信長公の最初の城、那古野城
那古野城は、信長公がまだ吉法師と呼ばれていた、天文十三年(1544)の末から翌年十四年(1545)の初めあたりに、父親である勝幡織田氏当主織田三郎信秀から譲られた城です。
この城には、弾正忠家きっての文化人で、広い人脈を誇る、傅役、次席家老、かつまた、台所 賄い(経理)として平手政秀。
弾正忠家に於いて三代に渡って仕えてきた、国衆の雄、林秀貞が与力を付けられ、次代吉法師をも凌ぐ勢力として一おとな、筆頭家老として家臣を取り纏める立場に付きました。
更に、平手政秀が招いた
更には弾正忠家でも勢力を伸ばしていた、佐久間一族の若き佐久間信盛などの若い勢力。
それから、那古野今川氏の元に居た幕臣たち、家臣たち。
那古野を攻略する前後で、味方につけた、元斯波氏の家臣を含む国衆たち。
賜姓織田氏である織田酒造之助など、古参の忠臣。
また、乳母、池田恒興の母、養徳院をはじめとした、跡継ぎを支えるに相応しい人材が留め置かれました。
その後、天文十五年(1546)、数えで十三になった若き那古野城主は、古渡城で元服して三郎信長と名乗り、翌天文十六年(1547)、吉良浜で初陣を飾ります。
そして、天文十八年二月二十四日(1549年3月23日)美濃の斎藤道三娘、鷺山御前が輿入れし、その十一月、信長公は熱田八箇村へ制札を発行し、織田弾正忠家の政務に参画し、信秀の跡継ぎであることを示したとされています。
こうして、弘治元年(1555)、尾張守護代であり、主家であった清須織田氏を破り、下尾張の主となるまでの約10年を城主として、この那古野城で過ごしました。(住んだのは、数えで五歳、満で4才頃からの約17年になります。)
まさに麒麟児の雌伏の地、那古野城です。
現在の名古屋城は徳川家康が、慶長十五年に第九子徳川義直の居城として、牧助右衛門の縄張りで建てた巨城を、再建したものです。
その名古屋城が建った当時、本丸の普請を担当した加藤清正に、本多正純が「もう一、二町南に寄せて築いたならば、費用が随分少なくて済んだのに。」と物申したと言います。
というのも、この名古屋城は名古屋(熱田)台地と呼ばれる、やや小高い台地の突端に建っていますが、名古屋城の本丸や深井之丸の一部は、この台地からはみ出して、海抜の低い濃尾平野にありがちな沼田の上に築かれて居たからなのです。
……しかし、ただ広く美濃の向こう広がる濃尾平野を一望できる、素晴らしい眺めであったことでしょう。
それでは信長公当時の那古野城は、どうだったでしょうか。
城塞都市那古野城は、尾張の覇者とならんとする弾正忠家の次代様の居城に相応しい、那古野城本城、家臣団の舘城、様々な寺社仏閣、そして町屋などを含む総構の巨大な城郭都市でした。
最初の那古野城の築城主は、今川義元の父親である氏親であると言われています。
那古野城下を東西に走る今中小路を東進し、南下すると直ぐに駿府へ向かう駿府街道(飯田街道)がありました。
足利幕府の直臣の那古野今川氏として尾張を睨み、本家である今川と連絡の取りやすい交通の要所にこの城を築いたようですね。
また北西に伸び、後に実弟信勝と戦う稲生へ到る道も確認することができます。
また徒歩1時間程度のところに、熱田神宮があり、美濃街道や京に向かう道が走っています。
徳川時代の記録では、慶長時代に那古野城を築くまでは寒村だったと書いてありますが、那古野城は、現在発掘している場所ですら、南北1キロ以上の城下町が広がっていたことが分かっています。
発掘の記録を読みますと、武家屋敷の溝は15世紀後半の物もあり、今川時代から一定の大きさの城下町が形成され、その後、信秀の手によって、当時としては大規模な、総構えの城、城塞都市が築かれていたことがわかります。
現在建っている名古屋城を倒して、発掘調査が出来ないので、ほんの一部しか明らかになっていませんが、名古屋城の南にある、愛知県警本部近くの二の丸の敷地に、一辺が100m以上ある巨大な箱堀を構えた、大きな館城、信長公の最初の城である那古野城、本城があったと推察されています。
万事雅やかな今川氏の縄張りで、更に建築には趣向を凝らした信秀公の改築ですから、護りに易く、攻めに堅い、堅固で尚且つ典雅な、室町期の京風の格式ある、武家の本拠地として形式の整った舘城だったことでしょう。
また信長公当時、この名古屋台地の西北端に立つ城は、柳ノ丸城、那古野城と呼ばれていました。柳ノ丸は「
その那古野城、主郭の南側に、五万五千坪という非常に広い敷地を誇る、弾正忠家菩提寺、萬松寺が建っていたと記録に残っています。
縁起によると「現在の中区丸の内2丁目、3丁目と錦にまたがる」と書いてあります。
こちらは、天文9年(1540)に、伯父である大雲禅師を呼び、開山したものです。
更に古地図を広げてみます。
本城を囲むように辺りには、勝幡城同様、宿老たちの深く大きな堀を巡らせた、巨大な舘城が立ち並び、外に向けて段々と規模の小さな屋敷などが建っていたようです。
また、那古野城を出て南西に2から300m歩いた、現在の名古屋城の三の丸あたりに、「安養寺十二坊」、当時は「天王坊」と呼ばれた「氏神天王様、天永寺」、その東隣には「八王寺」、更にはその南に「安養寺」の一群がありました。
その近くには、若宮八幡宮があったと言いますから、寺社仏閣町が軒を連ね、それの左右には、重臣達の城屋敷があったのでしょう。
更にそれらの南側に「萬松寺」と書かれた一角が広がっています。
つまり、信長公の住んだ那古野本城、通りを挟んで、家臣の大きな堀を巻いた武家屋敷、広い寺社仏閣町があり、その南に萬松寺がドドンと広がっていたことになります。
萬松寺の南にも武家屋敷や町屋があったかどうか確認できませんが、おそらくはあったんじゃないかと思いますので、それらの向こうに城壁があったことになります。
ところで、上記の所をちょっと現在の地図で確認して頂けると有難いのですが、先ほどの那古野城本城あたりは、現在の「愛知県警本部」の上の方にある二ノ丸庭園とか、ドルフィンアリーナと書いてある部分ですね。
ここに若き日の信長公が住んでおられたと。
それから、県警本部やとなりの国家公務員共済組合連合会名城病院ですね、県警本部あたりが山口さんたちの屋敷が並び、その横の病院あたりから、三の丸のあたりに天王坊などの寺社仏閣街が広がっていた感じになります。
それから、三の丸の端っこあたりに、愛知県図書館がありますが、この辺りにも武家屋敷があり、堀を巻いて、名古屋さんちがあったように書いてあります。
その下の名古屋高速都心環状線が走ってるところから、東は久屋大通り、西は22号線、南は桜通りですね、これに囲まれているのが、丸の内2丁目、3丁目で、南の桜通りと錦通りの間が、錦という所になるようです。
この辺りが萬松寺ということになります。
単純に県警本部あたりから南へ約1キロとして見ますと、「錦通」のあたりになります。
「1キロをゆうに超える」ですから、錦通の下の方あたりを城壁にして、更に下の方に目を向けると、すぐに「古渡城址」という文字が目に入ってきます。
古渡にも本城の北側に、武家屋敷や町屋、寺社が広がり、それから城壁が作ってあった筈です。
そうなると、那古野城と古渡城の城下町を囲っている城壁というのは、驚くほどすぐそばだったのでは無いかと思われます。
更に古渡城から下へ下がると、これまた広大な熱田神宮と商業都市、熱田。東西加藤家が左右を挟む熱田の湊が、ずずずぃ!と並んでいたことがわかります。
熱田の古地図はネットでも公開されていますので、興味がある方は、探してみてください。
この熱田の湊から那古野城に至る南北のラインは、当時では相当の、大都会的な風景で、周囲を通る旅人の目から見ると、壮大な威容を誇る街並みだったことが想像できます。
古渡から西へ目を向けますと、前田利家で有名な荒子城や、その上には米野城もあります。東には佐久間信盛の城やらあり、どこまでも遠く広がる濃尾平野に、織田の家臣達の城がドドン!ドン!ドン!と点在していたのでしょうね。
と言っても、この熱田台地を外れると川や沼があちこちにあり、天然の堀……と言うのか、沼による要害……
まさに、遠くから見ると、那古野城は水に浮かぶ城といった感じがしたのではないでしょうか。
というのが、那古野城の風景でございました。
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