桶狭間① 進軍、当日

★今川軍進軍ルート


 今川義元が正式に領国に出陣を命じたのは、永禄3年5月1日(1560年5月25日)、あるいは2日とされる。


5月10日(6月3日)に、先発隊が出立。

瀬名氏俊隊200

(おけはざま山のある丘陵地に本陣設営、17日 桶狭間神明神社にて戦勝祈願)

井伊直盛、徳川家康5000

(家康大高城補給隊、直盛護衛兼先鋒隊)


5月12日(6月5日)


義元出陣。

使用した道は、清須にも通じる鎌倉街道であっただろうとされている。

桶狭間までの道のりはおおよそ、160キロ。(以下進軍距離はおおよそ)


駿府留守居 伊達加賀守景信


5月12日

(本隊)

19キロ

安倍川越え

田中城(一色城)宿泊


(先発隊)

遠江掛川城着


5月13日

(本隊)

31キロ

大井川越え

遠江掛川城宿泊


(先発隊)

遠江池田宿着

(天竜川渡待ちか)


5月14日

(本隊)

27キロ

天竜川越え

曳馬城宿泊


(先発隊)

二手に分かれる。


A班は東海道(浜松宿→今切渡→新居→白須賀→二川→吉田→御油、または→赤坂)

B班は天竜川を渡った後、浜名湖を回避する本坂通(市野→追分→気賀→三ケ日→嵩山→(豊川越)→御油宿または→赤坂)


今切渡いまきれのわたし

120艘、船頭360人で運航していたが、領主今川氏が渡る為に、これに周辺の村から舟を出させた。(普段の運航は昼50艘、夜間緊急、早朝16艘)

(渡し時間2時間、普段の通行用の船1艘に12〜13人)

江戸期(1713)の資料だが、その他に廻船37艘、浜船16艘、鰹船24艘、丸太船41艘が置かれていたとされる。


今川氏は吉原(富士川河口)、興津(興津川河口)、江尻(清水)、用宗(静岡)、焼津(焼津)、相良、掛塚(天竜川)の湊を統合し、水軍を形成していた為、これらの川を渡った後、順次船をまわさせて、大軍渡らせたとも考えられる。

天竜川前で先発隊が滞陣したのは、船の準備のためかもしれない。


A班、B班について。

最少三ヶ月、最大半年分の大高城補給を運んでいる家康隊とその護衛をする井伊直盛の隊5000がこれらを利用して今切を渡り、瀬名隊は本坂通を行ったのかもしれない。



5月15日

(本隊)

37キロ

浜名湖今切渡

三河吉田城宿泊


(先発隊)

A班 豊川御油宿着

B班 音羽赤坂宿着


5月16日

(本隊)

32キロ

豊川越え

岡崎城宿泊 岡崎城守備に庵原左衛門佐元景に1000の兵を付けて残す。


(先発隊)

A班(井伊、家康?)知立着


5月17日

(本隊)

矢作川を渡り宇頭より二手に分かれる。


(義元本隊)

12キロ

東海道  宇頭→今村→牛田→知立城着


10キロ

境川越え

尾張沓掛城


(本隊、別隊)

8キロ

鎌倉街道 北上し八橋に着陣(宇頭から一時間半程度、安祥城近く) 


(先発隊)

井伊隊の一部 鳴海城近く鳴海村に着陣、放火

瀬名氏俊隊、おけはざま山セナ薮に本陣を設営、村木、追分、鳴海、大高の監視をする。



★織田家、今川軍、18日


5月18日


●今川軍


尾張沓掛城

軍議


先発隊出陣

沓掛城〜大高城10キロ


沓掛城〜東浦街道〜大高街道〜至大高城


瀬名氏俊(義元本陣(セナ藪)守備、監視)

松平元康(大高城補給隊、鷲津、丸根砦攻撃、城将交代)

井伊隊 元康隊警備(鷲津、丸根砦攻撃)


本隊出陣

(義元は、松平隊と共に大高城に入ったとも言われる)


沓掛城〜東浦街道

1、東海道(山中)〜至中嶋砦付近

2、大高街道〜近崎道〜至丸根砦付近


松平隊 大高城前に着陣


特記事項


※松平元康

織田氏家臣久松氏の居城阿久比城(沓掛城より20キロ、大高城へ17キロ)へ出向いたと伝承される。


※今川義元

出陣の折、義元落馬し腰を打ち、輿にて出陣。

出陣式での落馬はよくあることで、落ち方により吉凶を占い、凶の場合は仕切り直しがされた。

ただし主人が亡くなった場合、このような不吉な挿話を作られることが多い為、真偽は定かではない。義元は自らの家格を誇示する為、最初から輿を使ったとも考えられる。


尚、義元の輿の担ぐ高さは、担ぎ手の腰の辺り。

形状は屋根部分を漆塗にしたもので、山道では屋根を取り外し可能。前後を二人で担ぐものだったとされる。

長さ1,5m、高さ2m以上。



●織田家


清須城

軍議


夕日の頃(18時頃か) 沓掛城での軍議の内容の知らせが入る。

「18日夜に入り兵粮入れ、助けなき様に、19日朝、潮の満ち干を考え、砦を払うべきの旨」(信長公記)


夜  解散



★織田軍、今川軍、桶狭間当日


馬の速度

並歩、時速約6.6km

速歩、時速10km

駈歩、約時速20km


5月19日


天候晴れ


干潮2時

満潮8時


時刻(当日夏至)

おおよそ昼一刻、2時間40分。夜一刻、1時間20分

日の出、4時38分


●未明(18日から19日にかけて)

松平氏大高城入城


丸根、鷲津砦襲撃

松平氏、岡崎衆


●明け方 「薄明」

この日卯の刻は4時より

清須に知らせが入り、信長公出陣準備〜出陣


●辰の刻

6時40分〜9時頃


※信長公

源大夫殿宮

13キロ

(当時は東加藤家居城、羽城の側で、浜近く)


東に黒煙を確認

人数 6騎 雑兵200


呼続浜

鳴海城へ続く道に、潮が満ち始めているのを確認。


急ぎかみの道を移動

丹下砦

6、5キロ

善照寺砦

1、3キロ


※今川義元 着陣

丘陵地帯に兵を展開済み


●午の刻 

およそ11時40分〜14時20分


※今川義元

兵を戌亥(西北)の方角へ向ける。

松平軍、大高城居陣


滞陣


※織田軍

千秋、佐々隊300騎

善照寺砦に信長公の来陣を見て、義元へ討ちかかり玉砕。


信長公

宿老到着、軍勢2000弱


中嶋砦へ移動

800m

檄を飛ばす

千秋、佐々隊生き残り合流


出陣


丘陵地帯 義元本陣近く 山際に登り始めた頃

熱田の方角より突風、豪雨、雹、雷に見舞われる。


沓掛峠の大木がへし折られる。


雨足の弱まりと共に、出撃


義元本陣を襲う


勝鬨

清掃戦(乱取)


信長公、義元公対面(首級改)


戦さ場清掃



日没前に帰城(信長公の帰城は16時ごろとされる)

(日の入り 19時過ぎ)


※家康

大高城


義元討死の報が鳴海城より入る

義元討死の報が水野家より入る


日没後

水野家臣浅井道忠を受け入れ、乱取りの続く中、水野家の旗を立てて退去

(岡崎衆の知らせを受けたともある)


知立城に入る

安祥城に入る

一緒にいた今川兵を解放

8騎で岡崎城を目指す。


5月21日頃 菩提寺大樹寺に入る


5月23日 岡崎城入城







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