武家の帝王学
戦国時代というのは、室町中期より始まる幕府の組織の崩壊から、徳川家康による開幕へ向かう、非常に荒ぶる時代のように言われています。
戦乱が全国で勃発したことは事実ですが、獣の縄張り争いのように、本能の赴くままに殺戮の日々を送っていた訳ではなく、彼らなりの精神性の下、身を処していた事実を忘れてはいけないのではないかと思います。
その精神性は、戦争の担い手であった、当時の武家の子供の教育理念に現れています。
教育は人を作ります。
武家が武家として存続し、家格を向上させて行く為には、帝王学が必要でした。
帝王学とは、その立場に立つに必要な能力を養うために学ぶ、全人格的な教育です。
戦国当時、江戸期のような社会主義的な確固たる主従関係はなく、現代に近い自由性の高い社会でした。
上に立つ人間は謀反というリコール運動に晒されており、常に家臣団のバランスを取り、身を正しておく必要がありました。
勿論、武将個人の資質、個性もありますが、帝王学が彼らの根本的な考え方の基礎になり、彼らの行動の原理となったことは間違いありません。
上は将軍から下は村で生活する庶民まで、当時は一人の男児が成人をするまで、私たちが想像するよりも多くの大人たちが、彼の教育の為に密接に関わっています。
特に戦をする武家の男児に、支配階級の武家の男として恥ずかしくないよう、身を処すること出来る様にするためには、大変な手間暇をかけていました。
尚、これは現在私の手に入る文献をもとに書いており、その地方や家によって違いがあり、間違っている可能性もあることをご了承ください。
戦国期の武家の息子は、一定の身分に産まれれば、当主である父親によって厳密に選定された教育係の「乳母」たち、そして心身の生育に現実的に影響を与えると考えられた乳を与える「御差」、その息子の「乳兄弟」、後期には同性の「御伽(遊び相手)」、「後見」の連枝の女性に囲まれて、四歳(2歳から3歳)まで過ごします。(以降、歳は全て数えで、正月を起点とする)
もちろん、彼と接する上級侍女たちにも気を配り、教養があり、性格の良い人物を配しました。
身分が下ればこれらの人数は減りますが、おおよそ跡を取る嫡男に対しては、できる限り最良の人選をし、また乳母や傅役などを雇えない下級武士であっても、良い影響を与えられるよう、僧侶や尊敬できる人物の指導を仰ぐなどし、苦心したことには変わりはありません。
傅役がつくのは、おおよそ10歳から元服までの間のようです。元々公家が主流の時代は乳母の夫だったそうですが、武家の乳母の選定は厳しいですし、夫婦で丁度良い人材を確保するのは、難しかったのかもしれません。
傅役は、「物心がついた」(性格、体の基礎が相整った)とされる10歳を目処に、息子の素質を吟味した上で、信頼できる家臣を付けました。
傅役、乳母は原則終生側に侍り、彼が亡くなると出家をしました。
これは今日、脳や心の発達段階から見て、理にかなった話です。
大体10才を起点とし、抽象的な思考が出来る様になり、言葉に於いても、生活用語から抽象化された熟語を使用することができます。
また対人関係に於いても、段々と本質的な個性が表面化し、人と深い精神性を共有することが出来るようになっていきます。
嫡男ではない場合、平均して7歳頃。早ければ卒乳の5歳、遅くとも10歳までには寺へお預けします。
嫡男と彼らの乳兄弟や御伽の場合は、こちらもおおよそ7歳、遅くとも10歳の正月より本城の城下にある禅宗の寺へ、通いで入山する場合が多いそうです。
基本的に下山は元服の年、おおよそ13から15歳になります。
つまり、おおよそ人生のうち、元服前の7から8年、集中して学ぶべきだとされていました。
武家が元服までに修めるべきは、家により違うでしょうが、
「手習学文、弓、算用、乗馬、医師、連歌、包丁、乱舞、蹴鞠、躾、細工、花、兵法、相撲、盤上の遊(囲碁・将棋)、鷹、容儀」の諸芸十七とされていました。(『多胡家家訓』)
武将以下の家の軍役は、多くは15から60となっており、上記を修めて元服をすれば、「傅役」とは別の、男性の教育係、世話役の「後見」がついて若武者として立ち、弱冠である20歳を迎えると、後見が取れて一人前の武者であるとされ、その真価を問われることとなります。
また成人しても殿には軍師という形で、指南役が付いています。軍師は僧、陰陽師など、当時の知識人が多いのが特徴です。
では、内容を見ていきます。
成人前の彼に対する教育の方針、理念『帝王学』は家として統一し、一貫したものとなっていました。
このように戦国時代の武家は「家訓」、「置文」として、「当家の方針」を言い残しています。
また息子たちの教育の責任者は、父親であることが着目点です。
武田信玄は子供の天性の資質の見抜き方とその教育の注意点について言い残し、織田信秀も我が子のみならず、嫡男の乳兄弟である池田恒興を幼い時から戦さ場に伴い、手取り足取り教育を施していた様子が描かれています。
また信長公や太閤秀吉たちも、後継者に対して、厳しく指導をしている姿が遺されていますね。
一家の主人として、家を確かに存続させていく責任は、殿にあるわけです。
多胡氏は、まず「武家として学ぶべきは」と語りかけます。
第一に来るのは武芸ではなく、「手習、学文」とし、第二が「弓」つまりは武芸であるとしています。
この武芸第一ではない、というところが、戦国期の教育の特徴です。
13世紀に成立した、北条氏の『六波羅殿御家訓』には、第一が「
しかし武芸の別名が「弓箭」「弓」というのは、武士(大名)の別名が「弓取り」であることを合わせ考えると、言葉の成り立ちに関して、非常に興味深いものがありますね。
では何故、学文なのでしょうか。
まず学文とは、武芸と対比する書物、師による指導から得る知識、学識を指し、更にはそれを使って和歌、漢詩などを自ら作成する事を言います。
いわゆる「学問」で、明治期まで「学文」とも書かれていました。
多胡氏は「学文なき人は理非をもわきまえがたし」と説きます。
「理非」とは「是非」ともいい、物事が「道理」にかなったことかどうか、ということです。
信長公が本能寺で申されたという「是非に及ばず」「是非もなし」ですね。
「是非」の判断をする思考力を身につける為には、学文が不可欠であると考えられており、その為に教育の「第一」に置かれていた訳です。
先程の北条氏も、格段学文を軽んじていた訳ではなく、『御成敗式目』の選定理由として「この式目を作られし候事は、なにを本説として被注載之由、人さだめて謗難加事候歟、ま事にさせる本文にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記候者也」と、道理に基づいて作成されたものであるからだと述べています。(『北条泰時消息』)
では「理非」、「是非」の判断基準である、「道理」とはなんでしょうか。
これは人として生きる道、宗教的な思想になり、戦国当時では、「天道思想」による「是非」になります。
この天道思想を、幼い頃より書物や師やまわりの大人から学び、我が物として行きました。
天道思想は、元々は古代中国から入ってきたものですが、時代と共に「天道」自体が変転しています。
戦国時代の天道は、仏教、儒教、神道の三教が合わさったもので「三教一致」と呼ばれます。
家康が幕藩体制を整えた江戸初期には、朱子学的天理を加え、それを学者によってスプレッドさせていますので、調べられる時には注意が必要です。
この時、家康も子供の教育の必要性を熟知しており、子供の手習本にこの朱子学的天道思想を入れさせています。
この朱子学的天道、天理は、幕末における新選組の「誠」に凝縮されて行きます。
少なくとも、戦国期における天道思想は、「天道」と呼ばれる一つの運命のシステムのことです。
システム自体は非常にシンプルで、仏法の『善因善果、悪因悪果』です。
その因は、外に現れるものだけではなく、内の考え、思考をも問われました。
そして当時はあの世の実在、転生輪廻が信じられていましたから、この世的に見て悪因善果であっても、
ではその善悪の判断は、どのようなものでしょうか。
古来より現代まで、文献に至るまであれこれ言葉を尽くし、或いは抽象的に書かれていますが、その宗派の説く「神仏の御心」ということじゃないでしょうか。
神仏の価値観が善で、それと違うものが悪になります。
じゃあ神仏の価値観とは何かと言いますと、どれだけ正確に因果を見通し、より良い結果を無私の心持ちで選択し、果敢に実行できる者が悟りたる者な訳ですから、「人々の本質的な幸福を持ちきたらす」になります。
まぁこの辺りを的確に説けると、宗教家として立ってしまえると思われますね。
じゃあその「幸福」とは何か。
全世界の全ての宗教を存じ上げている訳ではないのですが、基本的に多くの教祖の方々はこの「幸福」は、「あの世における幸福」「心の中の王国」を基盤に説くことが多いようです。
しかしながら民衆は世俗的ですから、「現世利益でお願いします」と目先の「この世的なる幸福」を求めがちになります。
その為に出てくるのが、修身論、修行論と祈願等による(結果は信仰心の篤さや「そちらの方があなたの為に本当は良かった」という論理によって成り立つ)奇跡になることが多いようです。
日本では儒教的な修身論と、神道的な祈祷、お祓いが出てきました。
何処かで書いたと思いますが(公開してないかも)、戦国時代はあの世のことは仏教に、この世のことは神道へと棲み分けが出来ています。
つまり天道思想が求める修身論、対応学は、「自分の目の前に起こる事柄を、私心なく先の先まで見通し、より多くの人たちにとり、より良い結果、最大限の幸福を出せるような選択が出来るような人間になりなさい。」
という所でしょうか。
宗教とは「神仏のような人格を作り、そういう心持ちで生きること」に集約されるかと思われます。
ま、ここは古今東西どの宗教も同じ内容で、どれだけその教団の打ち出した方法論に、従順に従えるかが信仰心の見せ所でしょう。
どちらにしても、どういう思想でも、個別具体的に個々人の目の前に提示される物事に、手取り足取りどのような判断を下すことが、『道理』『真理』『神仏の御心』にかなっているかは教示されません。
よりソレに近い判断を下せる思考力を身に付ける為に、学問をしていた訳です。
ついでにその真剣さとその理由についてみて行きましょう。
天道思想とは、『信長公記』にも「天道照覧」などと頻繁に出てきます。
また背景には、当時の死生観による「仏性常住の境地」(拙作「戦国時代の死生観」参照)があったと考えられます。
それが浸透する余り、嫡男の初陣にはあらかじめ勝てるものを用意し、家門の安泰さをアピールするという本末転倒な事態を引き起こしているのも事実です。
鎌倉末期の1330年代に成立したとされる、吉田兼好の『徒然草』第130段に学問について述べてある箇所があります。
これは学問をすることは、立身出世の為ではない、この世的な価値の為ではないことを、端的に表しています。
「人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に
〔人よりも優れたいと思うのであれば、ひたすらに学問をし、人よりも智慧を得ようと思いなさい。
道を学ぶとなれば、己が正しいと奢り、人を裁き争うことをしてはいけないと知るべきであるからだ。
この世的なる栄誉や地位を退け、私利私欲を棄てることが出来るのは、ただ、ただ学問の力である。〕(麒麟屋訳)
学問をして思考力を身につけ、世俗的な価値観、目先のこと、私利私欲に捕らわれず、大局を見て、「道理」に叶った判断することの重要性を説いています。
では結局のところ、彼らがそこまでして求めたのは、なんなのでしょうか。
多胡氏は「命は軽く、名は重い」と言い切っています。
桶狭間戦の時の信長公の檄も、個人の手柄を拾うなと戒めた後、「
彼らが求めたのは、良き侍としての「名」、それによる家門の誉れであったのではないでしょうか。
その背景にあったのは、当時の命の儚さだったのです。
徳川家康も、その旗印を「厭離穢土欣求浄土」としています。
これはいく通りも解釈が立ちますが、「仏性常住の境地」の追及、「この世的な『生』(欲望)を捨て、内外の仏国土の樹立」、つまり私心なき戦を徳川家のモットーとしたということになります。
この言葉は、寛和元年(985)に恵心僧都、源信が纏めた仏教書『
尚この旗印は永禄5年(1562)三河一向一揆の際、家康側についた、松平家菩提寺大樹寺の住職が、一揆勢の「進是極楽退是無間地獄」(進めば極楽、退けば地獄)に対抗して、旗に大書し(生〔私利私欲〕を手放し、極楽往生をめざす)、勝利を納めたことを吉例として、家康が自らのものにしたと『柳営秘鑑』(18世紀成立)に書かれています。
現在通説となっている桶狭間戦の後の家康の牛歩の岡崎入城、旗印などの逸話は、山岡荘八氏の小説に依るものですので、少し注意をしたほうが良いかもしれませんね。
その時の住職の説明が「皆、私利私欲の戦をしていてこの世は穢れている」というものでした。
これが現代に流布しているのは、本気で天道により身を処し、命をかけて戦をしていた人々が気の毒かなと思います。
できることならば、戦国期の彼らに報いる為にも、すこしだけ立ち止まって頂ければ嬉しいです。
室町、戦国期というのは、先程申し上げたように余りにも人の命は儚いものでした。
非常に無神経な例えで申し訳ないのですが、末期患者の病棟、2021年現在であれば、コロナ最盛期の病棟ですね、そういうあっという間に亡くなられる感じ、そういうところで生活している感じかと思われます。
その中で彼らは優れた侍として、後世に「名」を残すことで永遠を求めたのかもしれません。
人はどうしても自分が可愛く、本能的に自己保存欲を捨て難く、天道的な正しさ、「公」の視点で物を見、考えて身を処することは難しい。
しかし、天道照覧、善因善果、悪因悪果。
身命を賭して、家の為、そのための民の為、正しき振る舞いをしなければならない。
その為に幼い頃から武家たちは、ひたすら学び、何が己の欲望に負けた考えなのか、何が天が正しいとされるものなのか判断出来るように思考する力を磨き、そしてその判断に従って、弱い自分を叱咤激励して正しい行為を為せるように、鍛錬を重ねていたということではないかと考えられます。
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