていきます。


 強飯は、文字通り、固めだった為、冷めた時には、汁物に漬けて食べます。それが「水飯」「湯漬」になります。

平安末期に書かれた「今昔物語」によりますと、夏場は冷水、冬場は湯に漬けたようです。江戸期には、古来より、湯漬けには強飯を用いないと言われていましたが、釜の普及率の関係で、どうだったでしょう。

ある程度、資金力を持った武家では、強飯ではなく、姫飯でしたかもしれませんね。



更に、出汁が開発された室町期からは、強飯を洗い、昆布や椎茸でとっただし汁をかけて食べていたようです。


 水飯、湯漬は武家においては、常食だったとも言われています。しかし、賄い飯的な立ち位置ではなく、公式な場でも出され、マナーに沿って食べる物でもあったようです。


 「信長公記」にも、湯漬を食べているシーンがあります。

有名な、斎藤道三との会見の時で、四月下旬と言いますから、今の時期でいえば、五月から六月の暑い時期の話になります。

後に盃を交じわせている事から見ても、正式な「湯漬の膳」だったようです。「湯漬の膳」は将軍や僧侶への接待や、法要などの場でも確認でき、「香の物で先ず食し」、それから「盛られた飯の中程を空けて、七分お湯を注ぐ」、「湯は啜るべからず」など、なかなか難しいことが書かれています。


御膳といえば、武家の戦後の祝宴の「赤椀、黒椀の儀」として、御膳を賑わせたご飯も有名です。

「赤椀」とは、小豆や大角豆ささげを入れた赤飯。或いは大唐米の赤米を使った赤飯。「黒椀」は黒米飯、つまり玄米、または有色種の古代米のうちの黒色のものだったと言われています。これは家によって違ったかもしれませんね。


ほしいひは「干飯」とも表記し、強飯を、「干した」もの。

かれいひは「乾飯」とも書き、姫飯を、一度水洗いして「乾かした」もの。

糄米やいごめは「焼米」。新米を籾のまま焼いて、それから殻を取ったものです。これは収穫時に、未熟だったものや、或いは敵地の収穫前の稲を刈り取った時に、焼き米にして、保存食にしました。

これらは、戦場に食料として持っていきました。

ポリポリそのまま食べても、湯漬、水飯にして食べても、なかなか美味しいそうです。


頓食は、姫飯を握ったもので、「頓」が握る、圧力を加えるという意味であることから、そう呼ばれました。別名「鳥の子」ということから、卵状の楕円形のものだったようです。

奈良時代の文献に、「握飯にぎいひ」という言葉が残っていますが、これがどういう物だったのかは、分かっていません。


油飯あぶらいひは、米と水と一緒に胡麻油を入れて作るご飯で、奈良時代から作られていたと言います。

室町期までは油で炒める、あげるという調理法が無かったそうで、それまでは一緒に煮たようです。

室町期に、油揚げが出来ていますので、そのあたりからは炒めてみた人もいるかもしれませんね。



粥は、ただ米を煮たものだけではなく、様々なものを混ぜて煮たようです。

ここで上がっている薯蕷粥は、大和芋や長芋など粘りのある芋を甘葛の汁で煮た、汁粉のような食べ物です。

薯蕷粥は、「しよよ」「しょうよ」「じょうよ」「いもがゆ」と読みます。戦国期には醤、味噌などの調味料が発達していますので、甘葛汁だけではなく、違った食べられ方もされていましたが、薯蕷粥は一応、芋の甘葛汁煮のようです。

しかし、飯のところに書かれているので、多少なりとも、米が……はいっていたのか、或いは、後述の漿こんずで炊いたのかもしれません。よくわからなくて、ごめんなさい。


望粥もちかゆは、正月十五日に食べる粥です。米、あわひえきび、みの、小豆、胡麻の7種類の穀物を煮て、小豆の赤色で、一年の邪気を払う粥でした。望は「望月もちづき」の望で、陰暦の正月十五日は、望月、つまり満月の日だったのですね。餅とは関係ありませんでしたが、いつしか餅を入れるようになったそうです。

餅は飛鳥、奈良時代から散見します。餅については、また別項を設けます。


これ以外でも、奈良の茶粥(奈良茶)、正月の七日の七草粥、8月1日に禁裏で食べられる尾花粥、12月8日に寺院で食べる紅糟粥うんぞうかゆなどがあります。紅糟粥は、酒粕で作る粥で、寺院では酒を作っているところが多かった事が偲ばれます。


室町期には調味料も、沢山、開発されています。

上に書いてある「味噌水」は、平安期に於いては、「未醤」と呼ばれる、麹によって発酵した大豆を、粗くすり潰し、水を入れ、大豆を食べていたと考えられています。これが鎌倉期に武家も食べるようになり、室町期に入ると、出汁が発明され、出し汁で溶くようになって、「汁講」で書かせて頂いた、ぶっかけご飯や、味噌汁で作った雑炊が食べられるようになりました。



粔籹おこしごめは、蒸した米(強飯)や粟を干した後、炒ったものです。

つまり、ほしいひを、水分が無くなるまで、更に火にかけたものですが、次第に胡麻や胡桃、豆などを合わせて、水飴、蜜、砂糖を加えて、火にかけて作るお菓子になっていきました。粟おこし、雷おこしなど「おこし」の原型です。


 湯取り式は、米を水と一緒に沸騰させ、粘り気のある汁を捨て、再び蒸して作る調理法ですが、この粘り気のある白湯のことを、漿こんずと呼びます。漿は、まだお茶が一般化されていない時代、大変ポピュラーな飲み物でした。漿売りの屋台まで出ていたと言いますから、その普及ぶりが分かります。

更に、お酒以外の飲み物を総じて、「漿」と呼んでいたそうです。

漿は、「漿水」と書いて薬、また重湯などの汁物を指すようになり、更に時代が下ると、白味噌などどろりとした煮汁を表す言葉に変化していきます。

また、糯米や粟の漿を利用して「酢」を作り、「早酢」と呼んでいたそうです。


また室町時代から始まった、ご飯と言えば「餝飯ほうはん」、「生熟鮓なまなれずし」です。

「餝飯」の「餝」は、飾るの旧字体で、味を付けた具材(野菜、乾物)を上に乗せ、汁をかけた飯のことで、現在の丼の元になるものです。

「生熟鮓」は、上記の項目には出ていませんが、「熟鮓なれずし」の進化系で、やはり具材と一緒に漬け込むものですが、それまでの熟鮓より漬け込む期間は短く、一週間から二十日程度になり、酸味が薄くなりました。具材も様々な魚、野菜など種類も増えています。


また麦飯も、室町時代から、食べられ始めたご飯です。


強飯は、おこわの原型と申し上げましたが、おこわと似たもので「炊き込みご飯」「かやくご飯」があります。

こちらは「糅飯かていひ(後にかてめし)」が原型です。麦、稗、粟、野菜などの増量材「糅」を混ぜて作る飯が、ルーツと言われています。糅飯も、平安期からあったようです。

これが室町期に至ると、米に麦、栗、豆、野菜などを入れて作るものになりました。


まとめて載っているのが、平安期のものしか無かったため、ややこしくなりましたが、主食のご飯に関してはこんな感じです。

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