桶狭間の戦い概要

(2020年6月12日に公開した桶狭間シリーズの再考で、今後順次公開します。

砦や人数などは資料として別にまとめます)



 桶狭間の戦いは、ご存知のことと思います。

今回桶狭間の考察をするにあたり、まずざっとこの戦をかいつまみます。



時は永禄3年5月19日(1560年6月12日)


知多半島の伊勢湾側の今川方の城である鳴海城(当時は根古屋とも)と大高城、これらに織田信長公が築いた付城(砦)を叩き潰し、食糧などの補給をしに来た今川軍4万5千(一般的には約二万五千)と織田軍本隊約二千の戦いで、知多半島の付け根あたりに広がる標高40メートル台の丘陵地で、本隊同士がぶつかった合戦です。


 今川義元公と織田信長公の当時の状況を、見てみましょう。


 今川治部大輔義元は、当時42歳(数え)。


義元は、駿河、遠江、東三河を押さえて「街道一の弓取り」の名を欲しいままにし、その当時、最も勢いのある大名(今川家の家督は、嫡男氏真に相続済)として認知されていました。


さらに桶狭間の戦いへ出陣する直前に、禁裏より三河守を叙位され、正式に三河の主になりました。



 それに対し清須を本城とする、織田弾正忠家当主織田尾張守信長は、齢27。


永禄元年に尾張守を叙位され、翌年2月、上洛して将軍、或いは帝に謁見したと言われています。

その後かねてよりその居城を包囲していた、尾張織田氏の長者である岩倉織田氏を下し、名の通り氏長者に就きました。


 では次に大高城と鳴海城、そして知多を見ていきましょう。


 大高城と鳴海城は、天文21年3月(1552年4月)、織田信秀逝去の一ヶ月後、元那古野今川氏重臣、鳴海城主山口左馬助教継が今川義元へ寝返って、隣の大高城(水野氏所領、城主は逃走)、桶狭間のある丘陵地帯を東に抜けた尾張沓掛城(城主近藤景春、桶狭間合戦後の織田軍による清掃戦で戦死)を調略し、手土産にしたと言われています。


この大高城と鳴海城に、信長公が付城(砦)を築きました。築城は状況的に永禄2年(1559)頃のことと思われます。


付城とは、城攻めの時に築かれる前線基地「陣城」です。

敵城のすぐ近くに築いた陣城を「付城」、あるいは「たいの城」「向かい城」と呼びます。

これがあると補給線が遮断され、情報も入らなくなるので、城は孤立してしまいます。


砦が築かれた永禄2年頃から、今川家では大高城に補給をする為に、織田家と戦をしている記録が残っています。

永禄2年に家康が補給を成功させたのが、唯一だったのではないか、とする学者さんもおられます。


鳴海城とは違い、大高城は城将の交代がされており、あまり条件が良くなかったのかもしれませんね。


こと桶狭間の戦い直前の大高城の窮乏は激しく、草の根まで食べたとされています。


この救援戦を「後詰ごづめ」と呼びます。


 しかし隣の鳴海城のことは触れられていないのが、非常に謎ですね。

鳴海城は熱田と引き潮の時には歩いてでもいける、呼続浜続きの尾張攻略の要所です。

ここの補給はどうなっていたのか、築かれた砦の位置と絡めて謎です。また赤塚の戦い以降、ここで戦が起こった記録はありません。


 さてこの頃、今川義元は知多の国衆を手につけるために、調略を活発化させていました。


 そしてこの永禄3年5月の進発には、義元本人が総大将を勤め、これまでにない程の大軍を率いいることを聞いた、織田家、水野家、今川家の両属、多属をしてきた国衆たちの多くは、今川家に従属することを決め、織田家に手切れを申し入れました。

その国衆の中には、庶兄秀俊の元正室にして、その死後信長公の乳兄弟池田恒興に再嫁した荒尾氏の実家も含まれていました。


 今川家の家臣の家々では、軍備の準備を始める他、通り道になる領地では、御大将義元の通過を支援する為に、食糧や草鞋などの消耗品の準備、休憩所や宿泊所の準備、更に通り道に当たらない家でも、進軍ルートに茶屋や道の整備のために、人員や銭を出しました。


この時期の三河まで土地の様子を想像すると、河川には舟橋を掛け、土砂崩れした道を整え、整備には手間暇かけられたと思われます。


また同盟の国々は、今川家から出陣の知らせを受け取り、祝いの引出物を贈りました。

更に見張っていた各国の間者たちは、本国に知らせを発したことでしょう。


まず5月10日(6月3日)に、先発隊が出立しました。

彼らは先触れを行い、準備が整っているか、道に不都合がないか確かめ、義元の本陣を敷きます。


本隊の出陣は5月12日(6月5日)。

今川軍は、粛々と駿府を立ちました。

使用した道は、清須にも通じる鎌倉街道(飯田街道)であっただろうとされています。

桶狭間までの道のりは、おおよそ160キロです。


また家臣たちは駿府に集合して一斉に出陣したのではなく、道々にある城に居住している武将は、最寄りの城で待機をし、本隊に合流しています。


 さて義元は今川館を出ると由井氏居城田中城(一色城)に入りました。

13日には遠江掛川城に入り、翌14日に飯尾連龍の居城曳馬城に宿泊しました。


この飯尾連龍は、桶狭間の後直ぐに家康と通じるのですが、飯尾家の家臣に秀吉が若い頃奉公していた松下家があります。

頭陀寺城主の松下家は、信長公の側室を出した生駒氏や熱田加藤家、田原戸田氏などと同じ商人国衆で、秀吉の商人的な側面は、ここの影響によるかもしれませんし、織田家へ転仕したのはこのツテによるかもしれません。

またこの曳馬城は、後に浜松城の一部になります。


 15日浜名湖の今切を渡り、三河吉田城に入ります。

この吉田城は東三河の重要拠点で、この当時小原肥前守鎮実おはらひごのかみしげざねが城代を務めていました。

彼は桶狭間の後、家康に転仕した東三河の国衆の証人約13人を見せしめの為に、寺で串刺しにして殺したので有名です。


16日には、家康の本城である岡崎城に着きます。

17日、今川軍は岡崎城を出立しますが、この頃は雨が降り続き境川が氾濫気味だった為、知立城で休憩を取った後、北上して沓掛城に入ったと言われています。


この進軍速度は、普通よりも遅めです。



尾張沓掛城は今川軍にとって、軍を休める最後の地になります。

その為18日にここで軍議を開き、最終的な下知をくだしました。


この軍議の内容は同日夕刻、清須城で評定を開いていた信長公の元へ届けられます。

『信長公記』によると、「松平隊は18日に大高城に入り、19日の朝、潮が満ちる頃に丸根、鷲津砦を襲う」というものだったようです。

これを聞いた信長公は気にとめる事なく雑談をし、夜も更けてきたと武将たちを返します。


同じく18日、先発隊の瀬名氏と大高城補給隊の家康が、沓掛城を出発します。


先発隊の瀬名氏は、あらかじめおけはざま山に本陣を設置し、神明神社で戦勝祈願を行っていました。

その場所はセナ藪と呼ばれているそうです。


補給隊を率いていた家康は途中隊を離れ、母親於大の方に会う為に織田氏家臣、久松氏の居城を訪れたと言われています。


 その後今川本隊は、少なくとも二手に分かれて桶狭間丘陵地帯を南に迂回する、東浦街道から大高街道を通り、大高緑地の山々へ。

大脇村から近崎街道に入り、瀬名氏の設営している本陣の横を通過して、東海道に入り、高根、幕山などに布陣したものと思われます。



 沓掛城から西に向かえば、鳴海城前に到達し、更には清須城に向かう鎌倉往還がありますが、兵が割かれたことは書かれていません。


 夜半、大高城前に陣を敷いていた家康は、突如大高城に入城して補給をし、まだ日が昇る前に大高城の付城である丸根、鷲津砦を襲います。


また義元は18日は大高城に宿泊したという説もあるそうです。


沓掛城から大高城までは、おおよそ2〜3時間程度の距離ですので、軍議の後休憩し、20時ごろに出陣し、城の中から松平隊が戦うのを観戦し、家康と入れ違いでおけはざま山の本陣に向かったのでしょうか。



 清須では、家康の攻撃が始まったという知らせを受けた信長公は城を発し、熱田に立ち寄って、加藤弥三郎の父親、加藤家当主図書助順盛の盃を受け、簡単な出陣式を行い、丸根、鷲津砦の焼け落ちる黒煙を確認しています。


ここで浜沿いの道に「塩満差入」るのを見て、馬を返し、かみのみちを大急ぎで丹下砦に向かいました。


 義元も大高城前に着陣し、既に砦を落とし補給も成ったことを受けて、舞を披露し、尾張に向けて迎撃態勢を取り、家康は大高城で休息を命じられます。


信長公は丹下砦から、善照寺砦に移り、それを見た千秋隊と佐々隊は今川軍を襲い玉砕します。


これを見て益々ご機嫌になった義元は、家臣に謡を歌わせます。


 信長公は善照寺砦から中島砦に移ると、そこで二千足らずの兵を揃え、檄を飛ばします。


 砦から出陣した織田軍が、桶狭間の丘陵地を登り始めた途端、突如として熱田の方角より風が吹き始め、辺りは暗くなり、激しい雨だけではなく大きな雹まで降り、雷は鳴り、突風は沓掛峠の大木をへし折ります。


その雨が弱まるや否や織田軍は、突然の豪雨と突風に惚けていた今川軍の本陣を突き、見事義元を仕留めました。


 首級改は義元のみとし、あとは翌日清須で行うことにした信長公は、日が暮れる前に帰城します。


 かたや家康は、清掃戦、乱取りの最中、義元討死の報を受けます。

日が暮れると、家康は織田方である水野家の旗を振りかざして、大高城を放棄して一路岡崎城へ向かい、城近くの菩提寺で、今川家の城代が城を出るのを待ち、23日に入城します。


鳴海城は、城将岡部元康がしばらく織田軍と戦いましたが、義元の首級と引き換えに開城、織田家の僧侶と共に駿河へ向かいました。


その途中で、水野宗家当主信元の弟信近が城主を務める刈谷城を襲い、信近の首級を奪います。


その首級は、知らせを受けた信元に取り返されますが、岡部元信は今川家当主氏真から感状を受け取っています。


信長公は知多への影響力を回復して、詫びを入れた荒木氏は嫡男を廃し、恒興の次男、後の池田輝政を養嗣子とします。



以上が、桶狭間の戦いの概要になります。





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