奥様のスタイル

戦国期の女性の着物姿というのは、ネットでも見ることが出来ます。


戦国期の大半では髪の毛は伸ばした、平安時代ほど長くはしていませんが、垂髪のようです。

ただ長くしておくだけではなく、たばねと呼ばれる後ろで軽く結んだスタイルにしたり、耳の後ろから前に垂らす髪の毛を1束出してきて後ろで軽くくくったり、鬢枇びんそぎをした横髪を垂らしているオシャレなスタイルの方の肖像画もあります。

またお方様、お姫様ではない方々であれば、クルリと髪の毛を回し上げた束結つかむすびと呼ばれるスタイルもありました。(お方様たちも夏場はしていたという話もあるため、載せました)

この辺りは平安時代から室町時代末期までと同じ感じですね。


室町時代末期には『唐輪髷からわまげ(からわわげ)』と呼ばれる束ねた髪の毛をクルリと輪っかにするスタイルもあったと言います。

束結びとの違いは、髪の毛の先が見えないスタイルなのかな?

これが戦国末期の安土桃山時代にも流行しました。当初の唐輪は首の後ろあたりで2つ、3つに輪を作ったみたいですが、更に秀吉が作った遊郭で高々と結い上げる形に変化しています。遊郭から流行がはじまるのか、この結髪が段々と一般化されて行きます。


戦国期の頃はまだ女性の使うかんざしというものはありません。

簪はまだ男性が侍烏帽子を被る時に、髷に烏帽子を留める時に使う先の尖ってない棒のようなものでした。


着物は男性と同じで、現在よりも身幅の広い小袖をゆったりと着ます。大名や有力武将の御家族の皆様はその上から華やかな唐錦の打ち掛けを着ます。この打ち掛けは兎に角、贅を凝らしたものが好まれたようですが、江戸時代のように赤色系統が使われていた訳ではなく、渋めの色目の方もおられます。


打ち掛けを着た下に着る小袖は『間着あいぎ』と呼ばれ、単色のもので、こと白色が正式とされていたようです。

この下に色々と着て胸元で様々な文様や色を見せるのがオシャレでした。


帯はまだ幅広のものではなく、幅も一定していませんが好みに応じて、オシャレな方は打ち掛けと共布だったり、真田紐のような織紐を結んで前で垂らしていました。

ちなみに秀吉の遊郭では名古屋帯と呼ばれる細いオシャレな帯を後ろで結んでいたようです。


冬場には小袖を重ね着をしたり、打ち掛けの布を二重、三重にしたり、その間に蚕の繭や蒲の穂綿、後期には木綿の綿を入れたそうです。


さて、気候のよい時分には、この姿でノシノシと屋敷の中を歩いていても良いと思いますが、夏ともなると暑いですね。


そうなると小袖は単衣の麻などの薄物になり、スケスケになったそうです。

当時の日本人は、胸が見えることに羞恥心は無かったようで、これも教育の賜物なんですかね?

しかし、下は打ち掛けを腰で結んでカバーしたそうです。


この打ち掛けを腰で結ぶというのは、暑さ対策だけではなく、ひとつのファッションでもあったようで、肖像画でも腰に打ち掛けを結んだ姿を遺している奥様たちがおられます。

お市の方の肖像画はこの姿ですので、もし宜しければご確認ください。


足袋は室町時代には男性も女性も履いており、女性は紫色のそれを9月から翌年の2月まで履くということになっていたそうです。

この頃の足袋は革製でした。

安土桃山時代の頃は足首の辺りに長い紐が付いており、それを巻いて履いていたそうです。

正式な場や主君に会う時には、素足だったそうですので、寒かったでしょう。

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