信長公の誕生日

 この公開日は、公の誕生日の6月23日で、誕生日に関するエピソードを語りたいと思います。


 公の誕生日エピソードといえば、貝原益軒「朝野雑載」に載っている

「星占いというものは当たるのか、同じ生年月日同時刻生まれの男を探して見たら、極貧の男だった」というものでしょう。

これは古今東西、天下人、帝にまつわるエピソードのパターンの一つで、常に同じオチが付いているので、そういう実証主義の主君には「ありうるかも」と当てはめてみるのかもしれませんね。


今回これをあげたのは、もし本当だったとしたら、天下人になった当時、信長公の生まれた時刻を鮮明に記憶している人がいた訳だと感動したからです。


出生時間が記録に残っているのは、寡聞にして神君家康公と独眼竜政宗くらいしか知らないのですが……

どういう基準で出生時刻まで書くか、書かないかの判断があったんでしょうね?


話が逸れました。

もしあったとしたら、天下人というキーワードからして、居城を安土に移してからになります。

覚えているだろうなと思われるのは、まず実母である土田御前ですが……


 当時の正室の出産は、嫡男誕生までは、家をあげての一大イベントでした。

生まれるとなると産屋の中にいる産婦の周りでは、「腰抱」と呼ばれる産婆役のお侍女が後ろから抱えるようにして腰を持ち、 巫女が祝詞を唱えつつ砂を撒き、御簾の向こうでは旦那様の殿が経文の巻物を握りしめつつ、小姓たちと並んで大声でお経をあげ……

お産が極まってくると、旦那様の殿が駆け寄って、自ら正室の腰を持ったりして、これがまた、戦さ場で鍛えた大声で、ワンワン耳元でお経を唱える訳で。


うるさかっただろうな……


いや、それはさておき、隣の部屋ではお坊さんたちが、護摩を焚いて、こちらもよく響く鍛えた喉で、ワンワン読経をし、広縁では家臣たちがヒュンヒュンと鏑矢を音を立てて射たり、バンバン弓の弦を搔き鳴らしたり、庭では陰陽師がもうね、キャンプファイヤーみたいにゴーゴー火を焚いて、その周りでは、微禄の家臣たちが。

大身の家臣は屋敷の別室や広縁で、もうね、無事に生まれますように、無事に生まれますようにと大声で、ワンワンお経やらなんやら生まれるまで唱え続けるという。

真夏の昼間とか極寒の季節とか大変ですよ。台風とか嵐とか直撃しているともうね、みんな大変です。

正室の皆様も命がけですけども、ワンワンやる方も、庭で火を焚かなきゃなんない陰陽師の方もね、どうしてたんだろう?と心配です。

風が強いと火の粉が散って屋根が焦げたとか焼けちゃったとか、なかったのでしょうか。


なんで大声かというと、出産の時の産みの苦しみの声は、悪霊の声だったそうで、それに負けちゃ奥様や生まれるお子様が連れていかれるというので、もうね嫡男誕生かもとなると、お城の皆様は一世一代の大事件で、風雨を押してでもワンワン大変な訳です。


流石にこんなのを主郭ではしなくて、いや、穢れの問題だったんですけども。

正室の産屋は、重臣の屋敷だったそうですが、重臣の屋敷といっても、正室の場合は居城内ですから、すぐ目と鼻の先で、みんなが集まってきて。

足軽の皆さんとか、町屋の皆さんとかも、二郭の門のところでワンワンやっている訳ですから、他の家臣たちの眠たい赤ちゃんや子供も堪りませんよね。

それに共鳴した犬とかも吠えてそう……


おまけに、やっと生まれたよってなっても、ルイス・フロイスによると20日間に渡って横臥が許されず、鰹節と粥を啜っての苦行生活だそうです。

死ぬわ〜、そりゃ死ぬわ〜


ちょっとこの辺りは公開が遅れていますが、「戦国大名、子が出来たでござる」シリーズに詳細を書いてあるので、そちらを見て頂くとして。

こんなんじゃあ、正確な時刻なんて覚えているんだろうか……という気がしたという話な訳です。



信長公が誕生された頃から、覚えているような一定の年齢でこの時代にまだ生きているといえば誰でしょう。

と名簿を見ていますと、いますね。

林新五郎秀貞さんが1513年生まれで、当時21歳です。信秀公の偏諱を頂いているほどの重臣ですから、一緒にワンワンしてそうですね。

ということで、林さんが「実は、公の誕生なされた折には」とお話した可能性があります。ボケていなければ。


といっても、当時の時刻の確認方法というのは、お寺の鐘の音と太陽の位置だったそうです。

ざっくりですね。


また麒麟屋が話を広げすぎて、公の誕生時間に、話が辿りつかないじゃないかと心配な気持ちになっておられる方もおられるでしょう。(別のエッセイではよくあります)

ところが、これをさらっと書いている本がある訳です。

最初から粛々とこれを出せばいいのですが、それじゃあ単なる本の紹介になりますし、せっかくなのでアレコレ書きたい訳で、お付き合い頂きありがたいなと思います。いつもありがとうございます。


さて、それは磯田道史氏の「日本史の内幕」という本で、「古文書を調べていたら、東大史料編纂所の『織田系図』謄写本(鈴木真年原蔵)に、信長は「天正三年甲午五廿七〔八〕生尾州勝幡城とあるのを発見した。」とし、「わざわざ訂正注記してある」ことに注目して、「深夜はしばしば前日の日付で表記される」。それを以って、「日付が変わる子の刻ごろに生まれたと仮に推定し」たと書かれています。


それで、まぁ

「上様は、子の刻生まれに御座候」と林氏が申されて、恙無つつがなく占えたかもしれません。

というお誕生日エピソードでした。


それでは、皆様、アデューで御座る。

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