許された裏切り者、名将柴田勝家1

 柴田勝家、かつて実弟信勝の筆頭家老を務め、林秀貞と共謀して雌伏時代の天下人の暗殺を何度も、何度も目論んだと言われている男です。あの謀反の首謀格の一人でありながら、他のメンバーとは違い許され、宿老と呼ばれる立場に登りました。

しかも林秀貞のようなお飾りの役職者ではなく、兵を預けられ戦から戦へ転戦し、織田家から追われることはありませんでした。


なぜ彼は許されたのでしょうか?

彼の事後の対応を見ると、どうして佐久間信盛が許されなかったのか、分かるような気がします。

今回はそれを見ていきます。


柴田権六郎勝家(修理進)

大永2年〜享禄3年(1522〜1530)生、天正11年(1583)


柴田勝家の生まれた城は、愛知郡一色城であるという説があります。

ここの城主で名前が残っているのが「柴田源六勝重」(『尾張志』)と言い、没年が文亀3年(1503)になるそうです。

また勝家はこれの支流であり、隣の上社村で生まれたとする説もあります。


 柴田勝家の柴田氏は、斯波氏傍流の支流だったと言われています。

応仁の乱の最中に斯波宗家である武衛家を頼り、尾張へ来たという伝承があり、那古野今川氏、斯波氏両家に家臣として名前が残っています。

応永年間の妙興寺文書に「柴田孫右衛門久吉」、それから下尾張守護代織田達勝の次の守護代織田信友の家臣に「柴田角内」、また『織田信長の家臣団』(和田裕弘著)によると「柴田道楽」の名前が記録されているそうです。


柴田勝家の柴田家が、どちらの家臣だったかは定かではありません。

那古野今川氏と信秀が戦った戦でも、那古野今川氏家臣柴田氏が討死した記録があり、敗戦を受けて信秀の軍門に下ったのかもしれませんし、それよりも前に斯波氏から与力としてつけられていた可能性もあります。

ただ勝幡城時代に織田家の家臣として、名前は残っていません。


勝家が那古野今川家の家臣、一色柴田家支流上社柴田家で、信秀の那古野攻略で嫡流が討死し、氏長者に押し出されて、若くして重臣として弾正忠家の当主の元へ出仕したというのが、勝家の連枝衆の武将がいないこと、後述の勝家の長姉の嫁ぎ先から、個人的には辻褄があうかなと考えています。


後に勝家の所領は上社村(或いは一色村)から、下社村へと変わります。下の史料は佐久間信盛の山崎村同様、江戸期のものになりますが、上社村に比べて下社村はやや小さな村になることから、もしかすればこの処置は稲生の戦いの結果なのかもしれません。


愛知県図書館

「愛知郡村邑全図 上社村」

https://websv.aichi-pref-library.jp/ezu/ezudata/jpeg/077.html

「愛知郡村邑全図 下社村」

https://websv.aichi-pref-library.jp/ezu/ezudata/jpeg/075.html


上社村は佐久間信盛の山崎村よりもやや石高が高いようです。


この辺りは末盛城の近くでもあり、信長公が信勝の家臣に付けたのも一つにはそれが理由かもしれません。


 さて勝家の正室といえば、信長公の妹お市の方が有名ですが、その前の正室は信秀の従兄弟にあたる飯尾定宗(『織田信長家臣人名辞典』)の娘であるといいます。(和田氏前掲書)

その嫡男が桶狭間で鷲津砦から生還した飯尾尚清で、彼は享禄元年(1528)に生まれていますから、おおよそ年代的にはあっています。またこの飯尾茂助尚清に、亡き兄秀俊の忘れ形見の娘を恒興の養女とし、嫁がせたと言われています。これは年代的に継室になるように思います。連枝、連枝格の娘を嫁がせることで、絆を深めていますので、飯尾家は重要な家であることが分かります。

少し血は遠くなりますが、那古野今川攻略時当時、連枝で重臣だったとされる飯尾家の娘を勝家は正室にいただく訳です。


すると大永3年(1523)生まれの忠臣森可成、大永5年(1525)生まれの乳母の甥にあたる瀧川一益、大永8年から享禄元年(1528年)辺り生まれの佐久間信盛たちと大体同年代だったということになります。

この面々の中で主人の連枝の娘を貰うのですから、家格として幕臣であり尾張三大名家の支流山崎佐久間氏よりも上であったということになりますか。柴田家は将軍家の元嫡男、斯波氏の傍流というのは、事実なのかもしれませんね。更に勝家は若い頃から、既に見処のある重要人物であったということになるかもしれません。


 勝家は信秀の那古野入城の天文7年頃(1538)には、数えで9歳から17歳(婚姻を考えると15歳前後まで)で、信秀の下に出仕したことになります。

小豆坂の戦いでは、第一次合戦天文11年(1542)で12〜21歳(12〜19)、信秀の最期の戦である第二次合戦天文17年(1548)でようよう19〜27歳(19〜25)になります。(注()内の年齢は婚姻が那古野攻略後になることに依る推定)


『信長公記』に於いて柴田勝家が姿を現すのは、天文21年頃(1552)の信秀の死後の法要の席になります。この時柴田勝家、数えで25〜30歳前後。当主(信秀)の重臣としてはやや年若なイメージがあります。


その後信勝付きの家臣になりますが、共に名前が挙がっている佐久間次右衛門も父親の佐久間大学の父が佐久間信盛の叔父になることから、勝家よりは年上かもしれませんが、そこまで年齢が行っているというわけではなさそうです。


織田家の家臣団で重鎮そうな、佐久間大学ら御器所佐久間一族、元那古野今川家重臣山口一族などは当主である信長公の下に移動をしていますし、全体的に信勝の宿老たちは、やや若い感じなのでしょうか。


信勝の戦を見ると若衆である津々木蔵人と柴田勝家が大将として出陣していますから、信勝にとってこの2人が任せるに足る人物だったのでしょう。

また勝家は織田家にとって、嫡男の次男という難しい立場の信勝を任せるのですから、人柄が非常に信用の出来、文武共に実力のある上に、教養の深い人物であったことが知れます。(拙作「家督を継ぐ」参照)

信秀が亡くなるまでの戦で、勝家の名前が残ってないのは、もしかすると旗本として信秀の傍近くにいたからかもしれませんし、伊達政宗の片倉小十郎景綱のように、信秀の生前より信勝の傅役を任されていたからかもしれません。そうなると彼は譜代ではありませんから、連枝格に引き上げられた理由も分かります。


 勝家の兄弟に目を向けてみましょう。

勝家には姉が2人、妹が1人、そして勝家は唯一の男子だったと言いますが、庶兄で出家僧の信慶がいたとされています。

姉の1人は、柴田家の家臣である吉田次兵衛または渋川八右衛門に嫁ぎます。

もう1人の姉は、御器所佐久間家の佐久間久六盛次に嫁ぎます。彼のお父様は犬山にいたという伝承のある方で、もしかすれば織田家と同じように、嫡男は那古野に残り、家督を相続したのかもしれません。


妹は滝川一益に嫁いだと言われています。滝川家は池田家、森家と同じく流入組ですが、勝幡時代には名前のある一族ですし、この頃は譜代扱いだったのでしょう。

上の姉が家臣に嫁ぎ、下の姉が他の家である御器所の佐久間氏、妹が瀧川氏に嫁いでいることを見ると、上の姉は織田家に出仕する前、下の姉妹は出仕後に嫁いだことになります。


 次に柴田勝家の子供たちを見ていきましょう。

勝里、勝忠この2人は、柴田勝家の「庶子」、つまり実子であるとされています。

長男の庄左衛門勝里は、信長公の次男である織田三介信雄の下に出仕していたと言います。


次男の勝忠は、勝家の信頼厚い小姓頭である毛受勝照めんじゅ かつてる(めんじょ等読み方は定かではない)が引き取り育てたと言われています。この毛受勝照は元尾張の覇者水野家の末裔であり、父親の時代に春日井郡稲葉村に入り新居城を居城としたそうです。

勝照は永禄元年(1558)8月に生まれ、柴田勝家に小姓として出仕し、後に一万石を領し、最後は勝家の身代わりとなって賤ヶ岳合戦で討死する忠臣で、勝家も彼を非常に頼りとしていた逸話が数多く残っています。これからすると、勝忠はやや遅い出生(元亀以降(1573))ということになるのではないかと思われます。

その後勝家の次男である勝忠は、吉田次兵衛または渋川八右衛門婚姻していた勝家の姉と共に、北ノ庄城から佐久間信次の元へ落ち延び、関ヶ原で討死したと伝わります。


また実子である娘が寵臣塙直政に嫁いだと言い、彼の死後、原元次に再嫁したと伝わります。娘は原家の男児を生みますが、勝家の血をひくということで秀吉によって殺されたという伝承が残っています。

彼らの出生順は娘→長男→次男かもしれませんね。

また上2人は正室飯尾氏娘の腹であるかもしれませんし、次男は側室佐野六郎娘、佐野の方(『柴田勝家公始末記』)が産んだ子供かもしれません。


 勝家は多くの養子を取っています。

まず1人目の養子である勝春の詳細は分かっていませんが、家臣の息子であると言います。


三左衛門勝政は柴田勝家の姉と佐久間久六信次の間に弘治3年(1557)に生まれた三男です。「元は柴田勝家の甥である柴田監物義宣の養子であった」とも言います。この柴田義宣については出自がはっきりしていませんが、柴田姓の甥ということは、この頃の僧侶はしれっと子供がいますので、庶兄の信慶の息子でしょう。


伊賀守勝豊は、勝家の姉と家臣吉田氏(或いは渋川氏)の息子と伝わります。彼が家督であったという話も残っており、勝之(後述)と共に京都馬揃えに勝家連枝として参加しています。


権六勝敏は永禄11年(1568)に生まれた勝家の実子であるとも言われています。養子であれば、勝豊と同じく吉田氏(渋川氏)の息子であるとされています。彼こそが跡目であるという話もあります。

この2人のうちどちらかに、滝川一益の娘を信長公養女として嫁がせているという話があります。更にこの娘が後にいう秀吉の側室「三ノ丸殿」になるそうです。(『日本史』ルイス・フロイス)


源六勝之は、勝敏と同じく永禄11年に生まれた、姉と佐久間久六盛次の四男です。後に佐々成政の娘と結婚して佐々家に入りました。


養女になった娘は賤ヶ岳の後に勝家に殉死した家臣の中村文荷斎(宗教)の娘で、佐久間久六盛次の次男安政と勝家の養子になっていた勝之兄弟に連れられて北ノ庄城から落ち延び、後に高城胤則の室になったと言います。


またこの中村氏の息子である「六之助」が養子になったという話があり、もしかすると「勝春」が六之助なのかもしれませんね。


 さて、信長公次男信雄(永禄元年生(1558))は永禄12年(1569)に、北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となっています。

勝家の長男がその頃には出仕していたとすれば、若くても信雄よりも歳上ということになるでしょう。


それ以外の男児に関していえば、全員稲生合戦(弘治2年(1556))以降に生まれているように見えます。


 以上のことから組み立てられる推測は、どのようなことでしょうか。


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