武家の息子の教育事情、お寺での生活
今回はお寺に預けられた子供達の様子を見ていきたいと思います。
入山は普通数えの7歳頃で、お家の事情などで早ければ5歳、遅くとも10歳を目安にされていました。
下山は、そのまま出家の子ではない場合、元服を区切りにしていたようです。
元服は通常数えで13歳ですが、必ずしもその歳という訳ではなく、おうちの都合で10歳より前に元服する子もいれば、15、6歳でする子もおりました。
室町時代に成立した「世鏡抄」というものがあります。これを参考に見ていきます。
その地方や寺によって違いがあると思いますので、一例と思って見ていただけると幸いです。
まず嫡男や父親が早世して家を継いでいる場合や、彼らの御伽たち、また家の方針などで通学している子供もいますが、基本的には寺に住み込みで生活をして、時々家に里帰りをします。
同じ寺には、武家の息子だけではなく、様々な身分の子供がいて、共に生活をしています。
全く平等に扱われているか、というとそうではなく、武家や実家が裕福な子供ほど、厳しく躾られました。
いわゆるノブレス•オブリージュですね。
どのように彼らを教育していたかを見てみましょう。これは、教育にあたるお坊さんに向けての心得になります。
『仮例貧卑孤独の人の子也とも少も志を不レ捨、福貴有力旦那の子よりも
「もしたとえ貧卑な人の子供や、親のいない子供であっても、少しも志を捨てることなく、むしろ裕福・権力者の子よりも、有り難く思い、しっかりとさまざまなことを教えなさい。
教えに素直に従わない場合は、三度までは教えさとしなさい。
裕福な家の子供や、権力者の家の子供たちは、ことさら厳しく叱り打擲して教えさとしなさい。」
庶民の子弟に対しては、「忝く思ひて万事を教える」(勿体ないことだと思い、勉強以外でも生活全般のことをも教える)というのは、前の「志を捨てず」にもかかって、教える側の修行論的な雰囲気がありますね。
慣習でやってくる武家や裕福な子弟とは違い、縁があって当寺に預けられた気の毒な境遇の子供は仏の化身として、大切に気長に扱うことが、自らの修行にもなるという、光明皇后の施浴の例えが混じった考え方を感じます。
対して武家や裕福な家の子供への「
しかし当時の武家の教育に於いては、暴力的な、或いは高圧的な指導はされていないと、何人もの宣教師や商人たちが、驚きと共に書き残しています。
ということは、どうしたことでしょうか。
座禅体験などをしますと、お坊さんがピシッと
元々の打擲の意味は、棒などで叩くという意味なので、お寺のことですし、こちらの意味ではないかと思われます。
それでもきかないようであれば、どういう立場であれ、父母の許に送り返したようです。
孤児の場合は、住むところが無くなるので、頑張ざるを得ない感じですね。
起床は「
当時は不定時法で、日の出と日の入を基準にし、さらに季節により昼夜それぞれの一刻の時間配分が変わります。
ここでは、一日の始まりの
また寺では、正刻に鐘をついていました。
子の刻は23時に始まり、正刻が0時、終刻が午前1時で、0時に九つ鐘をついて、新しい日の訪れを示しました。
ですから、一刻約2時間を一つの括りで語られる学業や生活の区切りは、この正刻の鐘を合図にしていたのではないかと思います。
と言うことで、起床はおおよそ6時の明六つの鐘の音になるでしょうか。
武将たちもそうですが、まず手を洗い、歯磨きをし、顔を洗います。
夏場であれば、井戸端で歯磨きをして、顔を洗い、それから体を拭きます。
当時の武士階級の人達は、この一回だけではなく、しばしば歯磨きをして、口が臭わないように心がけていたそうです。
真冬の頃は大々名であれば、お湯を火鉢で温めておいた部屋まで持ってきて貰っていたともありますが、余程の雪国でなければそういうこともなさそうです。
それから部屋に戻り、着替えをし髪の毛を整えて、お堂へ向かい、皆でお経を詠みます。
基本的にこうした子供達の学問所になるのは、禅宗の寺になります。
禅宗では、「一、掃除 、二、座禅 、三、看経」と言われていたので、おそらくこの時間帯にお掃除をしていたのではないかと思われます。
辰の刻「
雑穀米や強飯のご飯と味噌汁と漬物などの質素なものですが、お代わりができたようなので、当時は腹一杯食べることが出来ました。
今みたいに、お代わりをいっぱいついで欲しい時には、茶碗の底にこんもり残し、ちょっぴりついで欲しい時には、ちょんまり残すみたいな、そんなん上げ底違うか?みたいなのがあるらしいですが、そこまで形式ばったことはしてなかった風です。
育ち盛りですもんね、有り難いです。
食べ終わると自分の食器を自分で始末をし、また自分の房に戻り、再び身支度を済ませて、勉強をする座敷に向かいます。
そこで
巳の刻「
その地方、その寺などによって違いますが、この時間に1年目の子供達は、仮名文字、真名文字、それ以降は草書、行書と本人の習熟度に合わせて習っていきます。
看経、手習など1年目は般若心経、観音教などを学んだとも言われています。
次の鐘は、午の刻「
1年目には「
2年目には「論語」などの四書、五教の漢籍類、和漢朗詠集など。
3年目以降には、万葉集、古今集、伊勢物語、源氏物語と進んで行きます。
これらも、一人一人の習熟度、興味、身分による必要性に合わせて、慎重に進めていったようです。
次は未の刻「
諸芸は、身体を動かす稽古ごとです。
諸芸の時間には、弓、槍、剣術などの武芸などを一通り出来るようにさせました。
おおよそ、こうした寺は城下にありますから、城の家臣たちが、教えに来ていたのかもしれませんし、大きな寺の荘園に住む子供達や比叡山のように妻帯している僧侶の子供達は、僧兵もいますので、そちらが手解きしていた所もあるでしょう。
馬術に関しては、必要な子供は城の方で行ったかもしれませんね。
しかし年頃の男の子たちですから、座って勉強するより、身体を動かす方が好きな子供も多かったのではないかと思います。
「世鏡抄」では『
遊戯とは、心に任せて思うがままに振る舞うこと。
学文とは、諸芸に相対する言葉で、漢詩文、仏典、和歌などの座学の学問のことです。
思うがままにさせると、座学で体得したことを忘れるけれども、余りに型にはめて押し付けると病んでしまうと、非常に塩梅の難しさを語っています。
申の刻「
確かに「哺」は食べることですから、生活に密着した名前がつけられていますね。
一般に公家は16時から、武家は17時からと言いますので、作務をしたり、ご飯の支度を手伝ったりしたのかもしれません。
それが終わるのが、酉の刻「
当時の寺は、夏場は毎日、冬場は週に二、三回入浴をしていたようです。
勿論湯船に入る風呂はなく、通常は湯気で垢を浮かせて、身体を洗うもので、石鹸もあり、頭から爪先までしっかり洗い、歯磨きもしたそうです。
そして、それもまた仏の功徳を表すものでした。
或いは、ここで夕べの祈りとかもあったかも知れませんし、掃除などもあったかもしれません。
戌の刻「
琵琶や笛、尺八や鼓など、楽器の演奏、舞や謡いなどの練習や実際に和歌を読みあったりもしたそうです。
知的な実習の時間ですね。
社交生活だけではなく、普段の日常生活においても、当時は会話は知的で教養に満ちたものでした。
戦国時代では頻繁に宴が行われてますが、「鼓を打ってみよ」とか「共に舞おうぞ」とか言われたり、「蹴鞠してみぬとや?」となったり、突如「まいまいましくぅ〜」とか謡いかけられたりします。
「あ、それ無理ね」などというと、こっちが天下人とかになってないと、次回から相手にされなくなりますので、不細工でも一通り出来なければなりません。
或いは調略中に、「田の葛の後の御前に御座候らへば」と囁かれたら、万葉集と平家物語から、「ええ事言っとるけど使い捨てやろが、ゴラァ!」と言われているなとお察しして(寵愛の末に捨てられた葵の前の話。万葉集の歌で、葵が田んぼに葛の花の後にも咲いてると歌われている)それに因んだ歌を詠んでみたり、謡いを歌ったりしないと話が進みませんので、外さないように鍛錬が必要です。
公家じゃなくて、武家なのに?と思われるかもしれませんが、『信長公記』にしても、無茶苦茶漢詩や和歌、物語を取り入れて、事象を示唆していますので、すんなり読めたもんではありません。
現代語訳ではなく、読み下しの方で読むと、文法的にそのまま訳すとおかしなところ、ここにこの言葉は……なんだ?と意味の通じないところが何箇所もあり、それは過去の出来事や物語を下敷きにしている場合が多いです。とてもじゃありませんが、当時の書物は生半可な知識では、理解できる物ではなく、当然のことながら、残っている会話など……トラップだらけです。
はたまた例会と呼ばれる月一の歌会では、それぞれ和歌を披露しなければなりません。
更に連歌と呼ばれる、相手の歌の意味を踏んで、歌を読む会は趣味だけではなく、法要や戦勝祈願など公式行事になっていましたから、出来ないでは済まされません。
戦勝祈願で失敗すれば、お前のせいで我が軍は勝利を掴むことが出来ないと恨まれて大変なことになります。
お百姓さんも、寺院に行って施浴の風呂(浴と宴会)が日々あり、月に一度は「講」に集まって宴会があり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりなどもあったようです。
転生を予定されている方は、油断できませんね。
こうして亥の刻「
戦国時代のご飯は2回ですが、夜遅くまで起きている場合は、夜食が出たと言います。
現代で9才くらいの子供の22時までの勉強は、ちょっと遅い気がしますが、どうなんでしょう。
もしかすると、一人、一人に気を配っていたようなので、年齢や体力、体調によっては早くに眠らせていた可能性もありますね。
しかし、日本の教育システムの凄さを感じますね。
流石に当主の嫡男たちは、別格扱いだったのかもしれませんが、城郭内に住む武家、商人、そして領民の百姓の息子達を一手に引き受けるというのは、すごくありませんか。
城の規模によりますが、少しずつ分散させて預かっていたのかもしれませんね。
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