戦国時代の庶民のお茶①

 前回は室町時代には、担ぎ売りの茶売り、一服一銭と呼ばれる屋台風の茶売り、それから質素ではありますが、壁と屋根のある茶屋があり、庶民も気軽にお茶を飲んでいたらしいという話をしました。


さて今回は、茶売りたちはどんなお茶を売っていたのかを2部に分けて見ていきます。


一般的には、戦国時代に於いては「茶」は身分が高かったり、豪商だったり、お金のある人達だけが飲んでいたとされています。

あれ?じゃあ、茶売りは何を売っていたのでしょうか?


 日本に於けるお茶は、「チャノキ」から取った茶葉や茎などから作る「茶」と、「チャノキ」以外の植物からつくる「茶外茶」に分けられます。

「茶外茶」は麦茶や甘茶などさまざまな種類があります。茶売りの「茶」はこの「茶外茶」だったのでしょうか。


 まず「茶」の歴史を軽く見ていきます。

「チャノキ」自体は、埼玉県の真福寺泥炭層遺跡(縄文後期から晩期)の集落跡で、茶葉やお茶の実が化石となったものが発掘されています。なので空海や最澄が中国から持って帰るよりも早く、日本でも古来から茶の栽培をしていたという可能性を現在指摘されています。


『正倉院文書』(奈良、710〜84)には「十五束」や「荼七把」と書かれ、各地より茶が納入されている様子が伺えます。


 通念上は「茶」を飲むという風習は、仏教の伝来とともに日本に伝わったとされています。

また『公事根源』には、天平元年(729)聖武天皇が「百人の僧を内裡に召し、大般若経を講ぜしめ、第二日目に行茶の儀と称して茶を給う」とある他、茶に関する記述は古くから記録されています。


日本の正史に於ける「茶」の初出は、『日本後記』の弘仁6年(815)「嵯峨天皇に大僧都永忠が大津の梵釈寺において茶を煎じて奉った」になります。


嵯峨天皇に供されたお茶は、蒸した茶葉を臼で搗き、型に入れて固める団茶(餅茶、磚茶たんちゃ)と呼ばれる固形茶だったそうです。これは長期保存の出来るもので、飲む時は固めてあるそれを火で炙ってふくらませて、いったん冷まし、臼で粉末にしてふるいにかけ、釜の湯に少量の塩と粉末にした茶葉(粉)を一緒に入れて煮るそうです。グツグツと煮立つと、浮き上がってくる茶と湯を掬って、そのまま茶碗に注いで飲むという形式のものでした。

塩の他には、ねぎはじかみなつめ橘皮きっぴ茱萸ぐみ薄荷はっかなどを入れることがあったそうです。これは「煮茶法」あるいは「煎茶法」と呼ばれるもので、その後も廃れることはなく、中世を通じて史料に残っています。


 建久2年(1191)宋より明菴栄西禅師が帰国します。栄西は建暦4年(1214)『喫茶養生記』と「茶」を鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝に献上し、そこから武士階級に茶が広まります。


『喫茶養生記』の「六者、明調様章」にこの頃の茶の作り方が書かれています。見ていきましょう。

「見宋朝焙茶様、朝採、即蒸、即焙之。懈怠怠慢之者、不可為事也。焙棚敷紙。紙不焦許誘火入、工夫面焙之。不緩不急、終夜不眠、夜内焙上。盛好瓶、以竹葉堅閉、則経年歳而不損矣」

(宋朝にて茶を焙る様を見るに、朝に採って即ち蒸し、即ち之を焙る。懈怠怠慢の者はなすべからざる事なり。焙る棚には紙を敷く。紙の焦げざる様に火を誘い、工夫して之を焙る。緩めず。怠らず、終夜眠らずして、夜の内に焙り上る。好き瓶に盛り、竹葉を以て堅く閉じれば、則ち年歳を経ても損ぜず)


ちょっと分かりにくい文章ですが、これは基本的には現代の碾茶てんちゃ荒茶あらちゃと呼ばれる、茎や葉脈を取り除いていない段階のお茶の葉の製法と同じだそうです。


現代の碾茶は茶の木を葦簾よしずわらなどで覆い、日光を当てないようにして栽培します。そうして摘採すると蒸し、揉まずに碾茶炉で乾燥させたものです。この段階では茶葉というより青海苔に似ています。

ここから茎などを取り除いたのが碾茶で、それを茶碾ちゃうすで挽くと「抹茶」になります。

この覆いをつけるやり方は、いつ始まったのでしょうか。


 室町幕府第3代将軍足利義満は、大内義弘に命じ京都宇治に宇治七茗園を作らせました。

府立大などの研究チームが、宇治七奥茗園のうち唯一残っている「奥の山茶園」の最も古い茶の木の根本の土壌を深く掘り下げて調べた結果、「覆下栽培」が始まったのは、遅くとも15世紀前半であることが2017年に日本土壌肥料学会で発表されました。

この覆いを被せる方法は当初、宇治七奥茗園のみが許されていましたが、次第に全国の茶園に広がって行きました。


 さて『喫茶養生記』 の「一、喫茶法」を見ていきます。

「白湯、只沸水云也。極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。」

(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二、三匙。多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)


栄西は碾茶の荒茶を竹の葉で包んで固め、保存して置いたものを、茶碾ちゃうすで粉末にし、それを碗に入れて、湯瓶で湯を注ぎ、茶筅で練る「点茶法」を伝え、これが私たちが知る「抹茶」であるとされています。


ただしこの当時の茶筅は、現在のようなふんわりとした茶筅と趣きが全く違います。

現在の茶筅は侘茶の創始者村田珠光(応永29年(1422)または30年(1423)〜文亀2年(1502))の依頼で高山宗砌が開発したといわれています


ちなみに茶筅の文献上の初出は、『大観茶論』(1107年、北宋)になります。

栄西の留学時代に間に合いますので、茶筅も栄西が日本に伝えたとされています。

これ以前の茶をかき混ぜる道具は、唐代の竹夾ちくきょう(竹の箸)、北宋の茶匙だったそうです。


南宋の『茶具図賛』(1269年)には「竺副帥」として茶筅の絵が載っており、室町中期までの茶筅はこちらのものだったとされています。

昔ながらの茶筅を見ると、「なるほど、茶筅髷は茶筅だな」と納得するものがあります。


维基百科(Wikipedia)

「茶筅」

https://zh.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E7%AD%85


「宋代 茶筅」でググりますと、これに近い実物を載せているサイトもあります。



 つまり上流階級で使用される「茶」は、室町時代には京では覆いをつけて葉を摘んだ一番茶で、蒸して乾燥させたものを保存して粉にして、湯を入れて茶筅で混ぜて飲むという「抹茶」の形式ができていたということです。


この後、江戸初期あたりに庶民が、簡単な製法で加工した茶葉を煎じたものを飲んでいる様子があり、元文3年(1738)永谷宗円により、庶民のための簡易な製法を工夫して、現在の緑色の甘味のある優良な煎茶の製法を編み出したとされています。

さらに天保6年(1835)になると、山本嘉兵衛により、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、玉露が誕生しました。


 では現在「大変貴重で庶民の口には入らなかった」と言われている戦国時代に於いて、茶売りが売っていたのは、どのようなお茶だったのでしょうか。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る