戦国徒然

麒麟屋絢丸

信長公の元服前までの織田家の本城について



 1534年、吉法師、後の信長公が、当時の織田弾正忠家本城、勝旗しょばた城で産まれました。


 吉法師が産まれた城は長い間、勝幡城、古渡城、那古野城のうち、どれか論争がありました。


それは、江戸時代に編纂された「名古屋合戦記」に拠って、信秀が32年の那古野城攻略後、34年に古渡城を築城したと言われていたからです。


しかし、33年7月に京から山科卿や飛鳥井卿が下向して勝幡城を訪れ、当時の那古野城主今川竹王丸と蹴鞠などを楽しんだという記述が「言継卿記」(山科言継卿の日記)にあることが発見されました。


また、38年に清須の守護代織田達勝が、信秀宛に那古野城普請工事の書状を出して、許可を与えています。(天文7年10月9日付 織田大和守達勝書状)

また、この年信秀は元の今川領、那古野城の天王坊の土地を安堵する書状を出しています。


ですので、1538年頃、信秀は今川義元の実弟の居城那古野城を謀略で落としたと現在は考えられています。



そうなると、古渡城の築城は38年以降になります。

では、古渡城はいつ頃の築城でしょうか。


「東国紀行」(連歌師宗牧の紀行記)に拠ると1544年11月、信秀は名高い朝廷への多額の献金のお礼の勅使(宗牧)を那古野城に迎えます。


勝幡城が本城であれば、丁度、平手政秀の屋敷は、禁裏でも有名な程、素晴らしい屋敷だったそうですし、そちらで迎えれば良いようなものです。

また古渡城が本城であれば、そちらで迎えているでしょう。


しかし、那古野城で歓待しているのは、信秀の本城が44年当時、那古野城だったという事ではないか、更に言えばまだ古渡城は完成していなかったのでは無いかと推測出来ます。


そして1546年、「信長公記」によると織田弾正忠家本城、古渡城で十三歳の那古野城主織田三郎信長は元服をします。




そこで、弾正忠家の本城は38年までは勝幡城。

38年以降、那古野城。

45年以降に、嫡男吉法師に那古野城を譲り渡し、古渡城へ移動したことになります。


まだネットでは、34年古渡城築城説が載っております。

もし、小説を書かれる方がおられましたら、気をつけて下さい。

















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