今川義元の桶狭間

  今回は、今川義元にとっての桶狭間を追います。


 義元は尾張侵攻、あるいは上洛が目的で、永禄3年の5月に兵を動かしたと言われています。


確かに義元が水野家に、桶狭間の一ヶ月程前に遣わせた書状に「夏中に、尾張侵攻を行う」という言葉があります。


永禄3年の立夏は旧暦で4月2日、桶狭間の戦いは5月19日で、に入っています。


ではこの時の出陣は、尾張侵攻が目的だったのでしょうか。


永禄3年の立秋は、旧暦7月7日です。

つまり「今年の夏」は、7月6日まであることになります。


当時の今川は太い人脈を駆使し、朝廷を動かして、比較的自分の都合の良い時期に、和平を相手方に申し入れることが出来ました。

ですから、特に無理な戦をする必要はありません。


すると永禄3年5月に義元が、尾張侵攻のために兵を動かしたと考えるのは難しいのです。


 理由は大きく分けると2つあります。


1つ目は尾張の土地の問題です。


尾張には大小の川が数多くあり、海抜0m地帯が続き、足場が悪く戦さ場には向かない土地が所々にあったようです。


そうなると大軍を動かす場合、尾張の土地に精通した案内人、場合によっては舟橋を掛ける舟を調達しなければ、安全に侵攻するのは難しいでしょう。


しかし元那古野今川氏当主が義元の弟ですし、調略もしてきましたから、尾張の土地を熟知した家臣が何人もいると考えられます。


ところが旧暦の5月のこの時期は梅雨にあたり、尾張に攻め込むには一番難しい季節でした。


縦横無尽に流れる川は氾濫し、低地はぬかるみ、兵が踏み荒らせば泥沼になり、そこへ騎乗の兵が踏み込めば、足を取られ、身動きができなくなる恐れがあります。


実際のところ、桶狭間の日は晴れていましたが、その前日までは大雨が続き、地はぬかるみ、川は少なからず氾濫気味でした。


こんな時期の尾張に、二万とも四万とも言われる軍勢で押し入るのは、危険すぎると思われます。



2つ目は、義元の行動パターンです。


弘治元年(1555)、戦国最強とも言われる軍師太原雪斎を失った義元は、かなりパターンを踏んだ軍の動かし方をしていたと言われています。


そしてこの頃の義元は、武力に任せて押し切る攻め方より、大大名らしく調略と自らの威容で屈服させる戦い方が目立ちます。


すると知多半島まで出てきて一旦撤退し、改めて尾張侵攻した方が、ここしばらくの今川義元の領地経営パターンに当てはまります。


例えば、この永禄3年の春、織田信秀の死により、長らく空位になっていた三河守の叙位を間近に控えた義元は、家康の政令で正式に今川領となった旧松平領に遠征し、吉良浜で舟遊びをしています。


公家衣装に身を包み、禁裏より許された塗輿に乗り、エリートである家格を誇示して、領地に支配力を浸透させる活動です。


ですからこの5月には、尾張侵攻に向け、調略を仕掛けていた知多半島の国衆や領民に対して、大高城補給を兼ね、大軍を見せつけて示威活動をし屈服させた後、一旦引き上げて、仕切り直して尾張を攻める方が、義元の行動パターンに当てはまるのではないかと思われます。



またここで尾張侵攻とともに、上洛説に於いても、忘れてはいけない視点が、もう一つあります。


当時の死者の研究によると、例年、おおよそ春先に食糧が尽き、餓死者が必ず出ている状況でした。


更にここ3年悪天候が続き、この永禄3年の春から夏にかけての時期というのは、こと東国の人々にとって最悪の食糧事情にありました。


この年のこの時期の今川家の食糧の状況は、大高城へ大量の補給をしなければならないとすると、かなりギリギリの状態だった筈です。


もしかすると尾張に討ち入り、食糧を掻き集めて、そのまま上洛をする算段だったと考えられるかもしれません。


しかし大雨が降ってズブズブの地を踏んで、清須を攻めて入城し、物資を出させ、制圧したばかりの尾張に留守居を配置し、雨の中、氾濫し気味の大きな川を渡って出発することになりますが、これはなかなか力技でリスキーな感じがします。


果たして、スタイリッシュで、昨今慎重な義元が、それをよしとするか疑問です。


しかもこの年、尾張より西の国に、義元が書状を出して、通行をする承諾を得ていた形跡は、今の所ありません。



それでは義元が尾張を我が物とし、ゆくゆくは上洛をするつもりであれば、そこまでの計画がどうだったのか、考えてみます。


行軍する場合、領地内であれば兵士たちは、補給を受けながら進むことができます。


今回の遠征で知多が手に入れば、尾張まで無傷で兵粮の心配なく進むことができます。


その上で尾張侵攻が成功すれば、経済的にも、行程的にも余裕で上洛が可能になります。


尾張から京までは、関ヶ原を押さえる斎藤家が素直に通してくれれば、遅くても三日ほどで着きます。


この頃の斎藤義龍は実父の道三を弑逆し、一色氏を標榜していましたが、天道思想によって、より清廉な君主を演出せざるを得ず、自ら戦を仕掛けるハードルが高くなっていました。

つまり義元が仕来り通り通行を申し入れれば、たとえそれが大軍であったとしても、通さないわけにはいかなかったのです。


 そう考えた時、まず、この端境期の食糧事情を改善し、過ぎ越すことが今川家の切実な重要命題で、そこをクリアした後、体勢を整えて梅雨明けに尾張侵攻を果たし、そののちに斎藤家や近江の人々に挨拶をして上洛を考えていたのではないかと思うのです。


のちにと言っても、上洛は永禄3年のことになるでしょう。


では、今川方から見た今回の出兵を、もうすこし掘り下げます。


今川家は金山を持ち、経済的には豊かですが、毎年続く天災で、今川領周辺での農作物を買い上げ、搾取にも限界がありました。


この頃今川家は京経由で、尾張の農作物を買っていたといいます。


尾張と和平を結んでいた時期には、直接買い付けも出来ました。

しかし、敵対勢力となればそうもいきません。


京へ出向き高い金を払い、船で本国へ運ぶという手間をかけることになります。


永禄元年にはまだ和睦状態にあり、永禄2年頃から大高城の補給をするのに争っていますから、手切れは永禄元年下旬から2年の初めにあったものと思われます。


何故この大変な時期に、わざわざ豊かな尾張と手切れをしたままになっていたのでしょうか。


領民たちを養うことは、領主の重要な役割であり、いくら経済的に豊かであるとしても、軍備、交際費、寺社への布施など使い所は沢山あります。


実はここの部分こそ、義元の今回の出兵の大きな目的を示しているのではないかと考えました。


また同時に、信長公の考える戦術の一つの肝になっている気がします。

その策に関しては「信長公の桶狭間」に譲るとして、義元の方を深掘りをしていきます。


永禄元年に、信長公がまだ尾張半国も治めていないにも関わらず、尾張守を叙位されました。


しかし義元は三河守の後は、尾張守を手に入れるつもりだった。


前述の通り、義元の計画には、知多に遠征をして威容を誇り、乱取りをさせて食糧事情を回復し、その後豊かな尾張を手に入れることもありました。


が、それはそれとして、尾張守を叙位された信長公の首級をあげることに、義元自身の目的があったのではないでしょうか。



 信長公の首を狙う義元の作戦の肝は、信長公の行動パターンです。


織田家の同盟国である水野領、両属、多属の国衆のいる知多地方まで進軍すれば、信長公は急ぎ出陣し、難所を引き受ける可能性が高いでしょう。


つまり、この梅雨の時期に今川は、尾張まで侵入する必要がなく、信長公をおびき出し、討ち取る計画を立てていたと読めます。



ここで思い出して欲しいのは、織田方も今川方も、すべて元水野領大高城に集中し、元織田領鳴海城に言及していない点です。


そして元水野領である大高城に入城し、その付城を襲ったのは家康と岡崎衆で、今川譜代たちは何もしていません。


不思議ではありませんか?


ここが尾張守叙位に繋がる、当時の天道思想への屁理屈のような取り繕った部分かも知れません。



これに関連して、 朝比奈氏が襲撃に加わっている話もありますが、これは文書の読み間違いから来るものではないかと思われます。


 ここの詳細は「水野家の桶狭間」「松平家の桶狭間」に譲り、更にもう一つの重要なポイントに移ります。


 今川軍が、大高城の付城を落とした後に、長い評定が行われたと言います。


その評定で義元が舞を舞い、その後千秋、佐々隊が討死をすると謡を歌わせたと、上機嫌な様をわざわざ『信長公記』に書かれている理由はなんでしょうか。


通常では、早く付城を落とし、無事に大高城に入城したからだと考えられています。


しかし戦国期の大将が、いくら困難だったとしても、付城が落ちて、補給が上手く行く度に舞を披露し、兵力差がある小部隊を撃沈させたからと謡わせるほど、平和だったのか疑問です。


実は前日の夜の評定で、「追い込まれると智慧の鏡も曇るものだ」と、信長公の家臣たちが陰口を叩く有名なシーンがあります。

これは当時有名だった読み物から取った台詞で、ここと呼応しています(読み物の名前を失念中……思い出したら追記します)


上記の作戦で義元が一番懸念したのは、清須に籠城することだったでしょう。

出陣するか籠城するか定かではない情報は、勿論義元の所に届いていた筈です。


それが出陣、しかも驚くほど少人数です。


補給が上手くいったこともでしょうが、策が上手くいっていることへの喜びがあったのではないかと思われます。


 それからもう一つです。


熱田の主人である千秋四郎季忠は、佐々隊と合わせて三百騎で出陣しています。

これは騎兵と歩兵合計の数でしょうが、千秋家と佐々家の家格差を考えると、この殆どが千秋家の兵だと考えられます。


信長公は熱田に立ち寄り、加藤図書助順盛と顔をあわせています。


つまり熱田では順盛が留守居をし、少なくともの加藤家の兵力が温存されていたことになります。


余談ですが、時折江戸期の町人みたいに書かれていますけども、当時の熱田は武家商人国家です。

加藤家は御家人からの奉公衆であり(加藤弥三郎の項)、熱田の人々が戦で功名を立てている記録もあります。


この辺りには、太田牛一の時の権力者への遠慮があるのかも知れませんね。


次に今川方についている尾張津島近くの市江島の服部党が、失敗したとは言え、大高城付城の攻撃の支援の後、海から熱田を襲おうとしたことが分かっています。


そして家臣に謡を唄わせたのは、熱田の主である千秋家の当主が討死した報に接してからです。

 

 つまり義元が今川軍を尾張方面に向けて扇状に軍を展開させたのは、迎撃態勢を取り、信長公を討ち、先陣の部隊に敗走を追撃させ、熱田を占拠することを考えていたからではないかと思われます。


何しろ今川の大軍は、飢えた人々により恐ろしく膨れ上がっています。

彼らは放っておいても、イナゴの群の如くに尾張に侵入し乱取りをするのは必然です。

追撃戦はどれだけ壮絶なものになるか、想像に難くありません。


 信長公を討ち取れば、嫡男信忠はまだ3〜4歳の幼児ある以上、庶兄信広の補佐の下、実弟で3番目の嫡男である三十郎信包が、大将として立つ可能性が高いと思います。


が、この時信包、数えで18歳。


当主の敗死の混乱に乗じて、犬山織田氏の信清が動くことは間違いなく、信清と今川の挟み撃ちになる攻撃を、受けて立つほど肝が座り、人心掌握する力があるかどうかといえば、厳しそうです。


今川方では家康や岡部元信をリーダーにし、知多の国衆を働かせて、元今川領である那古野城を回復し、尾張が乾く「夏中」に、義元が大軍を率いて再びやってくるという策だったのではないかと思います。



この流れを作れたことこそ、義元と今川家の家臣たちにとって、尾張守の叙位、そして上洛をし大望を果たすことを、天が認めていることの証左だったでしょう。


 義元の大望とはなんでしょうか。


まず服部氏が手合で参陣しているのを見ると、尾張の向こうあたりに、既に手を打っていることが分かります。


上洛と共に、伊勢、大津、堺、瀬戸内海、それから越前の貿易、商業ルートを、ゆくゆくは押さえることを考えていたのではないでしょうか。


そして上洛というのは、今川義元の思考の中では、他の大名とは違う意味を持っていたのではないかと考えます。


今川家というのは「駿河今川家の血流のみが、今川という姓を名乗れる」という縛りがあります。


例えば、那古野今川氏は、駿河今川氏の傍流です。

普通の家であれば、次男以下を分家できますが、那古野今川氏はできません。


また、那古野今川氏に嫡男が育たなかった場合、本家から養子を取るしかありません。

ましてや、織田家のように「賜姓織田氏」とかいない訳です。


なぜかというと、足利将軍の直系が絶えれば、吉良氏から出す。吉良氏が絶えれば、今川氏から出すという貴種の家柄だからです。


ではこの時期のこの二家はどうなっていたでしょう。


足利宗家は、100年前から既に力を失い、二流に分かれて、周囲の武家達の権力争いの駒のようになっていたことは、ご存知のことと思います。


当時の将軍、13代義輝は覇気のある方でしたが、まともに京にいることも叶わず、禁裏に於いても、改元は将軍と協議の末決めることになっていた慣習を破り、勝手に改元をするなど、まともに将軍職を全うしていたとはいえない時期が続きました。


永禄元年(1958)ようやく帰京しますが、この頃まだ三好氏の力も強く、政所は伊勢氏が支配し、傀儡政権の状態が続いていました。


私たちは、その後65年に二条御所で三好氏に弑逆されるまで、義輝が大名達と親交を深め、幕府による政治を復活しようとしていたことを知っていますが、60年春の段階では、混沌が続く様相でした。


また吉良氏は既に権威を失い、今川の保護下に入っています。


そして当時の禁裏の困窮は大変なもので、御所を囲っている築地塀が崩れても、直す事も出来ず、竹を立て掛けて凌いでいる状況だったと言います。


 義元は、足利宗家に繋がる武家エリートな家柄だけではなく、母親は権大納言中御門宣胤の娘で、姉は中御門宣綱の正室、そして、かの山科言継卿は従兄弟に当たります。


彼らだけではなく、多くの公家を保護したことでも有名です。

血統、武力、財力、人脈、そして文化、どれを取っても一流の男が、上洛し、朝廷と将軍にご挨拶申し上げ、多額の献金をし、さらに今後も支援することを約束する。


義元は家督を譲っていますから、何なら京に在住しても構いません。


没落しかけの義輝にとって、どれほど心強いことでしょうか。


後見として権力を握り、そのうち今川幕府ができてもおかしくないと、権威主義の義元が考えていたとしてもおかしくありません。


何しろ、義元のお母様の寿桂尼という方は、尼将軍ならぬ「尼御台」「尼大名」として、今川の政務を回すような女傑でした。


あの高名な「今川仮名目録」を作成に関わっているのは、当主氏親の病状からして、間違いないことです。

そして、主人と嫡男が相次いで亡くなり、義元が家督を継いでも、今川家を支え続けました。

義元が上洛し、権力を握れば、兄や姉などの人脈を駆使して、勢力を拡大したことでしょう。



 まさに約20年後、信長公が本能寺に斃れた時と、似た状況がここにあった訳です。

神が、天下に王手をかけようとしている二人の英雄の行く手を阻んだ事件ですね。


本当はどうだったのかは分かりませんが、後世の私たちがあれこれ想像することは、面白いことですね。

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