武家の元服前の子供の側にいる方々
今回は何度か話題に出ている、武家の元服前の子供の側にいる人々をまとめておきます。
武家といっても、家の規模、本人の身分、そして家のしきたりによって違いますので、その辺りはご了承ください。
【乳母】
貴人に於いて、乳母は存在は欠かすことの出来ない存在です。古来より貴人につく乳母は正が一名、副が二から三名立つことが多いようです。
一人目は基本的に譜代の家臣の娘、或いは妻で、教養が深く、人徳のある健康な女性が選ばれました。立場は宿老クラスであり、権威は大名家であれば、他の家の大名からわざわざ贈り物が届くほどのものがありました。
副は母方(婚家に入る側)の信頼出来る女性。
もう一人は家の教育方針に合った女性が選ばれることが多かったようです。
この教育方針に合った乳母は、大名クラスの家では幕臣の妻、娘がなることが多く、場合によっては正になることもありました。
茶々の乳母、佐脇良之の正室大局は、幕臣佐脇氏の娘ですね。
普通乳母というのは、終生側にいることが多いものです。ところが、彼女は大阪へ行く茶々と離れて、義兄にあたる前田利家の息子の乳母表局になっています。
彼女自身の出産の時期から推測するに、乳母として出仕したのは浅井家滅亡後、織田家に戻った時になるかと思います(拙作「佐脇良之」参照)
彼女は乳母といっても、浅井三姉妹が織田家に馴染むために付けられた、女官的な立場だったのでしょう。
またもしかすると織田信秀が病床で手をつけた「岩室殿」は、幕臣の家柄である岩室長門守の母で、信長公の教育係の乳母だった可能性も考えられます。そうなら池田恒興の母についで、信長公としては、本当に迷惑な話だったでしょう。
さて、国持でない家柄では、石高によって、この乳母の数は減ってきます。また国持でも子供の立場によって、数の増減はあります。
基本的に多くの子供を必要とした武家では、奥様が自らの子供に授乳することはありませんので、下の「お差し」が乳母を兼ねるのが最低ラインになります。
乳母の選定は、もちろん生まれる前から始まっていますが、本格的に決定するのは、性別の分かる出産後のことになります。
✳︎お差し
乳母の中で、実際に乳を与える女性を指します。
上記の乳母の中に含まれることもありますが、別に選定される場合もあります。
当時赤ちゃんは無個性な存在で、彼女の性格、健康状態、生活態度が乳を通じて、性格形成や健康に影響すると考えられていた為、お差しの選定条件は非常に厳しく、また途中で交代させられることもありました。
また乳母子の性別、性格、成育状態も考慮される為、養い君と乳兄弟が同じ歳とは限らず、1.2歳年上というのも多かったようです。
乳母同様、お差しも誕生後決定しました。
✳︎乳つけ
ではそれまでの間、誰が授乳しているのか、といえば「乳つけ」と呼ばれる女性と言われています。
「乳つけ」は父親(母が家刀自なら母親)の姉妹、叔母など、血縁関係にある、養い君と反対の性の子供を近日中に産んだ方になります。
出産時に控えており、生まれた子供の性別を確認し選ばれ、最初に乳を含ませたといいます。
しかし実際のところ、連枝の女性はお姫様で乳をやる習慣はありませんから、とりあえず咥えさせるだけで、授乳は彼女の子供の乳母だったのではないかと思われます。
連枝の乳つけの方は、「後見」として後ろ盾になり、乳母に次ぐ権威を持ちました。
【乳兄弟、乳姉妹】
基本的にお差しの子供です。
お差しを選ぶ際には、彼女の子供の健康状態や発達の加減も吟味の対象に入ったそうです。
特に大名クラスの嫡男の乳兄弟になる子供に対しては、兄弟姉妹の病気、怪我の有無などまで厳しい目が向けられたと言います。
彼らは主人となる養い君と一心同体の関係であり、最も信頼されることが求められれました。彼らは家臣団の中でも格別の関係であり、連枝として扱われました。
彼らの主人が亡くなった時には、母と共に出家をしました。
普通、彼らは主人より一つ二つ歳上か、せいぜい同年ですが、織田信長公と池田恒興のように乳母(お差し)が変わった場合、歳下ということもあり得ます。
【御伽(小姓、馬廻)】
初期から侍るお友達兼家臣で、男児の場合は同性のみになります。
年齢は上下があり、10〜15歳ほど歳上から1つ、2つ歳下までおられたようです。
譜代の家臣の子供がメインですが、幕臣の子供など、若君、姫君に良い影響を与える可能性のある子供も加えられたのではないかとも思われます。また乳母チームの子弟などもおられたと推測されます。
成長後の小姓は基本、新規の家臣の子弟や次男以下が多いのですが、この時期からの小姓は、嫡男もおられます。
その家の規模によって、御伽の人数は変わりますが、国衆や大名家では10人から20人くらいはいたようです。彼らはそのまま馬廻、小姓などの近習になり、重臣になることも少なくありませんでした。
共に育つために殿への忠誠心が強い方が多く、
殿が成長して子供が出来た時に、嫡男に傅役や重臣としてつけられることが多いものです。
また殿が亡くなった時に、この層では跡取の殿を献身的に支える方が多い一方、隠居してしまったり、出家してしまったりする方もおられるようです。
【傅役】
男児につく教育関係の家臣です。
当主から信頼の厚い家臣が任命されました。
おおよそその子の生来の質が現れる10歳前後につくことが多く、養い君が亡くなると出家し菩提を弔いました。
年齢層はマチマチで、伊達政宗の傅役片倉小十郎(父親の方)は10歳ほど歳上なだけでしたし、織田信長の傅役平手政秀は30歳ほど歳上、家康の嫡男信康の傅役と言われる石川数正は25(諸説あり)、同時に名前があがる平岩親吉は17歳差になり、いずれも父親である殿と親しく、信用できる優秀な家臣です。
傅役は、子供が立派な武将になる為の精神的、肉体的な補佐役でした。
また苦手分野を補い、長所を伸ばせる関係性を求められましたから、育成の才能のある方でしたでしょうね。
乳母と傅役は、殿と一生共に過ごすのが普通です。両者ともに人格者が選ばれ、感動的な良いエピソードが残っていたりしますね。
これらが、元服までの武家の子供に、役割として任命されて側にいる人々でしたが、それ以外に僧侶(後の御側衆)、奥、中奥担当の上級侍女、警備を担当している当番の馬廻がおられました。
活発になってくると、奥や中奥に務める下働きの男女も目にすることがあったでしょう。
またなかなか歴史の表舞台には現れませんが、傅役や近習たちの小姓、馬廻、小者も、側にいる方々でした。
傅役などは重臣の身分ですから、1人で歩くようなことはなく、当主である殿のように刀こそ持ちませんが、屋内でも小姓は従えていました。
また乳母たちも重い身分ですから、1人歩きしません。彼女たちにも侍女たちがついています。
また殆どの男児は、一定の年齢が来ますと、寺は預けられて、教育をつけることになります。
そうした時には、自らの小姓たち(御伽)と小者を連れて上山することになります。
そう考えると、武家の子供の周囲は何重もの壁が出来ていたのだなと思われます。
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