信長公初期の佐久間一族(信盛の追放)

 今回は天正8年8月に追放された佐久間信盛を考えるにあたり、まずザックリと佐久間一族について見ていきたいと思います。


織田軍の総司令官とも言われる佐久間信盛を輩出し、初期の織田家では単独で最大の兵力を保持してしていたと言われている佐久間一族ですが、あまり良質な史料は残っておらず、佐久間一族の関係性もはっきりしていないのが実情です。

いつものようにエンタメとして、こんな側面もあったかもしれないね、と捉えて頂けると幸いです。


 佐久間家は尾張三大名家と呼ばれる家の一つでした。尾張三大名家とは、いずれも幕臣である那古野今川家、熱田神宮大宮司千秋家、それから御器所佐久間家になります。


 佐久間信盛の父親は佐久間左衛門尉信晴で、彼は本家である御器所の佐久間氏の四男で、分家して山崎に住んでいたと言います。別に家を立ててもらっているということは、正室の息子であったのかもしれませんし、山崎佐久間家というのが既にあり、そこに養子に入り家督を継いだのかもしれません。

信晴の長兄で嫡男の与六郎盛明が、御器所佐久間氏の家督を継ぎます。その息子の家勝が『信長公記』の時代に「氏長者」として出てきています。

次兄は久六盛重。彼は後で言及しますが、「犬山城主だった」と逸話のある人物です。彼の嫡男は久右衛門盛次で、柴田勝家の姉妹を正室に迎えており、相婿は滝川一益という説もあります。盛次の息子がその縁で、勝家の後継として柴田家の養子に入っています。

三兄は弥太郎盛経で、彼の息子が有名な佐久間大学允盛重です。大学允盛重の娘の1人が、信長公の初期の小姓たちといがみ合い、彼らに斬り殺されて出奔する原因となったと言われる「老臣赤川景弘」の息子の坂井成利の正室に入っているといいます。更に信勝のもとに残り宿老となったと書かれている「佐久間次右衛門」は大学允盛重の嫡男の次右衛門重明であろうとされています。

そして佐久間信盛は信晴の嫡男で、十歳ほど下に弟の信辰がいます。


 信秀が那古野に入城する前後に、御器所の佐久間氏は織田家にお味方することになり、それに伴い山崎佐久間氏も織田家についたのだろうとされています。


 佐久間家嫡流は織田家当主信秀付きの家臣になりましたが、連枝の久六信盛重、弥太郎盛経、左衛門尉信晴たちは兄の重臣として仕えているのではなく、直接織田家に出仕することになったのではないかと思われます。

というのも、彼らの息子たちが嫡流の家臣としてではなく、信秀、信長公の家臣のような形で、個別に名前が残っているからです。


ここの捉え方としては、当時の主従関係の曖昧さがあり難しいですね。

これが佐久間一族を武力などで屈服させていれば、完全な主従関係が結ばれているでしょうが、『信長公記』の記述を見ても、主従関係というより協力関係を結んだ感じがします。

協力関係にある佐久間一族が、宿老やそれに準ずるものとして織田家の政務に参与している形になるのでしょうか。この那古野から古渡、末盛に致る信秀の家臣団は、勝幡城(あるいはそれ以前から)からの譜代の家臣にくわえて、那古野今川氏を倒した折入ってきた家臣、それから那古野攻略前後から『手に付けた』(『信長公記』)家臣が急に増えて、なかなか経営的に難しいものを孕んでいた感じを受けます。


 さて信秀の死後の法要では、佐久間大学たちが城将信勝に従って出席した姿が『信長公記』に記されています。

ここの部分は、「信勝の宿老(家老)」と解説されている方もいますが、『信長公記』には信長公の方には「家老」として平手政秀たちが従い、信勝に従った佐久間たちは「家臣」と書かれています。


彼らが信勝付けの家老ではないのではないか、と考えるポイントをあげます。

まずその法要の後、信勝は弾正忠家当主の信長公に家臣団を整えて貰ったという記述があります。更にこの時、末森城を譲ってもらったとも書かれています。

つまり、それまでは信勝は城主ではなく、自身の家臣団が居なかったということではないかと考えられます。


またこの前後に発行している文書の祐筆は、信長公、信勝共に同じだそうです。別の城に住む城主の兄弟の代筆をする祐筆が同じというのはおかしいことです。

これはどういうことかというと、連枝である信勝が花押だけを付し、信長公が織田弾正忠家の若殿として決済していたと読めます。

これは発給者が立場上出さなくてはならないけれど、そうしたことにまだ慣れていない場合、花押を付した白紙の料紙を渡して、親兄弟に一任するというやり方がありました。

こうしたことは家臣が代行して出来ることではありませんから、仕方のない処置でしょう。


振り返ってみれば、信秀が戦さ場から姿が見えなくなり、その後亡くなったされる、天文17年(1548年)から21年(1552)にかけて、天文3年(1534)生まれの信長公は数えで15から19歳。それより3歳前後下だったとされる信勝はおおよそ12から16歳前後ということになります。

まだまだ若年であり、家臣団を整えて貰っておらず、経営を任されるほどでも無くともおかしくありません。


つまり病気になった城主信秀の代行として、2番目の嫡男(正室の次男)の信勝は元服をし、一種のお飾(形の上では城将)として父親の城と家臣団を預かり、実務を信秀の宿老たちが行い、家督として信長公が決裁していたと読めます。

そして信勝の家臣団を編成する前に、信秀が亡くなったと解釈できるかと思います。


ちなみに当時、長兄の信広は安祥城の城将に入り、その後今川軍と戦い人質になった後、家康と引き換えで那古野に帰ってきたという流れです。

また次兄の信時は、信長公が生まれた頃、祖父信貞や側室腹の叔父信康と共に犬山へ行っておりました。信貞、信康が相次いで亡くなり、信秀の様子がおかしくなると、従兄弟にあたる信清は叛旗を翻し信時と争い、彼を追い出したようです。


 そうなるとこうした状況が後の信勝の悲劇へと繋がるのでしょうし、辣腕家である信秀が発病し亡くなったにも関わらず、またその後も林と信勝が謀反を起こし家中が揺れていたにも関わらず、「尾張三大名家」である佐久間氏、千秋家が織田家(信長公)を支え続けていたという事は、「うつけの信長公のせいで家中が荒れた」わけではないのではないかと考えさせられます。



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