合戦で御座る

戦の恩賞の頂き方(戦の文書)

 戦に関する公文書も割とそれぞれで、一定せず曖昧な部分があります。

何時ものように、大雑把にこんな流れだったんだなという感じで見ていただけると幸いです。


 その昔、平安も末期に至る頃より、各地の武将たちは、帝や将軍、あるいは叛旗を翻した有力者などから発給される「軍勢催促状」によって駆り出されたり、〇〇殿が挙兵したとかいう噂を聞きつけて参陣しました。


慶應義塾ミュージアム・コモンズ

「足利尊氏(右筆)軍勢催促状」

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/314


大将の陣に到着した武将たちは「着到状」という「来ました」という旨を文書にして提出します。すると軍奉行や大将が「承了うけたまわりおわんぬ」などの承認の文言と花押を付して返します。

まずこれが、戦後の恩賞請求の証拠になります。


長野県立歴史館

「市河助房等着到状」


https://www.npmh.net/ichikawa/detail/id-62.php


また軍奉行や大将たちは、それをもとにして「着到帳」に、誰がどれ程の軍勢を率いて何時、何処へきたか記入します。

次回の戦には、この「着到帳」の記載に基づいて、召集をかけることになります。また前回来なかった人たちにも出しますが、これは何度も誘いをかけることによって、相手の気持ちをこちらに惹きつけ、寝返らせる意味合いがあったそうです。


 さて戦が終わります。

『吾妻鏡』などを読みますと、それぞれが先程の花押付きの着到状片手にやってきて、傷を見せたり、討ち取った首級を見せたり、証人として敵兵を連れてきて、我が手柄をアピールしている姿が描かれています。

これは首級改めの前身のセレモニーにもなります。

きずや首級は、「実検」(じっくりと見る)、「見知」(ザッと見る)にわけられ、軍奉行や大将たちがそれを執り行っています。


しかし参加者全員これでは、流石に時間もかかりますし、負傷者が死傷者になったりする危険もあり(当時の死傷者の多くは戦さ場での死亡より、帰ってから亡くなる方が多かったそうですし)、まずは文書による報告がなされます。

この文書の書出が「〇〇(自分の名前)申軍忠事」なので、分類上「軍忠状」と呼ばれています。

「軍忠状」にはその時々に出されたものと、戦が一段落して出されたものがあり、中には「着到」と題された「軍忠状」もあります。

「軍忠状」の書止文言かきとめもんごんは「賜御判為備後証 恐々言上件如」(後の証の為に御判下し賜りますよう よろしくお願い申し上げます)ですので、この文言があれば「軍忠状」に分類されます。


 さて鎌倉時代から室町初期までは参陣しただけで「功である」とされていたために、「○月○日の○○戦に、それがし、一族郎党をつれ参陣したで御座候!」と報告があがることになります。

つまり敵に手傷を負わせた、あるいは城を落とした、敵将の首級を上げたなどの積極的な功が全くなくとも、「身命を捨て、毎度散々戦に参戦致し候」と申請が出されます。

そうなると手柄と言っても敵に傷を負わされたというのはまだしも、(自己判断で)鹿垣を撤去したとか、(勝手に)畑に火をつけたなどでも、「軍忠!」「軍忠!」と申し立ててくるわけです。


また「軍忠状」には「着到状」同様、一々大将や軍奉行などが目を通し、「一見了いっけんしおわんぬ」「承了うけたまわりおわんぬ」「無相違そういなし」などと書かれ、その下には花押が付されて、提出者に戻されます。

これらは後の恩賞のためのもので、「見たぞ」という証判が付されていることが重要でした。

「着到状」、「軍忠状」に、「一見了」などの文言が書かれて花押を付されたものを「一見状いっけんじょう」と呼びます。


神奈川県立歴史博物館

「2019年5月の逸品 土屋宗直軍忠状」


https://ch.kanagawa-museum.jp/monthly_choice/2019_05


「軍忠状」を見た軍奉行たちは、これはと思うものに対しては「注文」文書の提出を求めます。「注文」もまた上申状の一種で、「注進文書」という報告書の種類になり、「注進文書」の「注」と「文」を取って「注文」と略して呼びます。これは戦に限らず、様々なところで作られる報告書です。


さて戦における「注文」は、軍功を報告するという意味では「軍忠状」の一種なのですが、いわゆる「軍忠状」は家臣たちから自発的に出されるもので、「注文」は主人側から要請があって作成されるものであるというところが、大きな違いです。

ただし要請されずともその日の戦の直後に「注文」文書をしたため、従者の背負った鎧櫃よろいびつはこに入れて置いたとする学者さんもおられます。

この頃の形式は曖昧で、また「合戦注文」、「首級注文」、「手負注文」、「討死注文」と言っても、その家や地域によって呼び方が変わり、様式も一定していませんでした。ですので「軍忠状」を「注文」として書いていた可能性もあります。


こうして「注文」が提出されますと、役人による「実検」が行われます。この「実検」の跡は「注文」の紙面上に見ることができます。


プリンストン大学

「熊谷直経合戦手負注文」

https://komonjo.princeton.edu/kumagai-5/


これは「正慶2年(1333)3月7日」、南北朝の争いで「正慶」は北朝で使われた元号ですから、熊谷氏は幕府方で戦っていることがわかります。まぁ……有名な方ですよね。

「熊谷小四郎直經手屓注文」とあり、差し出し人が「熊谷小四郎直経」であるということになります。更にその斜め右下に「定慧」「資景」という人が花押を付しています。この2人が実検した戦の主催者側(今回は幕府)の役人です。


「幡サし中平三景能左ノホウヲイトヲサレ候」

熊谷小四郎の家臣である「旗指の中平三郎景能が、左の頬を射通されました」(左の頬を矢が擦りました)とあり、その下の方に先程の役人が実検し、その矢傷が浅かった為、「浅」と記入しているのが見えます。

また「中平」の「中」の字のところと「左ノホウ」の「左」に斜めの線がありますが、これも役人が実際に負傷者の名前と傷の具合を検分しチェックした印になります。


この後、「右手屓者今月五日御合戦ニ大手ノ西ノ中尾堀ノキワニシテ疵ヲカウフリ候證人武田余二同二郎同又二郎相共仁合戦ノ忠ヲイタシ時計仍手屓注文如件

正慶二年三月七日平直經(花押)」

(右記の手負の者、今月5日の戦にて、城の正面の西の中尾堀の際で戦っていたところ、傷を負いました。それを一緒に戦っていた武田余次、武田弥二郎、武田又二郎が見ていました。)

と、何時の合戦の何処でどのように手傷を負ったのかを明記し、その際の証人として、「武田余次、武田弥二郎、武田又二郎」という非常に似通った名前の方々を挙げ、「軍忠である」と主張し、「仍手屓注文如件よってておいちゅうもんくだんのごとし」と「注文」(この場合は手負注文)の書止文言が書かれています。

最後に「平直經」と、熊谷直経の本姓と諱を書いて花押を付しています。


これ以前の閏2月6日の千早城の戦でも、中平三郎は他の熊谷家の家臣2名と一緒に「注文」に登場します。道山左衛門次郎が左膝の上を斬られ、長尾又太郎はあごを射抜かれチェックされています。しかし中平三郎は右の目尻に石礫いしつぶてで負傷したのですが、この時にはチェックが入っておらず、検分には値しない程度の傷であったようです。


これら負傷は「このような傷を受けるほど、頑張って戦場で活躍した」という証であるとされていました。


 話は逸れますが、こうした手負や討死の報告書に挙げられるのは、人間ばかりではありません。乗っていた馬がやられたり、相手方の馬を殺傷したという報告が書かれています。


 さて役人たちはこの実検の結果を「実検帳」に記録します。この実検帳は検注帳ともいい、実際に検分したものを記録する帳簿のことです。

戦では「合戦実検帳」、「きず実検帳」、「分捕り実検帳」などさまざまな実検帳が作られ、それを元に評定が行われます。

そして「これはなかなかの手柄である」とされれば、帝や将軍に対して「挙状きょじょう」(推挙状)という推薦状を提出し、彼らが「そうだな」と思うとようやく感状が発給されて、下文くだしふみによって知行や官途を給付されます。


 またこれらの証判付きの「軍忠状」と「感状」のセットを持っていれば、我が家名を高め、家門の誇りとなり、転仕の時に有利に働きました。

ということで、戦のたびに大将や軍奉行たちの前には、膨大な量の「軍忠状」の山ができることとなりました。


ご存知のように感状は戦国期にも存在しています。


以下は、武田信玄の川中島の戦い時の感状です。


「今十九、於信州更級郡川中島 遂一戦之時 頸壱討捕之条 神妙之至感入候 弥可抽忠信者也 仍如件 天文廿四年乙卯 七月十九日 晴信

蘆川との」

(今十九 信州更級郡川中島において 一戦を遂ぐるの時 頸壱くびひとつ討ち捕るのこと 神妙の至り感じ入り候 いよいよ忠信をぬきんずべきものなり よってくだんの如し)


「本日19日、信州更科郡の川中島に於いて、(上杉軍と)一戦に及んだ時に、首級一つあげる働きしたこと、非常に感銘を受けた。これからも一層忠義に励んでほしい。天文24年 7月19日 武田晴信 蘆川殿」


その日のうちに殿からこんな文書をもらったら、感激してしまいそうですね。

こうした感状発給文化は、第二次世界大戦まで続いていきます。


 あれ?感状というのは、先ほどの説明では「即日交付」は無理そうでしたよね。


 これはまず「闕所けっしょ処分権」が、将軍から守護職たちに移行したことに依ります。「闕所」というのは、犯罪を犯したり、敗戦したりするなど何らかの事情で、所有者がいなくなった土地のことです。

室町幕府というのは、元々権力基盤が非常に緩かったものが、中盤に差し掛かるや否やあっという間に守護職たちが力を持っていきますが、その原因の一つがこの「闕所処分権」という土地の裁量権を彼らに委ねたことにあります。


これは現代で考えると、各出張所や支店の長が、本社から出向している社員を含む、全ての部下の昇給と出世の全権を握った形になります。しかもその出張所、支店で、全てのことが完結している訳です。


土地を自由に宛てがう権利を得た守護職たちの支配力は増大し、自らの領地に派遣されていた幕府の役人たちをも、自らの家臣として取り込むようになりました。

そして戦に於いても以前の将軍のように、守護職たちが自分の裁量で、家臣たちに土地を宛てがい、更に官途も与えます。(正式な官途は将軍の挙状を受けて朝廷が出す事に変わりありませんが)

ということはそれまでは一々「挙状」を出し、将軍の裁可を待っていたものが、大名たちは「感状」も発給するようになりました。

こうして「幕府」という大まかな共同体の中に結集していた彼らは、将軍を形骸化したものとし、自らがトップとして振る舞い始めます。


更には元々地頭職だった武士たちや、守護職の重臣だった家臣たちが台頭し、戦国大名として名を馳せはじめますが、守護職を凌駕していく過程で、彼らの持っていた「闕所処分権」や「(独自の)官途」を与える権利も行使するようになりました。


このシステムの変化は、大名武将たちの武功を監督する軍監(軍目付)を配備することにつながり、これによって軍忠状を出す必要は無くなります。

と言っても「軍忠状からの注文」から「注文のみ」へと、スッパリ変わったわけではありません。また「○○注文」と書き出していても、「賜御判為備後証 恐々言上件如」と御判を求める「軍忠状」の書止文言が書かれていたりします。


 こうしてスッパリとはいかない「注文」ですが、大まかなところでは、「軍忠状」というのは結局のところ「自分が言いたいこと、主張したいこと」が書かれるのに対して、殿が提出を求める「注文」には「殿が知りたいこと」が書かれるということが言えます。


そうなると時として、大坂夏の陣の藤堂高虎のように、こちらが言いたくないことまで詮索する殿が出現することになります。


戦闘に参加するべき、あるいは参加できる位置にいながら、全く損害も手柄もないというのは殿としては非常に不審な気持ちになるのは致し方のないことです。


一応は軍監に問い合わせるのでしょうが、基本的に彼らの視線というのは、戦闘中の部隊に注がれるものですし、大部隊になればなるほど、どうしても目が行き届かなくなりますから、彼らに聞いても要領が得ないことになります。


そうなると「お前、その時どこにおってん?何しててん?」と「注文」を提出するように要請をすることになります。

そうなると「戦闘には参加はして随分頑張ったんですけども、生憎ご報告できるような戦果は手に入らず」とか、もう参戦できなかったのを認めて「道路事情が悪くって馬がなかなか進まなくて、間に合いませんでした」と微妙な言い訳が並ぶことになります。

何だか現代人と変わらぬ人間性が垣間見え、親近感を覚えるのは私だけでしょうか。


彼らがどういう処分を受けていたのかは、文書にはなかなか出てこないので分かりませんが、桶狭間合戦を見ても、大軍になればなるほど、参戦することなく戦さ場でくつろいでしまう備は、古今東西少なくないことが分かるような気がします。


 とはいうものの「参陣しただけでも軍功」の精神も、戦国期に至り再び顔を覗かせていることも確認できます。


味方についてくれたことを感謝するものもありますし、北条氏康が桜井左近に宛てた感状は具体的な功名はなく、「走廻候」ことを感謝しています。


角川武蔵野ミュージアム(神奈川県歴史博物館)

「北条氏康感状」

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/gohojyo/collection/d_collection_51_zoom.html


 その他、元々軍功のある方なのですが、毛利家水軍の将、大多和就重に宛てた毛利元就の感状は、石山本願寺への援軍として出陣してくれたこと自体への感謝であり、また別の感状は長年に渡る籠城への労いへの加増のお知らせで、首級を取ったとか、怪我をしたということではありません。


では「注文を出せ」と責められるのと、手柄もなく「走廻」で感状を頂けるのと差はなんだったのかというと、結局のところ、士気を高めるかどうかということが重要なポイントだったようです。


 軍功で有名な「一番乗り」や「一番槍」ですが、高く評価されるのは基本的に「三番」までで、槍も「三番槍」、乗り込みも「三番乗り」、首級も「三番首」、そして「将附しょうつき」(後述)も三騎までが「ほまれ」、それ以下の七番までが「おぼえ」になります。

よくいう「〇〇の七本槍」とは、元々はその戦の槍働で功名高く「覚」に入った武将たちを呼びました。


この「功名」を頂くには、如何に戦ったかを問われます。

例えば首級にもランクがあり、大将首、名の有る武将の兜首が一番なのは勿論ですが、どういう状況で首を取ったのかを詮議され分類されています。逃げたり、倒れている敵を取るのは、「追い首」と呼ばれランクが下がります。

「槍」もどういう状況で相手を倒したのかが問われます。

槍の場合は相手が退き戦ではない接戦で、勇しく率先して槍を付けて戦ったことが基準になり、そういう槍の接戦の折に弓が相手を射れば「槍下の弓」、槍に先んじて弓を射れば「先駆」として評価されます。


大将首を上げる、城を落とすなどという決定的な勝利をもたらすものではないのですが、このように高く評価されているのは、結局のところ勇しく戦うことで、味方の「士気が高まる」というところにポイントがあります。


また「殿しんがり」(後駆。軍を退く時最後尾で敵の追撃をかわす備)や「将附しょうつき」(敗走の折、最後まで大将の側で踏みとどまる武者)も高く評価をされますが、これは危険を顧みず勇を奮ったという意味に於いて、一番槍や一番乗りと同じな訳です。



ということで、賞罰の基準は「士気を鼓舞する」ということなので、元気よく「わ〜、わ〜」走り回っておくことが大事なようです。


ということは、反対にそれだけ戦国時代の人々は、現代の私たちとそう変わらず、アドレナリン大放出して「命を投げ打って!」というタイプの人ばかりじゃなかったということですね。










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