戦国時代の女達 池田三姫
昔の女性は大和撫子で貞淑で夫を立て、というイメージがありますが、少なくとも戦国期の女性はそうではありませんでした。
戦国期の女性は、夫婦別姓、別収入で自立しており、女領主も存在し(「日本史」)、あまつさえ戦さ場には沢山の女達が剃った眉を炭で黒々と描き、花や草の実で唇を赤く染め、男に混じって戦さ場に赴き、男顔負けの勇猛ぶりを発揮していたと本多忠勝が語った話が残っています。
殿とていつ死ぬか分からない時代ですから、おしとやかで2歩も3歩も下がって夫を立てるタイプより、自分の意見を持ち、いざとなれば一家を守れる、どっしりと肝の据わった女性が好まれました。
杉浦日向子氏、磯田道史氏の研究によると、面白いことにこのタイプは、江戸期に入ると武家の奥方とともに、江戸の町屋のオカミさんたちにも見いだすことができます。
武家の奥方はお小遣い(化粧料)を実家からもらったり、下級武士であれば内職をし、町屋のおかみさんはパートで働き、いざとなれば婚家を切り盛りし、婚家や夫に依存をしない自立した女性達で、感覚としては現代と似ている気がします。
おかみさんとなれば、婚家や夫に義理立てすることなく、その気になれば再婚、再々婚と夫を変えて、元気一杯に暮らしているのもよく似ています。
有名な三行半は、結婚するときに書いてもらうのがしきたりで、旦那さんに見切りをつけるとそれを片手にとっとと出て行ったそうです。
さて今回はそんな日本の元気な女性たちの中から、池田恒興の三番目の姫をご紹介したいと思います。
恒興はご存知のように、天下人織田信長公の乳母の子です。殿の乳兄弟というのは、家中でも格別なステータスでした。
「信長協奏曲」の向井理さんの影響で、恒興には穏やかで知的で献身的なイメージもありますが、どうもその反対の性格の方だったようです。(ついでに恒興は本人の鎧から、かなり小柄だったと推定されています)
恒興は幼い頃から信秀に従い戦さ場に出ていたという逸話が残っています。また『信長公記』の記述を見ても、吏僚タイプではなく体育会系の武将だったようです。
恒興の娘では女人鉄砲隊のせんが有名ですが、父親の元気な気質を最も色濃く受け継いだのは、実は三番目の姫、天球院と呼ばれる女性ではないかと思われます。
天球院の俗名は分かっていませんが、三番目の姫として生まれましたので、ここでは三姫と呼びましょう。
天球院縁起に依ると、三姫は永禄11年(1568)に生まれ、近江山崎の山崎左馬充家盛に嫁ぎました。
婚家の近江山崎氏は、元々六角氏の家臣でしたが、永禄6年(1563)六角氏のお家騒動から距離を取るようになり、永禄11年(1568)信長公が近江侵攻を始めると、真っ先に降ったそうです。
この前年に生まれたのが、山崎家盛です。
早いうちに婚約を整えられ、婚儀は天正8年(1580)前後に行われたと思われます。
居城の山崎城は山崎山城とも呼ばれ、彦根市稲里にあります。
信長公が岐阜城と安土城を結び、上洛するために整備した「下街道」の要所にあり、関ヶ原を抜け、安土城へ向かう途中にあります。
わずかに残る石垣から、安土城との類似が指摘されており、下街道と付随する城をトータルコーディネートして、信長公の偉容を感じさせる造りにしたのかもしれません。
こうした重要な拠点に入る武将に、公の連枝や連枝格の家と婚姻関係を結ばせて、絆を深めていたのですね。
夫の父である山崎片家は、判断力に優れた知将であり、勇猛な将であり、更には茶にも造詣が深く、文武両道の優秀な武将だったようです。
天正10年(1582)本能寺の変が起こると、安土城にいた片家は、すかさず安土の自邸を焼き払い(もしかして貰い火で天主が焼けたのでは)、山崎城にトンズラします。
そこを光秀に攻められると降伏し、光秀軍として佐和山城を占拠してみたりします。ところが光秀が敗れたと聞くと、一目散に秀吉の元に駆けつけ、お味方を約束し所領安堵されます。
この状況判断、身軽さはすごいものがあります。一家を背負う主人としては、かなり優秀なのではないでしょうか。
そしてその冬、秀吉より摂津三田城二万三千石へ移封されます。
またここからは秀吉の盟友?織田信雄に従属していましたが、両者が争い始めると、すぐに秀吉の元へ駆けつけます。
ここからは秀吉の家臣として、大活躍をしていきます。
加藤清正と仲が良く、山崎片家のことは加藤家の文書に残っています。
さてこんな機を見て敏で優秀なお父さんが天正19年(1591)亡くなると、家盛が数えで25にして当主になります。
残念ながら早々に夫婦仲は破綻しており、家盛は側室を優遇し、三姫を顧みなかったようです。
これで終われば、彼女の猛女ぶりが後世に残ることはなかったのですが……
時は慶長5年(1600)
秀吉亡き後、家康と大阪方の間に、戦の機運が高まってきました。これを案じた石田三成は、諸侯が会津討伐に行っている隙をついて、大阪屋敷に住む妻女を大阪城に入れる策を打ち出しました。
「大阪城に行け!」
そう命じた夫に激昂した三姫は、
「妻と言ってもほったらかしにあろう!妻を人質に出さないといけぬのなら、普段お前が大事にしている側室をこそ出せば宜しかろう!」
おもむろに刀を抜き、それを片手に夫に迫り大声で叫びました。
「大阪に行けば死ぬ!どうせ死ぬなら、ここでお前を殺して私も死ぬ!」(池田家履歴略記、意訳)
そうして家盛の腕をグアシ!と掴むと、止める近習達を振り切って、夫をズルズル引きずりドコドコ寝所に向かって歩き始めました。
「助けてくれ!余が悪かった!」
びっくりした家盛は慌てて三姫をなだめますが、三姫は夫に見切りをつけます。
何しろ家盛と来た日には、自分の正室はさっさと大阪城に差し出す手はずをつけているのに、兄である池田輝政の正室で、家康の次女の督姫とその息子を逃すのには、とにかく手を尽くして、尽くしまくり、最終的には自分の所領へ送り匿っているのですから。
三姫を素直に大阪城へ送り込めば、三成たちには「家盛はこちらのお味方!」と思って貰え、督姫を助ければ家康に感謝されることでしょう。
三姫にとっては、自分をあまりにも
気が合わないとしても正室としてそれなりに大切にしており、事情を説明していれば、肝の座った池田家の娘です。二つ返事で了承をして、ついでに大阪城の内部で大暴れして、早めに徳川幕府が始まり、淀殿と秀頼も生きていた可能性もなきにしもあらずです。
コミュニケーションの大切さを感じるエピソードです。
この時三姫のおにいちゃんの池田輝政は、徳川四天王の酒井忠次、家次の居城だった三河吉田城に入っていました。
三姫は石田軍の目前を突っ切って、吉田城へ逃げ落ちたといいます。
って書くと簡単なんですけど、これ結構な距離ですよ。三河吉田城は愛知県豊橋市にありますから、大阪城あたりからお得意のGoogleマップで調べると224㎞。ブラックなマップ氏によると、休憩挟まず昼夜を
まぁ中国大返しでもないので、江戸期の人が1日に歩ける距離で考えると、5日半ほどかかります。
当時既に宿屋はありましたし、お店もありましたが……
婚礼で持ち込んだ荷物とか、どうしたのでしょう。ここは潔く、金目のものだけ持って出て行ったのでしょうか?
「け!こんなもん、ケチくさい山崎にくれてやるわ!」って感じでしょうか。
しかし城主夫人とそのご一行様が出て行く訳ですから、止めるものはいなかったんでしょうか?つまり普段から奥様はお出かけしがちって感じですか?
鷹狩とか軍事訓練に勤しんでおられて、「あ〜奥様隊が今日も訓練に出かけられるんですね」って感じだったんでしょうか。
それとも「大阪城に入ります」ということで出て行く途中でトンズラしたのでしょうか?
お味方の山崎家でしたので、石田三成の監視もほかの諸侯の方に割かれて、さほどでも無かったのかもしれません。
しかし、目前ってどうなんでしょう。
まぁ、さてさて、そんなこんなで城を脱出し、無事に兄の居城に着いた三姫は、関ヶ原の戦いが終わると家盛に離縁を叩きつけます。
というものの、それでは池田家としても困りますし、正室を助けてもらった恩も義理もあります。そこで家盛の息子に自らの養女を嫁がせて縁を繋ぎます。
兄としては困った妹かもしれません。
そんな「困った姫よの〜」という思いが池田家にあったのでしょうか、この居候時期に乱心者が三姫を襲います。すると三姫はあっという間に打ち殺してしまったそうです。
あっという間に打ち、殺してしまいました。
大切なところなので二回言いました。句読点はわざとです。ええ、大事なところなんで。
撲殺?
さすが剛の者であることよ〜
その後の三姫は輝政のところではなく、関ヶ原の慶長5年(1600)11月に鳥取の主人になった、弟の
鳥取城には「天球丸」と呼ばれる三層の櫓がある曲輪があるからだそうです。
彼女の法名の元になっている菩提寺の「天球院」というのは、寛永8年(1631)から12年(1635)にかけて、池田光政の手によって京に作られたもので、建立時に敷地から球が発掘されたことから名付けられました。
因みに天球院の本堂の東西廊下の天井は、関ヶ原の前哨戦にあたる伏見城の戦いで自決した、家康の忠臣達の血が染み込んだ床板で作られた、六つの「伏見城血天井」寺院のうちの一つです。
撲殺、血天井とパワーワードが続きますね。
さてこの光政というのは、どなたでしょうか。
三姫の兄である池田輝政は元々中川清秀の娘の糸姫を正室としていましたが、後に家康の娘の督姫を迎えるにあたり、糸姫を側室に下げます。糸姫出生の嫡男が利隆と言います。
利隆の正室には、家忠の養女として徳川四天王の榊原康政の娘を頂き、慶長18年(1613)輝政の死後に播磨姫路を領しました。
話は戻ります。
しかし母親の血筋というのは大きく、家康の次女督姫の産んだ男児の忠継には、慶長8年(1603)5歳であるにも関わらず備前岡山を。
弟の忠雄には、慶長15年(1608)9歳で淡路洲本が与えられ、池田一門で百万石となり、池田宗家は「西国将軍」と呼ばれるようになります。
利隆は跡目を継いで播磨姫路の太守になるまで、弟忠継の領地である備前岡山の城代を務め、善政を敷いていたそうです。
そして慶長20年(1615)忠継が亡くなり、利隆と忠雄の間で備前岡山の相続権が争われました。
この時に忠継生母の督姫が、毒饅頭を利隆に勧め、女中が指で「どく」と書き、それを見た忠継がそれを食べて亡くなり、督姫も恥じて毒饅頭を食べて〜という逸話があります。
忠継は昭和に検死がなされ、毒は見つからず、記録の通り疱瘡で亡くなっていることが確認されました。督姫は19日前に二条城で亡くなっているので、死後岡山城で饅頭を食べるのはかなり難しそうです。
この話の類型は保科正之の継室お万の方の毒殺事件など、江戸期に多数見受けられます。
池田家の岡山争奪戦で利隆の後ろ盾になったのが、かの三姫でした。
離縁の原因になった督姫憎しで利隆の肩を持ったと言われていますが、どうでしょうか。
西国将軍と呼ばれる池田家の繁栄の基は、無念の最期を遂げた、恩のある信長公の乳兄弟と寵臣を殺した徳川家の怖れです。
現代でも「将門の首塚」の祟りは有名ですから、怨霊が実在し、秀吉の最期は信長公の怒りと言われていた当時ですから、鎮魂の思いはさぞや……です。
とはいうものの時の流れと共に、組織経営上天道に基づきつつ、勢力を削りたいのは仕方ない話です。
最初からあるものを当たり前と思いがちなのは。人間の性です。忠雄たちが幕府の思惑を察しなかったのは、仕方のないと思います。
しかし栄枯盛衰を見てきた三姫は、幕府の意図を理解していたのではないでしょうか。
そして結局忠雄に沙汰が降り、洲本を廃地にし岡山に入ります
さらに元和2年(1616)利隆が亡くなり、嫡男が跡目を継ぎます。この嫡男が天球院を建立した光政です。
しかし、この時光政は8歳。
幼少を理由に姫路を取り上げられ、その上叔父である長吉の領地であった因幡鳥取城へ転封されていました。
この頃鳥取では、長吉の後を嫡男の長幸が継いでいましたが、これは備中松山城へ。
おそらく三姫はこの時光政とともに鳥取に赴き、天球丸に住んだのではないでしょうか。
鳥取城は標高263米の久松山に築かれた梯郭式の山城で、その山麓最上部に天球丸が設けられています。
光政は父の相続争いの時、後ろ盾になってくれた三姫に感謝し、大事にしたと伝えられています。
しかし姫路は42万石、鳥取は32万石の減転封で、その上実際のところ鳥取は年貢の収容率が低く、10万石以上の減収になり、光政の池田家は大変な目にあったそうです。
その後叔父の忠雄が寛永9年(1632)に亡くなると、嫡男光仲が3歳と幼少だった為、光政は岡山へ転封され、鳥取での経験を生かし名君の名をほしいままにしました。
督姫の子供には幼少でも良かったのですけども……ねぇ?
あ、さて。
三姫は天球院が出来ると、岡山から京へ移り、翌寛永13年(1636)に亡くなりました。
世には出ていない猛女伝説が、まだまだあるのではないかと思いますが、三姫が甥やその子供達に大事にされ、晩年を過ごせたのは良かったですね。
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