織田家の総司令官、佐久間信盛(信盛の追放)1


 今回は佐久間信盛の人生を、前半期を中心にみていきましょう。


✳︎佐久間半羽介信盛(右衛門尉)

大永7年(1527)〜天正9年(1581)


佐久間信盛の出身は、愛知郡山崎と伝わります。山崎村はこちらです。

『愛知県図書館ー愛知郡村邑全図、山崎村』(江戸期)

https://websv.aichi-pref-library.jp/ezu/ezudata/jpeg/030.html


 江戸期において大きく見積もって6〜700石ですから、戦国期では半分程度になるでしょうか。

しかしこの頃の織田家としては、当主はどうか分かりませんが、連枝の宿老には充分登れる身分を持っていたはずです。


彼は国衆の嫡男ですから、天文11年(1542)前後に結婚をしたと思われます。

信秀の那古野入城はおよそ天文7年頃(1538)。信盛が数えで12歳の頃になります。もし山崎佐久間家の家督である父親が御器所佐久間氏ではなく、織田家の直臣になっているのなら翌年あたりには、勝幡織田氏当主信秀に成人の挨拶をし、正式に出仕をしたことでしょう。

そうであれば信盛の婚姻は、信秀の采配ということになるでしょう。


信盛の正室は、譜代と言われている前田与十郎の娘であるそうです。

勝幡時代からの譜代である前田家嫡流の娘と、幕臣佐久間家の支流山崎佐久間家の嫡男の婚姻は、二つの家を結びつけ、織田家への従属を確かなものにするはずでした。

しかし譜代が裏切り、新しい家が織田家を支えることになるのですから、分からないものですね。


ところが、信盛の子供に目を向けみると、少々疑問が生まれます。


弘治2年(1556年)に、嫡男の信栄が生まれています。


また永禄11年(1568)8月、信盛の長女が、畠山氏の家臣河内国交野城主安見右近の継室として輿入れしています。3年後、安見右近は松永久秀に自刃に追い込まれ、天正8年(1580)数えで10歳になった息子の話が出てき、信盛の娘は織田家の支援を受けつつ、息子の後見として城の切り盛りをしていることから、少なくとも信盛の長女が初婚の場合、単純計算をするならば、天文22年頃から天文24年、弘治元年(1555年。10月23日改元)に生まれており、信栄の姉である可能性が高いかと考えられます。


信盛にこの2人の後、次に子供が産まれるのは1570年代なので、織田家自体が拡大し、その中で信盛の活躍して立場をあげて、側室を何人か蓄えられるだけの経済的余裕ができ、また子供が生まれたと考えられます。


 さて先程申し上げました疑問とは、嫡男の信栄が生まれた時、信盛は数えで30歳であることです。

婚姻して約15年。戦国時代、石持ちの武将の家の嫡男に15年間、男児が産まれなくて、家臣団や嫡流の佐久間家は何も言わなかったでしょうか。


 先程申し上げました通り、信盛は国衆の武家の嫡男ですから、通過儀礼に従い15から19歳あたりには婚姻しているはずです。

その正室は、ほんとうに前田氏娘なのでしょうか?

前田氏娘が最初の正室で、彼女が子供を産まなかったとしても、側室を入れるとか、養子を取るとか何か手を打つはずです。或いは女の子しか生まれなかったとしても、その子に婿養子を取る話になるはずです。


 信盛の岳父にあたる種利は永正6年(1509)に生まれ、元亀3年(1572)に亡くなっています。

その嫡男長定の生年は分かりませんが、長定の嫡男の前田長種は天文19年(1550)に生まれています。単純計算になりますが、種利20歳の折に長定が生まれていれば、1509+20で1529。それに20を足すと1549になり、おおよそ辻褄があっています。


もし前田氏娘が、信盛の最初の正室なら種利の娘でしょう。

しかし彼女がずっと連れそっているならば、側室を入れたということになるでしょうが、通常であればもっと早くに子供ができていてもおかしくありません。

例え側室の子供であろうが、その側室をなんらかの理由で実家に返したとしても、子供は家に付きますし、前田氏娘が正室のままであれば、跡を取るはずの子供がいるはずです。

あるとすれば養子を取ったけれども、実子が30歳前後に2人もできたので彼を廃嫡して……でしょうかね。これは丹羽長秀の三男の仙丸がそういう目に遭っています。


もし信栄を産んだのが、前田氏娘ならば長定の娘で、天文末期に輿入れしたのではないかと考えられます。

しかしそれならば、その前の正室と子供たちはどうしたのでしょうか。


しかしそもそも何故、突然1555年ころに、相次いで子供ができるのでしょうか。


 信栄が生まれた弘治2年(1556)。

この年は、信長公の異母兄である守山城主信時(秀俊)が亡くなった年です。

少なくとも信盛の『信長公記』に於ける初出は、弘治元年(1555)頃、守山城の開城に関わり、信時を推すシーンになり、それまでの戦の記述に名前は見当たりません。

また残っている文書も、桶狭間以降のものになります。

よく「信盛は信秀に出仕して、信長の幼少期から側に侍った」とされるものを見るのですが、それの元となる史料は、寡聞にして見たことがなく……


そう考えていくと、そもそも本当に信盛は、天文年間に那古野城にいたのかという疑問が生まれます。



 ここで信盛が『信長公記』に、最初に姿を表すシーンを見てみましょう。


「上総介殿へ佐久間右衛門、時に申し上げ、守山の城、安房殿へ参らせられ候。坂井喜左衛門、角田新五、惣別、守山の両長りょうおとななり。二人謀反にて、安房殿を引き入れ、守山殿になし申したり。今度の忠節に依って、下飯田村屋斎軒分と申す、知行百石、安房殿より佐久間右衛門に下し置かるゝなり」『信長公記』


 弘治元年(1555)公の弟である秀孝を、庄内川で川狩をしていた叔父の織田信次の家臣が誤射して、そのままその場からトンズラします。

その報に触れた信長公と信勝は、急ぎそれぞれ城を発します。

更に、怒った信勝は柴田勝家らに命じて、信次の本城守山城を攻めさせます。

信長公は従った家臣の馬が倒れるほど急ぎ駆けつけますが、守山近くの矢田川で馬を止めて、暫く家臣が追いつくのを待ち、その後清須へと馬を返します。

というのも、秀孝の亡くなった場所まで、信勝の本城である末森城と、信長公の本城清須城では前者は通常ではおおよそ30分、後者は約1時間と倍の時間がかかります。

報告が入る時間差もありますから、信長公が守山の入り口になる矢田川に達した時には、信勝が秀孝の遺体を回収した後であり、柴田勝家たちに命じて城下を焼き払い守山攻めが始まっていました。

そこへ僅かな小姓や馬廻だけを連れて乗り込む訳にはいきませんし、いくら家臣たちが駆けつけたとて、彼らもまた戦支度をしている訳ではありません。

まさに飛んで火に入る……になってしまうことは明白です。

そこで信長公は清須に戻ります。


主人がトンズラした守山城では、攻めくる信勝(津々木と柴田勝家。信勝は戦さ場にはでていない)、そしてそれを戦支度をして駆けつけ、後巻きに巻く信長軍に城門を閉ざして応戦します。

「時に」というのは、「その時」ですから、そういう状況下、おそらくはその守山攻めに関する評定の席になるでしょうか。信長公に信盛は上申します。

「守山城を安房様(信時、秀俊)にお与え下さい。」

それを信長公が了承します。


重臣たちが侍る軍議の席で、何故、佐久間信盛はこのような事を言い、またこの発言を信長公を始め諸侯は了承したのか。

それは、信盛が自分の手柄との引き換えにしたからでしょう。そして信勝軍が前線に立っている以上、それは調略、交渉をするという話になります。

つまり守山を無血開城してみせますということになる……となると、信盛がこの城に手筋があったということですね。もしかするとこの城にも佐久間氏が入っていたということになるでしょうか。しかし、それなら他の佐久間氏たちだって、名乗りをあげても良かったはずです。

ということは、信盛の経歴に関連した人物が入っており、彼は宿老たちに口がきける立場だったということになります。

これは守山城や信次の家臣を掘っていかねばならなくなるので、少し横に置いておきます。

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