戦国時代の庶民のお茶②


 「当時のお茶(抹茶)は貴重なものだったので、庶民には手が届かなかった」とされる戦国時代、茶屋などで供され庶民が飲んでいたお茶は、「茶外茶」だったのでしょうか?


 実は「庶民の口にはお茶が入らなかった」というのは、鎌倉時代中期から後期に入るあたりまでの話で、それは生産量が少なく、そもそも鎌倉幕府の方々でさえ入手することが困難だったというところから来ています。

お茶不足説は、鎌倉時代中期に書かれた『沙石集』(弘安6年(1283)成立、仏教説話集)が元ネタになっています。


そこから南北朝時代に至ると、南は九州、北は東北以北を除く全国で茶の栽培が始まりました。それにつれて爆発的に生産量が上がった茶は、公事や礼物、また賦課の対象となって市場でも流通しています。


 庶民と茶の出会いというのは、実は前回見ていきました門前の茶屋の成立と関係があります。

茶屋というのは、法体の修行者に対して接待を行う「接待所」から発したものです。

南北朝時代を迎えると、庶民の信仰が篤くなっていったという話は、前回の東寺のところでも触れました。

そうなると寺院では修行僧だけではなく、参詣にやってきた庶民に対しても、「接待」を行うようになりました。

更に茶を含む飲食の接待、饗応は、寺院でなされるものでしたが、幕府が京に開かれ落ち着きを取り戻してくると、庶民の中でも富裕層が家で「茶」を飲むようになったと言います。


この頃には、神社に於いて手水で清めてから参拝にするように、門前に作られた茶屋で茶を飲んで清めてから参詣するという風習が出来たという説があり、そこでは庶民向けに茶葉を売っていたといいます。


天文8年(1539)ごろの京の盆踊唄に

「亭主亭主の留守なれば 隣あたりを呼び集め 人 ごと言ふて大茶飲みての大笑い 意見さ申そうか」

というものがあり、少なくとも天文初めあたりには京童たちの自宅では、「茶」を日常的に飲む文化が浸透していたことがわかっています。

まさに禅宗の「家常茶飯」ですね。


また門前の茶屋は全国の寺社に広がっていますので、「茶」は至る所で庶民との出会いを果たしており、茶園のある地方は特に、「日常茶飯事」ということで庶民が「茶」を飲んでいたと推測されます。


 では茶屋で提供していた「茶」の種類を考えていきましょう。


まず「担い茶屋」の別名は「煎じ物売」です。ということは少なくとも初期、彼らが商っていたのは、「煎茶法」で淹れられたものだったのではないかと推測できます。

そして前回の絵を思い出して頂くと、洛中洛外屏風絵の方では片手に茶筅を持っていることから、少なくとも16世紀の後半には彼らも点茶法で抹茶を点て、それを売っていた店があることが分かります。


「一服一銭」、「茶屋」に関しては、茶筅で茶を練っていることから、こちらも点茶法でしょう。ただし村田珠光の考案した茶筅が、庶民相手の茶屋にすぐに広まったとは考えにくいものがありますので、茶筅に関しては「竺副帥」の時代が長く続いていたのではないかと思われます。


また売っていた「茶」は全て「点茶法の抹茶」に統一されている訳ではなく、両方商っていた店や、煎茶法の茶だけを売っていたり、茶外茶も商っていた店もあったでしょう。


 このように広がっていた喫茶の習慣ですが、勿論、彼らが飲んでいた「茶」が大名や豪商、そして大きな寺の僧侶たちが口にしていた物と同じものか、というとそこはやはり違うでしょう。

天下人や大きな寺社、豪商たちに供される最上級の茶と、湯銭と同じ値段(一服一銭、戦国時代の一文と一銭は同じ)で飲めるお茶が同じものでは、大変な騒動になってしまいそうです。


 戦国当時の大名や豪商、大きな寺の僧侶たちの飲む「茶」の為の茶葉は、覆い付けて育てた一番茶であるという話は前回書きました。


一番茶というのは、ご存知のようにその年最初の新芽から作った茶葉のことを指します。

♪夏も近づく八十八夜♪の茶摘み歌で有名な「八十八夜」は、立春から数えて八十八日目の雑節で、おおよそ新暦の5月2日前後に当たり、この頃、一番茶の収穫の最盛期を迎えるそうです。

この時期に摘まれるお茶は古来より縁起が良く、また不老長寿の縁起物であるとされていたのは、通年を通じ最も香りも高く、味も甘味が強く爽やかで、さらには栄養価が高いからで、薬として鎌倉幕府に伝わった経緯にも因っています。


この一番茶の後、45日ほどで二番茶が収穫され、その後三番茶に移ります。地域によっては、三番茶は収穫せず、秋口に摘む秋冬番茶もあるそうです。


ではこうしたお茶はどうなっていたのか。


そして当時と同じように葦簾や藁を用いて茶を作っている方の話では(他でも同じかもしれませんが)、一旦収穫した後、新芽が生えるのを促すために、残っている茶葉を取るそうです。

ではこの茶葉はどうしたのか。


更に覆いが取れてしまったり、捲れたりして日光を十分に遮られなかった茶葉はどうなったのか。


また、より上等な茶を作るために除かれる葉脈や茎、弾かれた茶葉などはどうなったか。

(茎茶が出来るのは、江戸時代になってからと言われています)


そういうところを考えていくと、庶民の口に入った「茶」というものが推測できてくると思います。


こうした最高級ではないお茶は、またランク付けされ、庶民だけではなく、武将たちや豪商とまではいかない商人たち、あるいはそこまで大きくない寺社の人たちが、それぞれ身上に合ったお茶を楽しんでいたと考えるのは現実的であるでしょう。


たしかに天下人、豪商などが口にするような、最高級の茶は希少であり、値段も高く、庶民の手の届くものではありませんでしたが、それなりの「茶」は飲んでいたのではないかと考えられます。


 ということで、今回はどうやら戦国時代には庶民も抹茶を飲んでいたらしいで、という話でございました。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る