信長公の小姓・佐脇藤八郎良之

 佐脇藤八郎良之は、前田又左衛門利家の実弟で、前田家の五男です。

父親は国衆の尾張荒子城主、前田蔵人利昌(利春)、母親は正室の竹野氏娘、長齢院になります。


長兄 蔵人利久

次兄、三右衛門利玄

三兄、五郎兵衛安勝

四兄、又左衛門(孫四郎)利家

それから、弟に右近秀継がいます。


兄の利家の生まれも諸説ありますが、おおよそ天文7年12月25日(1539年1月15日)生まれとされていますので、良之は天文9年(1540)以降の生まれになりますね。


信長公との年齢差を考えますと、御伽小姓ではなさそうですし、那古野城を譲られるにあたって家臣団を整えた段階でも無理そうです。


信長公が元服、初陣が終わった辺りに、利家とともに小小姓(見習い小姓)として出仕したかもというところが妥当な線でしょう。


 信長公に出仕した後、幕臣佐脇藤右衛門興世の養子になります。

『加賀藩史(第1編)』の中の「佐脇略譜」によりますと、元は利之と言いましたが、養子になった時に良之に改めたと言います。

また藤八郎の「藤」は、藤原氏系の嫡男が通称に冠することが多いので、こちらも一緒に改めたのでしょう。


 養父の佐脇藤右衛門の佐脇家は、元は三河の宝飯郡佐脇村を本貫とする一族で、室町時代は幕府奉公衆となり、佐脇三河守を名乗っていました。


実は私は当初、伊勢へ行く佐脇氏は周防守を拝命し、荒木氏姓佐脇だったので、能登畠山氏に付けられた畠山家重臣佐脇氏が三河守の佐脇さんだと思っておりました。

秀俊のところで色々推論していましたが、間違っておりまして、書き直しました。読んでくださった方はごめんなさい。


 佐脇氏は、延文5年(1360)伊勢国守護仁木義長の支配下に入り、荒木氏姓佐脇氏が三河守を名乗り、佐脇宗政が柿城を築いたとのことです。北伊勢43家のうちの一つに数えられています。

その後神戸家の配下に変わり、六角氏家臣小倉三河守に攻められ弘治3年(1557)落城したそうです。


この後、佐脇氏は犬山城に逃れます。


この頃の伊勢、犬山、信長公のルートは、今のところ武家商人である生駒氏しか思い浮かびませんが、また調べてみたいと思います。


織田弾正忠家に落ちてきた後は、当時の信長公の居城、清須で留守居役をしている姿が『信長公記』に記録されています。

留守居、養子というところから、歳をとられていたのか、怪我をされたのか、戦働きができない様子が伺われます。


しかし信長公とすれば、佐脇氏の元領地、北伊勢はゆくゆくは手に入れたい土地だったでしょうから、喜んで迎え入れたでしょう。


 さて良之はこの頃、40年生まれでも数えで18歳、元服から初陣、嫁取りの流れにあった時期です。


小姓ですから文武両道に秀でた頭の回転の速い、如才のない方であった筈ですし、譜代の近臣の中から幕臣の跡取に選ばれたというのを考えると、受け応えも品があり、蹴鞠、和歌などのセンスもあったことでしょう。


また前田利家は体格が良く、美少年だったと言いますので、良之も押し出しの良い美丈夫だった可能性が高いですね。


 良之は剣の達人であるとされています。

確かに小姓は殿の最後の盾ですから、馬廻達よりも圧倒的に剣の腕が立たなければなりません。その小姓の中でもとなると、相当の使い手だったのでしょう。


良之は、永禄初期(1558〜59)に制定された赤母衣衆に選ばれ、桶狭間を走り、永禄12年(1569)8月24日から10月初旬、伊勢大河内城攻めに従軍し、エリートなお仕事である「柵際廻番衆」24名に名を連ねます。


その後、加藤が坂井氏を斬り殺し出奔し、徳川方に落ち、元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦いで、散ったと言われています。



 佐脇良之の家族の消息はほぼ「佐脇略譜」に依るのですが、恐らく本能寺の変後の騒動、篠原家の嫡男一由の配流、前田家の家督相続の騒動のために、少々改竄が行われています。


長くなりますが、注意しながら見ていきましょう。


奥様は、「佐脇略譜」に依ると市姫の娘、於茶々の乳母となり、「大局」と呼ばれました。茶々が生まれたのが永禄12年(1569)ではないかとされています。


元亀3年12月22日(1573年1月25日)「寡婦になったので、浅井家の嫡女の乳母になった」とあります。

小谷城落城は天正元年9月1日(1573年9月26日)


 ということは、大局が向かったのは尾張守山城ということになります。

茶々数えで5歳、初4歳、江はこの年の8月に生まれたとされています。

産褥期に市姫大変です。

出産の30日間に及ぶ物忌は終わっていたのでしょうか?

気の毒です。

落ちてきた後出産説もありますので、そちらに期待したいところですね。


茶々が産まれたのは、浅井が一方的に同盟を破棄した、元亀元年(1570、4月23日より)の金ヶ崎の退き口の前なので、この時母方(織田)からも乳母が立っている筈です。

普通、乳母は余程のことがない限り、養い君の側に侍り続けますので、小谷攻めで亡くなるかしたのかもしれません。


大局の出自ははっきりしませんが、乳母に採用されるところをみると、幕臣佐脇氏娘かなと思われます。


乳母は超エリート職で、主家への忠義心が厚く、頭が良く教養もあり、情緒の安定した健康な女性が選ばれます。

またこのように中途採用されるのは、芯がしっかりして気が強く、しかしソツなくコミュ力の高い女性だったのでしょう。


また、大局だけではなく、初、江にも織田家家臣の乳母が出されたはずです。


しかし気がつくと大局の姿は、茶々の側から消えています。


「金沢に赴いた」旨が書かれていますので、天正11年(1583)4月の利家の金沢入府以降になります。


 その後金沢では、幕臣家の家刀自として、また大名家嫡女の乳母として立派に責務を果した実績を受け、利家の息子の加賀二代藩主前田利常より200石頂いて、利家の孫の乳母になり「表局」と名乗ります。

養い君は、徳川二代将軍秀忠の珠姫の次男、利次(元和3年(1617)4月生)です。


利次が富山藩主となると、表局も金沢を離れます。

そして江戸屋敷に在務していましたが、病死したと書かれています。


ところで、結婚したとされる1557年から三方ヶ原と小谷城落城まで、16年。

もし結婚した年齢が数えで13歳なら、大局を名乗ったのは29歳。


で、利次誕生の時、73歳……

そして富山入府が95歳……


ベースとした結婚年齢は最低年齢ですので、ここが上がれば、それだけ他の年齢も上がります。


いやぁ……お達者ですな。


 あ〜、次に彼の子供について見ていきます。


「佐脇略譜」では娘2人息子1人ですが、江南市の『江南市史 文化編』にはもう1人尾張に息子がいることが残されています。


先に申し上げると、娘たちが嫁入りした元亀元年(1570)頃に、「佐脇略譜」の息子はまだ産まれていない為、「江南市史」の息子がいないと佐脇家は絶えます。

ですので彼の存在は必須です。


 「佐脇略譜」の3人は、京極家家臣堀江久左衛門(九右衛門)に嫁ぐ長女、前田利家の正室まつの兄篠原長重の養子一孝に嫁いだ次女、そして末っ子の久好。


「江南市史」の息子は、信長公次男の信雄の小姓、佐脇源助です。


まずこの佐脇源助について見ていきます。


「生駒又右衛門佐脇源助佐脇氏ハ尾州犬山ノ住人、親佐脇藤八ハ愛知郡荒子住人前田蔵人利正ノ五男也 信雄公小姓母方姓以って生駒源助ト云フ佐脇源助親藤八ハ信長公ニ仕う 又左衛門利家公ノ弟也」


『尾張群書系図部集』では

佐脇(佐分)良之の項に子供が二人書かれており、一人は次女殿でもう一人が源助氏です。

「尾州犬山の住人、妻森甚之丞女で、子供に生駒又左衛門、大阪で討死す」と書かれています。


『愛知県史』生駒氏家系図では、織田家の室になった姉妹(「織田喜蔵秀俊」をご参照下さい)のもう一人の妹が、森甚之丞に嫁いでいます。


森甚之丞は誰でしょうか。


森氏は佐脇氏と同じ、元は北勢48家の一つ、中江城の城主でしたが、森勘解由正久の代、天文年間に信秀に攻められ、生駒屋敷にお預けの身の上になり、丹羽郡前野村に屋敷を構え、生駒正義の娘を娶ったとあります。

その子供が森甚之丞正成で、岩倉織田氏の信安に仕え、落城後(永禄2年(1559))信長公に召し抱えられたとあります。


『尾張誌』によると森勘解由という「丹羽郡前野村」の信雄の家臣がおり、のちに毛利伊勢守と名乗り、関ヶ原で討死とあり、勘解由は甚之丞の息子、あるいは弟とあります(甚之丞の息子は、祖父と同じ名乗りを使っている)


つまり、信長公側室の生駒氏娘の姉妹が、佐脇藤右衛門と知り合いである中江城主森勘解由の息子、甚之丞と結婚し、生まれた娘が佐脇良之の息子(源助)と結婚して、又右衛門あるいは又左衛門を生んだとなります。


信雄は家臣に「生駒」姓を与えることがありましたので、小姓の源助に「信雄の」母方の姓である生駒を下賜したと推定できます。


残念なことに、源助も息子の又右衛門、生駒又左衛門も消息はわかりません。


 さて長女さんの旦那さんは京極氏家臣堀江氏です。

堀江氏は越前の有力な国衆ですが、長女さんの結婚した堀江氏は傍流にあたり、本家とは分かれ、早い時期に京極家に従ったようです。


京極氏は元は浅井氏の主君で、下克上されて浅井家の小谷城京極丸に住んでいました。

京極家は永禄11年(1568)上洛した信長公の宿泊していた菩提院まで出向き、恭順の姿勢を明らかにし、永禄6年(1563)に生まれた嫡男高次が数えで8歳、元亀元年(1570)になると、証人あかしびととして岐阜城に送りました。


父親の高吉はその時、出家隠居していますから、堀江氏は高次とともに岐阜に入り、佐脇長女と堀江氏の縁組がなされたことになります。


佐脇家の当主は譜代の前田家の良之です。

主君だけではなく、家臣たちが織田家に根付くように、こうして織田家譜代の家と縁組をさせていたのだなと感心いたします。


佐脇良之の婚姻は弘治3年(1557)か4年、元年(永禄は1558年2月28日まで)ごろなので、長女がすぐに生まれていれば、堀江氏との婚姻は、高次が岐阜に入城して直ちに行われたのかもしれません。


拙作「武将の娘の忙しい結婚」のところで見た通り、同じ家中で結婚話が持ち上がると、二週間くらいで結婚をします。

堀江氏は元々は同じ家中ではありませんから、1ヶ月はあったかもしれませんが、それでもあっという間ですね。


前田家と堀江家とは、あまり関わりがなさそうなので、前田家の史料に彼女のことが伝わらないのは仕方ないでしょう。



 次は、次女殿の話になります。この方は円知院と名乗り、有名な没後供養の画像が金沢に伝わっていますね。


混乱期の前田家に関係しているので、非常に注意が必要です。


 利家の奥さんのおまつのお兄さんの篠原長重は、もしかすると女性にあまり興味がなかったのかもしれません。

 利家に出仕した長重は、のちに利家から命じられ、永禄4年(1561)生まれの勘六一孝を青木家から養子にしました。

その時、長重は武家の嫡男にも関わらず30越えて独身で、その後もやたら利家に献身的です。

そもそもおまつは海東の林氏娘で、利家の父が「林氏から貰い受け、篠原家に預けた」とあります……

 

利家は美形と言いますし、危険な香りを感じるのは私だけではないはず。

これに肉薄するのは、利家の項に置いておいておきましょう。


この一孝に嫁いだのが次女殿で、娘を一人産んでいます。


元亀3年12月22日(1573)父良之が亡くなると菩提を弔う為に、翌天正元年(1573)出家し、父の出生の地荒子に妙法寺を開基します。


一孝に息子は5人生まれていますが、このうち年齢的に長男の主膳一由だけが次女殿の腹かもしれないと言われています。


そうなると次女殿の娘は元亀3年までに生まれていますし、一孝の嫡男一由も天正元年には生まれていなければなりません。

とてもタイトなスケジュールです。


その後、娘が濃州大垣城主伊藤長門守盛景の息子の図書頭盛正に嫁します。


伊藤氏は美濃舟岡城主で、元々は土岐氏の家臣だった家柄です。

その後、斎藤家から織田家に移り、盛景は利家と同じ馬廻として活躍しました。

本能寺の変後は秀吉について、天正18年(1590)大垣城を任されました。


特別な事情がなければ、この婚姻は天正14年以降になり、前年関白についた秀吉が、佐脇の血を引く娘を大身の利家の養女として、伊藤氏に嫁がせたのでしょう。


また元々荒子にあった妙法寺を金沢に移転させたのは、利家の意思かもしれません。

金沢に移転された妙法寺は、越前府中、能登府中、金沢尾張町に移転した後、元和元年(1615)一孝亡くなると現在の場所に建てられたと言います(『妙法寺縁起』)。


しかし旦那さんが亡くなって出家して、家を守るというのはまぁ聞くのですが、父親が亡くなって出家するというのは、なかなか奇抜です。


「佐脇略譜」によると、次女殿は娘の嫁ぎ先大垣城下(1590)に住んだと言います。

慶長3年(1598)には亡くなった(円知院妙浄法尼画像)と言われています。

前田利家置文(1599)では、円知院は「早世した」と書かれ、一孝に青山吉次の娘との再婚を進めています。


これをどう組み立てるのかは、もはや個人の趣味かもしれませんね。



 嫡男の久好は「佐脇略譜」によりますと、数えで9歳の折に二代藩主利常に知行150石で、母が乳母を務める利次の御伽小姓として召し出されました。


普通小姓の初任給は50貫文程度なので、非常な破格な給料ですね!


そして着実に実績を重ね600石まで加増され、更に母親の表局が亡くなるとその知行200石も引き継ぎ、合計800石取りの立派な武将になりました。

利次が富山藩主になった時には、勿論共に富山城へ入り、城代として留守居を守りました。

その後、延寶4年(1677)3月19日に病死したとのことです。



さて、ここでも謎が出現しています。


まず前提です。


この久好氏ですが、良之が亡くなった時に大局は「身重の身だった」そうです。

三方ヶ原の戦いは元亀3年12月22日(1573年1月25日)、翌年は元亀4年7月21日に天正に元号が変わります(1573年8月25日)


ということで、久好は元亀、天正どっちの生まれかわかりませんが、およそ浅井家の三女お江与と同じく、西暦で1573年に生まれていることになります。


元々当時は武家の子には御差(授乳をする乳母)を含む乳母を立てますので、池田恒興と同じく、母が乳児である我が子を置いて、乳母に上がっても問題はありません。


さて、ここから本題です。


久好は、73年生まれで数えで9歳、満8歳の時に出仕した。

73+8は81年です。うちの計算機アプリでは。


前田利常は文禄2年、1594年生まれ、この時久好氏数えで22歳。

利次は元和3年、1617年生まれで、久好氏は45歳。


となると、生まれていない利常に拝謁をし、その次男の御伽小姓というのは、もはや転生小説の題材では。


そして久好が延寶4年(1677)3月19日没というのは100歳を超えていますが、良かったでしょうか。


大局さんと言い、長寿の家系なんですかね?



まあ、記録に残っているのはこんな感じです。


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