信長公初期の佐久間一族2(信盛の追放)
さて信秀が亡くなり、信勝に家臣団を整え、城と家臣を譲られました。
『信長公記』には、この時佐久間一門の次右衞門が、信勝の家老として付けられたと書かれています。
つまり残りの御器所の佐久間一族は、織田弾正忠家当主信長公の下へ移動したと考えられます。
そうすると稲生合戦の折に名塚に、実力者である佐久間大学が入ったというのは当たり前の話になりますし、当時の織田家に於いて、後に桶狭間でも難所の砦を任されるこの佐久間大学という武将が、責任のある宿老の扱いを受けていたのではないかと考えられます。
ということは信秀の死後一年で平手政秀が自刃し、息子がトンズラしたり、本人は死んでるんじゃないかなど、残りの宿老の存在が薄い分、織田家において単独で最大級の兵力を持つ佐久間一族の大学と、信秀により与力をつけられた当時、信長公の家臣として最大の兵力と権力を持つ林秀貞との間に、軋轢があったとしてもおかしくありません。
つまり織田家の家督を巡る争いは、林の権力闘争の意味合いがあったのではないか。
先に出した「林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝の追放の考察」の「先年信長公御迷惑の折節 野心を含み申すの故なり」(『信長公記』)の林の野心とは、家臣の筆頭として献身的に当主をお支えするべきところを、自らの権勢欲にくらんで行動していたものではないかと考えられます。
まぁ、そう書くと非常に悪そうですが、この辺りは信秀に信頼され、次代様を任された自負でしょうし、例え林の主観であったとしても、「新参」の佐久間大学が「我が物顔」で振る舞い、信長公が頼りにしている様子が見られれば、殺人未遂までいくかは別として、面白くないというのは、現代でもよくある心の動きだと思われます。
「我が物顔」と感じられる行為があったのではないかとする根拠は、早くに城を分けていた為、間近で信秀の仕事ぶりを見ることがなかなか出来なかった信長公は、信秀の宿老として支えていただろう佐久間大学に評定の席で、例えば三河対策について信秀はどう考えていたのかなどヒントになることを尋ねたり、取次に関しどういう手を取っていたのかなど情報を求めたりすることがあったと考えられるからです。
それに対して大学がコレコレと述べ、信長公がなるほどと感心する様子を見せることが何度もあったとしてもおかしくありません。
そうした時に昔から殿の側に侍り、最も重要人物であるという自負がある人物にとって、新入りの人物が自分より重く扱われているように感じ、不愉快に思ってしまうのではないでしょうか。
これは古くはイエス•キリストとユダの関係性にも見られる、人間関係の問題です。
そうであれば彼の「謀反」ですが、その内容が理解しやすいものになります。
また那古野城の家臣を使って毒殺、暗殺を試みていますが、信長公が察して警戒をしていることから、当初は本当に殺すのではなく、ただ脅かし、自分を頼りにすることが念頭にあったのもしれません。
また実際に信長公が清須に移った後、自分の城に丸腰できた絶好の機会に暗殺をしなかったこと、敗戦後出奔しなかったことを考えあわせると、信長公に対して実は愛情を抱き、それ故に評価を求める気持ちが根底にあったと察せられます。
さて林の問題はさておき、佐久間の話に戻りましょう。
佐久間久六が一時期犬山城主だったという話があると書きました。
しかし、犬山城は信長公の祖父信貞(天文7年亡)が斯波氏の命で、先先代の岩倉織田家の当主の実の弟で、先代の当主の実の父親になる木之下織田氏が築いた木之下砦を城に改築し「犬山城」と名前を変えて入ったもので、その後犬山織田氏が鎮座しており、天文8年(1539)に亡くなる盛重が城主になるのは不可能です。
もしかすれば、彼は独自で岩倉織田氏に出仕し、木之下砦を任されるだけの信任を得ていたのかもしれませんが、どうでしょうか。そうなると、息子の時代に岩倉織田氏に見切りをつけて御器所に戻ってきたということになるのでしょうか。
もしかすればそうではなく、佐久間一族と織田家との関係が深まったのは、信貞が犬山に向かう前(天文3から4年ごろ)であり、久六は信貞らと共に犬山に向かい、次代である信時(秀俊)の重職(宿老、後見、傅役)として付けられ、その後信時と共に那古野城に戻ってきたとも考えられます。
そうしたまだ若年であった頃から信時を支えていたことから、「犬山城主だった」という逸話として残っているのかもしれません。
彼の嫡男である久右衛門盛次が柴田勝家の姉妹を正室に迎えています。
彼らがいつ生まれたのかはわかりませんが、子供の生年を見ると天文23年(1554)以降に相次いで生まれており、この婚姻はもしかすれば、信秀の亡くなった後の天文22年前後に行われたものではないかと思われます。
史料には柴田勝家の生年は大永2年~享禄3年(1522~1530)とあり、佐久間盛次の正室となった姉妹は、姉としているものが多いので、もしかすれば二人共に再婚なのかもしれません。
しかしそうなると、盛次の四男(盛政、天文23年(1554)。安政、弘治元年(1555)。柴田勝政、弘治3年(1557)。柴田→佐々勝之、永禄11年(1568))すべてを産み上げるのはなかなか大変そうです。特に最後の勝之を産んだのは、若くても40前で、当時の出産方法を鑑みると産後の肥立ちが心配です。
できれば勝家の歳の離れた妹だといいなぁと思います。
想像をたくましくすれば、盛次は元の岩倉織田氏連枝の木之下織田氏重臣の娘や岩倉織田氏の重臣の娘、あるいはのちに信清側につく家臣の娘と犬山で婚姻関係を結び、謀反が行われた後正室を戻して、岩倉織田氏と犬山織田氏に手切れを入れて、那古野へ戻ってきて、柴田勝家の妹を継室にとったのかもしれません。継室を取りますと前正室の息子は格下げされ、通常嫡男になる弟の連枝として家臣になります。
となると佐久間一族は、織田の御曹司たちに家格に合わせて、分けられつけられたのかもしれませんね。
さて、那古野に戻った信時は、城主から一武将家に家格を落としますから家臣団も解体して、再編成が行われたと思われますが、佐久間一族は何名かは信時の下に残ったでしょう。
そしてまた守山を任されますが、そちらには信次の残した家臣団がいますから、さほどの増減はなかったかもしれません。
また守山で信時が横死し、信次が守山に入りますが、この時も信時の家臣のうち一部は信長公の元へ戻ったと考えられます。
更に稲生の戦いで信勝が滅びると、信勝の下にいた次右衛門重明らは、信長公や連枝のもとへと家臣団は吸収されます。
こうして佐久間一族は、多少の分散をしつつも、勝幡織田氏の嫡流信長公の下に結集しました。
こうして見ると佐久間一族は織田家に於いて血管のように情報網が張り巡らされ、氏長者の元に彼らの情報が流れ込むというシステムができたとも捉えられます。
戦国時代の主従関係の特徴は、絆の緩さですから、こういう時には情報の価値は更に高くなります。
もしかすれば、こうして集まってきた情報を、当主である信長公へ伝えていたかもしれませんね。そうなるとますます佐久間一族の影響力は強くなっていったことでしょう。
こうした流れの中で、支流に生まれた佐久間信盛は、佐久間一族のトップに躍り出、さらに並み居る優秀な武将たちの中から、フロイスをして「織田家の総司令官」と呼ばれるようになっていきます。
佐久間信盛が佐久間一族を掌握してからの史料は増えますし、彼らの活躍はご存じのことと思います。
次回は佐久間信盛に焦点をあてて見ていきます。
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