勝幡城とその城下町(追記)

信長公の産まれた勝幡城は、愛知県愛西市から稲沢市にかけての一帯に建てられた、惣構えの城です。


江戸時代に尾張藩が河川被害のため改修して、現在の日光川が勝幡城本丸を貫いている形になっていますので、少し想像しにくいかも知れません。


領内川と日光川そして三宅川が合流する、地図上の少し上の辺りのやや小高い土地を使って勝幡城の城郭があったと言われています。


勝幡城に限らず尾張の城は、広大な濃尾平野のお陰で、当時流行の守りに堅固な山城ではなく、京風の昔ながらの格式ある武家の本拠地の形式の舘城か精々平山城です。


勝幡城の主郭の部分に関しては「中島郡勝幡村古城絵図」(17世紀半ばに制作)が残り、稲沢市観光協会のHPでは360°viewの復元模型を見ることが出来ます。


「稲沢市観光協会 勝幡城推定復元模型」


https://www.inazawa-kankou.jp/syobatajyo/


この城に付随して、宿老達の堀を伴った大きな館城から足軽長屋、そして町屋や神社、寺院などがグルリと主君の城を取り囲んで建ち並び、その向こうに突き固めた土塀でそれらを取り囲んだ城郭都市でした。

その城壁の外には、家臣ではない商人たちの町屋が広がり、その向こうに田畑が広がっていたとされています。

今も「下市場」という地名が残っていますが、これが庶民が利用した当時の市場の名残です。


『尾陽雑記』によるとその惣構は「南北百二十間(約226m)東西百十四間(約214m)」だったとされています。




さて、信長公在世当時の中世においては、本丸、~丸ではなく主郭、~曲輪と呼ばれていましたので、ここではそれに従って呼びます。

また主郭を「実城」と呼んだ例もありますが、統一して主郭と呼ばせていただきます。


まず主郭部分の面積は非常に大きく、尾張守護の清須守護所(清須城内の斯波氏の居城)に次ぐ規模です。

これは、守護代の三奉行に過ぎない勝幡織田氏(弾正忠家)の勢力が、如何に盛大な物だったのかが偲ばれます。


1533年7月8日から27日の間、山科言継卿と飛鳥井雅綱卿が滞在しています。


こうした下向は、大名の権勢の大きさを示すよいデモンストレーションであり、公卿たちからすればよい銭稼ぎでした。


まず正式な対面をし、太刀や馬の献上を済ませた後、次の儀礼の為に通った場所はまだ引越しがすんでいない新造の御殿で、武家儀礼に則った、驚く程に素晴らしい庭や御殿の造作であったと山科言継卿日記に書かれています。


公卿の下向に、大急ぎで会所を新しくし、織田弾正忠家の威勢と文化の高さを示したのですね。



三好氏の勝瑞城舘を再現した「勝瑞遺跡 デジタル博物館」は、ネット上で遣戸などの細かな造りまで見ることが出来ますので、是非ご覧ください。

小説を書かれる方には臨場感溢れる場面をかけることと思います。

(追記1

上記の勝瑞城のデジタル博物館が観られなくなっていることを、麗玲さまより教えて頂きました。代わりになるものを探しています。)



尚、信長公の時代は畳ではなく、板の間で1段高くなった御座所(殿の座る場所)に、莚に近い畳表、毛皮などが置かれていました。


家臣は皆、床に座ります。

敷物を勧めるのは「戦働きの出来ない老人だ」と言っていることになりますので、主君以外は寒くても我慢ですね。



この他主郭部分にはサウナ形式の風呂、蔵、台所、それから城主の住まいである常御殿がありました。

また、ここ勝幡城に限らず他の城でもそうなのですが、主君の馬の中でも寵愛の深い愛馬は、主郭の一厩いちのうまやに入れられていました。

その厩は会所の広場に面して建てられており、広々とした房が片側に並び、反対の壁は片側は客人たちにお披露目しやすいように、上へ跳ね上がる仕様になっていました。

会所の建物から下に降りることなく、渡り廊下でつながっており、客人は広縁に出てそのまま厩を見学できるようになっている所もありました。

その場合は引き戸が付けられており、大きく開けて披露目をしたものと思われます。


勝幡城の主郭には東西の両方に虎口こぐち(出入口)があり、最大で幅30mに及ぶ広大な堀に、大きな木製の橋が掛けられていたそうです。

絵図では西が細くなった土橋になっていますが、廃城後の仕様で信秀公当時は真っ直ぐの虎口で木の橋がかけられていたと言われています。


このように勝幡城の主郭部分は非常に広い水堀に囲まれ、まるで水上に浮かぶ城のように見えたことでしょう。


堀に沿った土塀は南西の隅を大きく外に突き出させ、そこに10m四方の大きなやぐらを作っていたようです。

虎口の門の屋根も櫓も板葺、木製の典型的な中世の館城です。


反対の北東も外側に向かい突き出し、北西は緩やかなカーブを描いて、敵が攻めかかってきた時に側面を矢などで突けるように工夫されています。


主郭を囲む土塁の高さは水害対策もあり、約3.6m程でかなり高く積み、更に虎口近くになるほど、内へ入り込むような形になっています。



主郭に攻め入る敵兵は側面を完全に見せる形(合横矢、両横矢)になる為、この櫓や土塁から飛んでくる矢で相当攻めあぐねるだろうと想像できます。


主郭の西の虎口から出て堀を渡ると南北に長い帯曲輪があります。

ここにも武者の詰所や厩が配されていたと推察されます。

ここだけではなく、北や東にも小さな帯曲輪があったものとされています。


濃尾平野は沢山の川が流れ、道と同じように大切な交通機関でもありました。

三宅川は下流に商業都市、津島があります。

信長公の祖父である信定が津島を押さえることで、弾正忠家は大きく躍進します。


当時は、直接城から津島に乗り入れることが出来たそうです。




追記2

「逆井城」という、戦国後期に建てられた城をご存知の方も多いかと思います。

勿論模擬にはなりますが、二階楼や物見櫓もあり、勝幡城を想像する上で素晴らしいものです。様々な方がブログに載せておられるので、是非ともご覧になってください。


様々な写真をご覧になりつつ「余湖くんのホームページ」の鳥瞰図を見ると非常にわかりやすいのではないかと思います。

「余湖くんのホームページ」

逆井城

http://otakeya.in.coocan.jp/info02/sakasai.htm

(著者余湖様の承諾を得て、引用させて頂いています。逆井城以外も沢山の城を訪れ、鳥瞰図を書かれていて、参考になるのでお勧めです!)

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