信長時代の城の主郭(本丸)の建物
日本庭園学会で平成19年に発表された大澤伸啓氏の「中世武士の館庭園へ禅宗寺院が及ぼした影響」という論考の中に、非常に興味深い一節が有ります。
「中世武士の館における空間概念」という部分です。
「儀礼を行う場としての『ハレ』の場と、日常生活を行う場としての『ケ』の二つにわけ、更に『ハレ』の場を更に儀式を行う『表』の空間と宴会や芸能を行う『奥』の空間とに分類した」というものです。
これは考古学者の小野正孝氏による分類の仕方だそうです。
「ハレ」の「表」の部分には「主殿」と呼ばれる建物が建っています。
この主殿は、「平安時代以来の伝統的な王朝文明を表現する『和物』」(島尾新氏、日本美術史家の分類による)と有ります。
となると建物は入母屋造、
主殿は、正式、公式の対面儀式を行う場所です。盃事などの儀式を執り行い、主従関係の確認をする場でもあった様です。
主殿は前面に広場が配されます。
ここでは献上された馬を並べて、披露目をしたりします。
その広場の向こうに車寄せのついた玄関があります。
主殿には取次が待機する取次所、家臣が詰めて警戒をしている遠侍、番所があります。
「ハレ」の「表」の主殿で儀式を執り行った後、回廊、所謂渡り廊下を進んで「ハレ」の「奥」の空間に建っている「会所」へ通ります。
会所は身分の上下の隔てを取り、人間関係を深める為の交流の場です。
宴会、連歌会、能などの芸能、内々での集まりなどが行われていました。
会所は主殿が「和物」であるに対して「舶来の禅宗文化を表す『唐物』」(島尾新氏)になります。
会所には、会所の建物の横に庭園が造られ、それ以外では花壇などが付随します。
この庭園等と室内に飾られた豪華な唐物の陶磁器などで、来客に経済力と高い文化を誇示しました。
中世の武家社会に於いては、政治力、武力だけでは、人心掌握することは叶わず、経済力、文化水準の高さを見せつける事で、支配力を増していました。
ですので、会所というのは非常に重要な場所でした。
戦国物には、「〜阿弥」という僧形の御側衆が出てきますが、この「会所」のインテリアコーディネートをしていたのが、この方達です。
そういえば、前田利家がまだ若かりし頃、犬猿の仲だった十阿弥という信長公のお気に入りの御側衆がいましたね。
十阿弥の非道を利家が信長公に直訴しましたが、信長公は大して相手にせず、更に十阿弥を増長させ、我慢ならなかった利家が十阿弥を斬り殺し、出仕停止になります。
何故、十阿弥に甘かったのか、わかる気がしますね。
また、勝幡城時代、禁裏にまで素晴らしい会所の持ち主と名の通った、織田弾正忠家随一の文化人、平手政秀を嫡男、信長公の傅役に付けたのも成る程なと感じ入ります。
この会所の中にサウナ形式の風呂があったり、近くに建っていたりします。
山科卿達も蹴鞠の後、風呂を楽しんだようです。
さて、「ケ」の場所には、日常生活の場である常御殿、台所、蔵、厩等が建っています。
そういえば、会所の裏手には宴会の為の「膳所」と呼ばれる台所がくっ付いて建っています。
この膳所と、常御殿の台所は別です。
厩も蔵も幾つかあります。
これらが泥土をつき固めて作った築地塀(ついじべい)で厳重に囲います。
幕府が新邸の造営を決めた1539年(天文8年)閏6月の『大館常興日記』に
「御座敷を奥へとる庭に、はた板にても塀にても垣をさせらるべき事、いかがたるべきか。御大工共は先例これ無きの様に申し候」とあります。
庭のある奥御殿(常御殿)の一角を先例の無い板塀で囲うことの問い合わせがあって、それに許可が降り、はた板塀で囲った様です。
板塀は新しい文化だったのでしょうが、直ぐに浸透して行きます。
こうした建物が主郭に建っていました。
ここに天守、天主が建つのは、信長公が安土城を建てる辺りまで待たねばならないようです。
外部リンク
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(ご協力 麗玲様 有難うございます)
大澤伸啓氏
「中世武士の館庭園へ禅宗寺院が及ぼした影響」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgarden1993/2008/19/2008_19_35/_pdf/-char/ja
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