許された裏切り者、名将柴田勝家2

 稲生合戦の後、勝家は降伏の印として墨染めの衣で清須へまかり越しました。当時は上杉謙信や武田信玄のような入道の大名も少なくなく、こうした僧形の姿自体が恥である、或いは反省の姿であるという捉え方はありませんでした。

ではなぜこれが恭順の印になったかといえば、勝家は信長公に対して出家を申し出たということになります。これは今川氏に敗北した斯波氏と同じ構造になります。もっとも斯波氏の方は出家をさせられ、家督を放棄させられたわけですが。

つまりここでいう出家とはお手軽のそれではなく、「世俗と縁を切る」という本式のもののことになります。

つまり自らは当主の座をおり、「柴田家」というものを信長公に一任するという潔い態度であったと考えられます。


しかし勝家は書状に、最後まで「勝家」と署名しています。

ということは、勝家はその潔さによって、当時石高は減りましたが、織田家当主信長公により「柴田家」は安堵されたということになるでしょう。


また勝家は婚姻によって織田家の連枝格でしたが、実子を廃嫡し、正室を返す申し出をし自ら連枝格を降りたものと思われます。

実子を廃嫡するというのは、主人を危機に追いやった後、復帰するときに見られるやり方です。その場合、主人から与えられた養子を嫡男として受け入れます。しかし勝家の養子はちょっと様子が違いますね……

ちなみに林秀貞と共謀していた大脇氏などは、織田氏の血が次代以降に入っています。


また飯尾氏娘の正室は天正4年(1576)に亡くなっておられるのですが、こちらも離縁はしておられないとされています。

つまり信長公が、返す必要がないとされたということになります。

ということは「庶子」とは、勝家が自らの実子は「嫡男ではない」、つまり「信長公を裏切った自分の血は残さない」と内外に表明したことになり、数多い養子は「お目に叶った者を信長公に決めてもらう」という意志かもしれませんね。

これは織田家臣団にどういう影響を与えたか、それを考えるとすごいものがあります。


稲生合戦の直後、信長公は内心はどうであれ、快く勝家を許して還俗を勧め、その姿に感動した勝家は生涯かけて「忠義の証立てに一切を捨てる覚悟」を示したのではないかと考えられます。


そうなると勝家が、再度の信勝の謀反を信長公に報告したのも分かります。


『信長公記』は、秀吉の時代に編まれたもので、勝家に関することは曖昧な部分はあるでしょうが、それに付けても彼が人間的に魅力的で、信用に足る人物であったことは窺い知れます。


例えば、勝家の嫡男を北畠家に押し込む信雄に付けていること。

信勝の嫡男である信澄の養育を託し、成人後の信澄を連枝として重用していること。

滝川一益の娘を「信長公の養女」として、勝家の跡取りの息子に輿入れさせたのは、その思いに報いるためでしょうし、その「恩賞」である娘を秀吉がわざわざ側室にしたのもわかる気がします。

また本能寺の変の後の市姫の輿入れは、土田御前が勝家を指名したと伝わります。


勝家の潔さ良さこそが、後の佐久間信盛と勝家の運命の分かれ道だったのでしょう。


そうしたことを考えると、もしかすれば然るべき時(家臣団の軋みが落ち着いた頃)がきたら、勝家の養子には別の家を立てさせ、実子に家督を譲らせる心算が、信長公の中ではあったのかもしれませんね。


 それにつながるのが有名なこの一文です。

「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間」

信長公が自らの家臣を評した言葉と伝わりますが、面白いなと思うのが、秀吉と丹羽長秀は物が当てはめられ、勝家と佐久間信盛は戦さ場での戦いぶりを特長としてあげています。

それでよく「木綿藤吉」を「丈夫で器用になんでもこなす」、ひどいものになると「農民出身なので」などとつけられて解釈されているのですが、この当時の木綿というのは非常に高価な貴重品であり、戦さ場で最も必要とされる布でした。

一つには兵たちの着物です。汗を吸い、保温力がある木綿は兵の闘争力をアップさせたといいます。二つ目には火縄銃の火縄部分です。火縄銃の威力はこれまでの戦を一変させました。三つ目に大型化してきていた軍船の帆です。それから色に染まりやすいことから、旗印などにも使われていました。

そう考えると「木綿藤吉」とは、兵を鼓舞して実力を出させる能力が高いという意味ではないかと考えられます。


あまりここに拘っていては話が進みませんのでざっくりいえば、織田軍における統率力のある4人のリーダーの、戦でのリーダーとしての特質を言い表したのではないかと考えられます。


つまり柴田勝家は、兵たちのテンションをマックスにまで高めて、敵に斬り込ませることができる、そうした特質を持った武将だったということになります。

檄を飛ばすのが非常に上手であったでしょうし、連帯感を高めることも得意でしたでしょう。ということは日頃からの人付き合いも良く、非常にポテンシャルが高く、部下から信頼される人物だったのでしょう。

しかしそれだけではなく、勝家の心の底には、「死」を覚悟した過去というものがあり、いつでも信長公の為にこの身を捧げるということを、常々己に戒として持っていた(養子の件などから)ということがあるのかなと感じます。

そういう勝家の無私で謙虚な姿、健気な忠誠心を知っている者からすれば、極限状態になる戦さ場において、「家の為、主人の為、己が命を惜しむな!」と言われればついて行こうという気持ちになるのも分かります。


しかし、となると潔い勝家としては、とても不思議な文が『信長公記』に書かれています。

それは稲生合戦における、勝家軍の様子です。

本陣に斬り込み信長公に迫った勝家軍ですが、信長公の一喝で総崩れとなり、そこからの信長軍は、普段非戦闘員の小者までもが勇んで兜首を取るという、まさに軍神摩利支天が降臨したかの如くの勢いとなりました。


勝家は元々自らに厳しく潔さを持った人物でしょうし、そうなると相当肝の据わっているはずです。

主人とはいえ失脚、殺害を画策している相手から一喝されて総崩れになる、というのは大変おかしな話です。

勿論私は信長公推しですから、信長公の威風辺りを払うと言いたいところですが、それなら勝家は他所の家の殿、例えば武田信玄や今川義元など軍神、街道一の弓取りと名高い武将と戦うのは厳しそうで、一喝されたくらいで総崩れになったことのあるそんな人物を部将として立て、「かかれ柴田」と呼ぶのは躊躇われます。


 考えてみれば、もともと柴田勝家と信長公というのは、あまり接点が無かったのではないでしょうか。

勝家が信長公と同じ城にいた頃、信長公は元服前であり、まだ真価を問われる以前の話になります。

その後も確かに顔を合わせたことはあるかも知れませんが、当時、目上の人物の顔を直視したり、直接口をきくことは憚られることですし、噂に聞く程度の関係性でなかったかと思われます。


そうなると何故、勝家は信長公失脚に動いたのでしょうか。


『信長公記』には「勘十郎様(信勝)、林、柴田御敵の事」の箇所に「さるほどに。信長公の一おとな林佐渡守(秀貞)、其の弟林美作守、柴田権六申し合わせ、三人として、勘十郎殿を守り立て候はんとて、既に逆心に及ぶの由、風説執々なり。信長公、何とおぼしめしたる事やらん」とあります。

更に「林兄弟才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり」とあり、もともとの首謀者は林秀貞兄弟であったと書かれています。


この林秀貞の与力に大脇氏がおられますが、この大脇氏は那古野今川氏の元家臣であり、最初に申し上げましたように、柴田氏と共に那古野攻略の折の死亡者名簿に名前を連ねています。


この当時の戦、内乱は、実際に戦に至るまでに、長々と調略合戦が行われるといいます。調略は知り合いから入ります。

つまり、柴田勝家は信勝の筆頭家老となってから、その立場ゆえに林秀貞から大脇氏を通じて調略を受けたのではないかということになります。


一般には信勝は優等生的な性質だったとされますが、実はこの根拠は非常に薄弱で、残る逸話を見るとどちらかというと、職人肌的な趣味人タイプだったのではないかと考えられます。これについては「信長公の兄弟3」で公開する予定です。


 つまり林秀貞としては信勝が素晴らしいからではなく、弾正忠家の跡を取れる嫡男は、当時信勝しか駒が無かった為の選択で、信勝を神輿に乗せるため筆頭家老、あるいは傅役の勝家に声をかけたのではないかと考えられます。

尚、何故林が打倒信長公に走ったのか。

通説では「うつけ」と言われていますが、『信長公記』には家督相続後からのものであるように書かれており、その「うつけの姿」とは、林秀貞の暗殺よけではないかと拙作『深読み信長公記』では考察しました。そして当時の常識を鑑みると、「家督相続直後の戦で、大敗を期したこと」により、神に選ばれなかった信長公ではダメだとなったのではないかとしました。

勿論そこには、佐久間家や平手政秀への嫉妬などの私心があったのではないかと思われます。


 対して勝家は当時の常識的な人間として、神に否定された新しい当主が率いる織田家の行末に対して不安が生まれるでしょうし、そこにその当主の一番家老という一番支えるべき人から否定的な話を持ち込まれれば、信勝をどのように評価をしていたかは定かではありませんが、信勝の方がマシかなと思うのも仕方ないことかもしれません。

しかし萱津合戦などで信長公の命令で戦を繰り返すうちに、徐々に弾正忠家の当主に相応しいのは信長公ではないかという気持ちになっていっていたのかもしれません。


その結果の一喝からの総崩れだったのではないか。

となると、自分の考え違い、判断の失敗で主人の家に危機をもたらしてしまったと深く反省をしての出家であり、以後の始末の付け方ではなかったか。


そう考えると柴田勝家という人物の、人としての立派さというのは、相当なものです。

失敗をした時、人間は誰しも「自分は悪くない」と考えたい、人のせいや環境のせいにしたいものです。あるいは「たまたま」だとか、もっともらしく言ったりしがちです。

特に立場が上がれば上がるほど、自分の失敗を失敗と認めるのは難しいものですし、いくらでも言い訳というのは立つものです。

しかし勝家は一切の言い訳を廃して、自らの過ちを認めます。


またその揺らいでいく経過を末森城に住む細作や親兄弟から、信長公は聞いていたのかもしれません。 その結果の処分であるなら、他のメンバーと差があってもおかしくないのではないでしょうか。

とはいうものの勿論、稲生合戦から暫くの間、勝家の名前は見ることができません。

おそらく手柄を立てにくい場所で、縁の下の力持ちという役割に徹していたのでしょう。


 柴田勝家が本能寺の変の後、土田御前が市姫を託したのも、政権を簒奪しようとする秀吉と争うことも、秀吉が三法師を死守したのも、全て必然でしたでしょう。

歴史にたらればはありませんが、あの日勝家が近畿にいれば、すぐに安土城に入り、家臣団に号令を掛け、いち早く光秀を斃し、信長公の遺した織田政権を命をかけて護ったかもしれません。大変、残念なことです。


柴田権六勝家。

彼はもっと評価されるべき武将ではないでしょうか。

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