信長公の小姓・佐脇良之 家族の考察

前回は、残された資料を追ってみました。


正直言いまして、この項は今までの中でも、かなり資料を漁った方ですが、なかなか厳しいものがあります。


ですから、もうね、わからぬ!


ここまでで分かっていることで、一旦手を打ち、考察を書かせていただきます。

前田利家をまとめる時に、もう一度見直してみたいと思います。


まずお兄ちゃんの源助の息子から始めます。


 年齢的に生駒氏娘(妹)と森甚之丞、佐脇良之は、5年前後は微差として同世代(1530〜1540)で、源助は信雄と同世代(1550〜1560)になると思います。


すると良之の孫の佐脇又左衛門は、1570年前後の生まれになるでしょう。


もしや佐脇久好は、又右衛門、あるいは又左衛門ではないのか。


大体「又左衛門」というのは、兄利家の通称で、例えば、信長公側室の原田(塙)直之の姉妹の名前を「直子」としているのと同じパターンだと考えられます。


つまり生駒氏の方では、又左衛門、又右衛門の元服後の通称をよく知らなかったので、家系図に記入するときに、良之に関連する名前を書いたとも考えられます。


前田家に残る「佐脇略譜」は、前田家の家史をまとめ、改竄を加えた時に久好(又左衛門)を、良之の息子にする為に源助自体の存在を消してしまいました。


幼い頃から信雄に付き従い亡くなった源助は、前田家とほとんど関わりのない人生を送り、当時の前田家の記録に残らない存在だったのかもしれません。


また「加藤家史」、「信長公記」では、佐脇良之たちは出奔して亡くなっていますが、「佐脇略譜」では出奔していないことになっています。


これらはすべて、リアルタイムでまとめられた記録ではありません。

一定の期間が経った後、当時の記憶や記録をまとめたものです。


この差については、別項で追及しておりますので、ここでは深く扱いませんが、加藤家、太田牛一と交流がなくなっていた前田家では、彼らが出奔したことになっているとは知らなかったと考えられますし、反対に良之の汚名を晴らす気持ちがあったのかもしれません。


そのため、良之の息子が三方ヶ原の翌年、生まれたことにするのに、躊躇がなかったのではないでしょうか。


また 小姓でも実家の家督を継いだ場合、元服後の名前が残ることが多いのですが、残念ながら源助は諱などは伝わっていません。

良之から源助に家督が渡った後、長くは生きていなかったせいかもしれません。


 信雄は永禄12年(1569)北畠具房の養嗣子になり、天正2年(1574)7月第三次長島侵攻に出陣しています。

勝利したとはいえ、庶兄信広、お市の方を預かっていた信次をはじめ多くの家臣が討死しています。


源助は「大阪」で亡くなっていますので、信雄が出陣したのは、石山合戦(大阪)の流れの第三次長島侵攻、その後は関ヶ原(大阪合戦)くらいになります。


もし長島侵攻で亡くなり、年齢的に息子(又左衛門、久好)が生まれたばかりだった場合、良之も元亀3年(1573)に亡くなっているため、佐脇家としては非常に厳しい局面を迎えます。


 それを受けた次女殿は出家は、天正元年(1573.8.25以降)ではなく2年(1574)のことだったのではないか。

そこの改ざんは、配流になった嫡男「篠原一由」の出生時期に関する操作ではないかと考えました。


家を出ると次女殿は、既に乳母として出仕していた大局を佐脇家の女主人に立て、幼君となる甥とその家臣団を引き受けます。


森氏娘を女主人に立てるのもアリかもしれませんが、武将クラスでは主人が亡くなると奥様を返すケースが多いですし、わざわざ次女殿が篠原家を出るために、出家する必要も無くなります。


また佐脇家を残すための処置であれば、篠原家も前田家も納得し、妙法寺を金沢に移転させたり、彼女の没後の供養も念入りにして上げようという気持ちになるのでは無いでしょうか。


大局が元々佐脇家の娘であると、さらにこの説は世間の通りがスムーズになります。


 第三次長島侵攻では、尾張守山城主信次も亡くなっており、大局はお市の方や茶々たちと共に、信長の居城である岐阜城へ移りました。

当然、源助の遺児を連れた次女殿も、岐阜城下に移ります。


天正8年(1580)信長公の孫三法師が生まれます。

天正9年(1581)、数えで9歳になった久好は、織田家2代目信忠にお目見えし、三法師の御伽小姓として出仕します。


あるいは信雄に拝謁し、信雄の嫡男の三法師(1582年生)でもいいかもしれませんね。


そして天正10年(1582)、本能寺の変を迎えます。


清須会議が行われ、お市の方は柴田勝家の本城北ノ庄へ向かいます。

天正11年(1583)4月北ノ庄城は落城。


乳母が養い君のそばを離れるというのは、乳母に問題があると考えられる場合ですので、ちょっと考えにくいのですが、大局が大阪城で亡くなっていないらしいので、ここから一つの仮定ができます。


大局は、茶々の乳母という形だったかもしれませんが、織田家に来た娘たちや侍女たちが、織田家の家風に馴染む為の教育的なものが職務だったのでは無いかとも思います。


というのも、お母さんと一緒に子供が実家、あるいは攻め手側に移るというのは、落城の場合がほとんどです。

傍流が生き延びることもありますが、とりあえずお父さんの家、忠誠を誓った主家の終わりを意味します。


その中で、母の実家、あるいは敵方に馴染んでいかねばならないので、元々そこ出身という家臣以外は、シュチュエーションによっては価値観の転換になります。


こうした時に、やはり幕臣の娘、正室という肩書きは、浅井家にとっても上位者になり、ことがスムーズにいく可能性があります。


こうして元々織田家と茶々たちの取次のような形だった大局は、清須会議の後、織田家を離れて越前に向かう茶々たちと分かれ、佐脇家に戻ったのではと思います。



かたや清須、岐阜、安土、坂本と三法師と共に移動した久好は、天正18年(1590)無事に元服、初陣、嫁取りを済ませます。

篠原家で育っていた次女殿の娘も、伊藤家に嫁入りします。


世代交代が無事に進み、大局が50過ぎた頃、利家から金沢へ移るように声をかけられたのではないでしょうか。


そのきっかけとしては、文禄2年(1594)加賀二代藩主利常が生まれます。

この時久好氏数えで22歳です。

もはや後見も取れ、立派な一家の主人です。


利常は庶子であり、長姉幸の嫁ぎ先前田利種の越中守山城で育てられます。

大局は幸とは叔母、姪の関係ですし、また利家の正室まつとも、娘がまつの実家に嫁入りしていますし、何より尾張時代からの顔見知りです。

そして大局は、調整能力も高そうです。


難しい立場の利常の為に、大局を呼び寄せ、乳母に任じて、表局と名乗らせたのかもしれません。


かたや母が金沢に行った後、次女殿は大垣城下に移ります。


慶長3年(1598)秀吉と同じ年に次女殿が亡くなり、翌年4年、前田利家も亡くなります。


そして慶長6年(1600)大阪合戦が始まると、秀信は西方につき、大敗を期します。

多くの家臣が亡くなり、彼らの自刃した血が染み込んだ床の板で作られた血天井は有名です。


久好は「大阪で」討死をしたか、織田秀信が家臣を養うのが厳しくなっていくのを見て、大局が前田家の許しを得て久好一家を呼び寄せて、佐脇家は加賀に移ったのでは無いかと思います。


元和3年(1617)利常の嫡男利次が生まれた時に、久好の息子か孫が御伽小姓に上がったのではないのかな?と……


そして利次について、富山に行ったのでは無いかと……


……なかなか、これは墓所や寺巡りをしないと難しいですね。


そして良之の子孫は無事に御維新を迎え、富山藩士の佐脇良忠が良之の三百回忌を明治8年に執り行っています。



それから「佐脇作左衛門」の話です。

Wikipediaに久好として書かれています。


『細川忠興軍功記』(寛文4年成立)に、天正10年(1582)清須会議の時、墨俣の城代を「佐脇作左衛門の親類」がしていると書かれています。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる大津城の戦いで、彼の姿は京極家の家臣として記録に残っています。

寛文14年(1674)の京極高次の分限帳に作左衛門が、御加増されて1810石(内700石 子の御加増)と書かれていました。


これは……能登に行った畠山家の重臣の佐脇氏では無いか。


この京極氏に従った佐脇氏は江戸の間に家を維持できずに、町人になったところまで追えました。


能登は前田家が治めただけに、京極氏についた佐脇家とは違う佐脇家が能登から前田家に従属し、どこかで錯綜している可能性があります。

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