戦国期の性
若様の子作り事情
若様に庶兄が居るのは戦国時代において普通のことです。
では何故、若様には庶兄が居るのか。
まず前提として、戦国大名の結婚、子作り、つまり「性」というのは、「
明治時代までの日本は、今と全く様相が異なり、非常に性に対しておおらかな国だったと言います。しかし、当時の支配階級にある武家、大名の跡継ぎにおいては、おおらかではあるものの、自分の好きには出来ないという意味では、今よりも制限された物でした。
さて、 乳母は、若様に乳を飲ませる役目の人と、教育係の人と、両者を兼ねる人が居ました。
例えば、大蔵卿局はお茶々の乳母で、息子の大野治長は乳兄弟ですね。これは、乳をやる役目をしたんでしょうね。
大蔵卿局はそのまま教育係の乳母になり、茶々が子供を産むと、今度はその子の教育係の乳母に就任しました。
この様に乳母は2種類役目があります。
母乳をやるだけの人は、終わればその地位を辞することになります。
教育係になった乳母は若様の成長をしっかと見守ります。
この方が若様子作り責任者です。
若様が大体十才前後になると、そろそろ子作りの仕事に向けて教育を始める年頃になってきた、となるようです。
そうなりますと、乳母は侍女を
実地訓練といっても、まだ本格的な物ではありませんが、非常にハードなトレーニングです。
叩いたり、晒しを巻き付けて締め上げてみたり、局所的な筋トレと考えて頂ければと思います。
どちらかというと、女性を喜ばせ、夫婦仲を良くするというものではなく、きちんと妊娠させるための厳しい肉体的訓練ですね。
大変そう...。
次期当主を始め、次代の子供達を生み出すのは、非常に重要な戦国大名の嫡男、嫡男に嫁ぐ姫としての仕事です。
それは、寺で四書五経を教わり、師匠に武術を習うのと同じスタンスで、今とは常識が異なり、感性が違うのですね。
乳母は若様が性的に成熟し子作りできる体勢が整いますと、嫁取りの支度に入るように傅役に伝えます。
すると傅役は、若様のお相手の姫を探し始めます。
この正室こそが、家の次世代を産む重要な方で、嫡男を上げるまでは若様の子種に関して独占権がありました。
例えば、美濃の姫である鷺山殿(信長本妻)に男児が生まれて居れば、美濃平定した場合、旧主の血筋の若様が主人ということで、赤の他人より治めやすくなります。
ですから、正室が若君を生んでくれるというのは、家の存続のみならず、うまくいけば、相手の国と何かあった時に、有利にことを進められるのですね。
さて、子作り可能になった若様は、正室との婚儀まで、過激な訓練が始まります。
現在そういうお店でしてくれるようなこと(よう知らんけど)を夜な夜なされるようです。
しかし、ここで重要なことは、訓練において決して最後までは行ってはいけないということだそうです。
子種の独占権は、嫡男を産む正室にあります。
嫡男が生まれたあとは、そこで権利が無くなるらしいです。
また基本的に若様が二十歳までに、嫡男を上げられそうにない判断されると、側室探しになります。
側室も若様の好みがどれだけ反映されるかは不明です。
基本的に、正室よりも家格が下がる、絆を深めたい他家、或いは家臣の妹や娘で、経産婦が望ましかったようです。
このように正室に嫡男ができない場合は、実家が有力で係累に問題のない嫡男を産めそうな女性を選びます。
取り敢えず訓練中と正室が嫡男を産むまでのその期間は、若様は妊娠の心配のない小姓に手を出します。
小姓は正式に出仕が決まると、様々な城中での心得を学ぶと同時に、褌親或いは先輩の小姓から、男同士の房中術の手解きを受けることになるそうです。
粗相があって、殿さまに斬り殺されたという話もありますから、小姓も大変ですね。
基本的に殿が男色関係を結ぶのは、これ!と思った有能な小姓で、何人も手当たり次第という訳ではないようです。
念者(殿)、若衆(小姓)の関係は、精神的にも奥様よりも深い。まぁ、殿は命を預けますんで、それくらいの勢いがいるんかも知れません。
恋愛は小姓と!というのが常識だったらしいので、多方面には手を出さない方が身のためです。
また、信長公の弟の信勝くんの死をもたらした間接的な原因は、近習とアレで柴田勝家が嫉妬したというので、小姓との愛は混ぜるな危険ですね。
皆それぞれ苦労はするのですが、残念なことに侍女との訓練中、誤発射による妊娠が起こるわけです。
それで、正室との婚儀の前に、庶兄が出来てしまうのですね。
江戸時代は知りませんが、戦国時代では若様が「愛い奴め」とする訳ではありません。
そこまでの余裕は、戦乱期の大名家にはまだ無く、責任感の強い真面目な嫡男と家臣団は文化として頑張って嫡男創造に邁進します。
では、信長公のお兄さんの信広は織田家に居るのに、信長公の子息は何故、家臣に下げ渡されたのか。
これは推測ですが、正室の格の違いかなぁ?と思います。
鷺山殿は、敵対していた美濃の国主斎藤道三と、尾張の下守護代三奉行織田弾正忠家が同盟を結んだ証として、嫡男信長公に嫁いで来ました。
対して、お父さんの信秀公の正室は、例の尾張下守護代織田大和守達勝の娘です。主君の娘ですね。
永正十年(1513)達勝は兄が斯波氏と争いの果てに自害した為に、急遽当主になりますが、あまり権威のある方ではなかった様です。
特に当時台頭して来ていた信秀の父に押され気味でした。その為、嫡男の三郎信秀に娘を嫁がせ、絆を深めようとします。
しかし、その後、敵対関係になった信秀は正室を返し、継室に土田御前を娶ります。
土田御前の出ははっきりとしませんが、少なくとも土田氏は大名家では有りません。
有力豪族の娘で、のちに信長公の嫡男を産む生駒氏の親戚という説もあります。
もし生駒氏ならば、土田御前が信長公の側室に生駒氏を勧めた可能性も無きにしも非ずですね。
正直、今流布されている様に信長公と土田御前が不仲とは、調べれば、調べるほど考えにくいです。
取り敢えず、美濃を治める大名家の娘とは、ちょっと格が違います。
まぁ推測です。
武田氏や上杉氏はどうだったのか、ちょっと気になりますね。
という事で、出してはならぬ実践トレーニングの末に、暴発で庶兄が出来てしまうという戦国大名家の教育事情でした。
因みに、これは信長公の乳兄弟の池田家の文書からの引用に御座います。
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