織田軍の総司令官、佐久間信盛の追放の考察①

 佐久間信盛に宛てた信長公の折檻状は、そのまま読むと言い掛かりに等しい内容です。


「佐久間信盛折檻状」

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https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B%E6%8A%98%E6%AA%BB%E7%8A%B6


一体何故、文武ともに優れた武将である彼が、追放されなければならなかったのでしょうか。


 支流であり、別に氏長者のいる佐久間一族の頭領となるのは、信盛が非常に頭の切れ、リーダーシップのある武将だったからでしょうし、勿論運もとても良かったでしょうし、それ以上に努力も大変されたと思います。


 また転仕が家臣の権利であった当時、ここまで地位が上がるということは、部下にとっても良い上司であり、包容力とかおおらかさとかを兼ね備えた性格だったのではないかと思います。

ただおおらかというのにもタイプがあり、エピソードを読む限り、もしかするとマイナスに出た時には、空気読めない方へ捉えられるタイプではなかったのかと感じます。

なんかこう甘いというのか、緩いタイプですね。

こうした部分は短期的にはよいのですが、長期的な人脈作りの下手さにも通じています。


戦国時代のコミュ力、あるいは人間力は支配力の源泉であり、身を守るものです。


例えば武将たちは、主君の連枝格になれるように、主君の血族の姫、あるいは養女を頂く活動をし、意思の疎通を潤滑に行うために子供を侍女や小姓に差し出し、或いは殿のお気に入りの近習と婚姻関係を結ぶことを画策します。


しかし佐久間信盛は「織田家の総司令官」と見られる立場にありながら、信長公と格別縁を付ける活動をしていないように見えます。


 ここの部分をよく、元々信長公よりも家格が高いから、あるいは初期の織田家では単独で、信長公をも凌駕する動員力を誇っていたからと言われます。

しかし最初に書きましたように、信盛は御器所佐久間氏ではなく、山崎の佐久間と呼ばれる支流の出身であり、彼が佐久間一族を支配下に置いた頃には、信長公が尾張一国を支配下におくくらいの頃で、兵力を凌駕していたとはいえません。

また織田弾正家の家格については、通説と違う可能性もあり、家柄云々も定かではありません。


どちらにせよ、支流から佐久間一族の頭領へと這い上がるのですから、多少の厚かましさ、強引さもあるでしょうが、そんな才覚のある彼が、信長公の身近にいて、下に対してではなく、信長公に対して、自分の方が偉いんだぞと傲慢になるものでしょうか。


 天正元年(1572)8月、一乗谷城の戦いの直前、信長公の言いつけを守らず、戦線を離脱する朝倉勢を取り逃した折、信長公より叱責された他の武将たちが恥いるなか、泣きながら言い返したというのは有名です。

ここの辺りも傲慢というよりも「空気読めない」という感じがします。


その下地には信長公に対して、格段の親しみがあったのではないかと思われます。

また永禄6年(1563)小牧山城築城の折には鬼門を押さえ、天正3年(1575)安土築城の折には、茶道具だけ持った信長公が佐久間邸へ居候を決め込む話など、信長公も那古野時代から忠誠を誓っていた、どこかおおらかな信盛に、格別の親しみと居心地の良さを感じていたのではないかと思われます。


おそらく尾張衆しかいない頃は、主従のあいだで許されていた軽口や親しげな態度が、外様が増えるに連れ、許されなくなっていったでしょう。

特に外様が増え、取次問題で軋みが出始めていた時期の織田家で、武田信玄に続き、浅井長政にまで、手切れの儀礼を無視され、面目を潰された信長公に公的な場所でのコレはちょっとなかったのではないでしょうか。


また天正3年(1575)12月、信盛は与力として付けられていた水野信元が、武田側と通じていたと信長公に讒言し、その自刃によって闕所となった、元水野領を拝領しています。


普通こういう場合そのまま家臣たちも吸収しますが、佐久間信盛はそうしていないと書かれています。

元は別家でしかも昔から親交のあった上に、自分が主人を自刃させたようなものである水野家の家臣を、自分の家臣として組み入れるのは、なかなか難しいものがあると思います。


しかしそれを避けると、大量の無職の人々が発生し敵対勢力になるかもしれませんし、他の家に流れて重要な情報を流してしまうかもしれません。

戦乱の世に於いては佐久間信盛ほどの立場の人物が、それを呑み込むほどの器量を求められるのは致し方ないのではないかと思います。


この辺りもちょっとマイペースというのか、コミュ障っぽい感じがします。


悪意がないのでスルー出来ていた、或いは我慢出来る範囲で、マイナスよりプラスが多かったのですが、組織をステップアップさせるのに空気の読めない彼に秩序の乱れを感じるようになってきたのかなという気もします。

つまり信盛の存在自体が組織のボトルネックの一つになっており、態度を改めるようそれとなく近習たちから伝えたり、信長公からも伝えてはいたけれども(浅井戦の口答えの折など)、根本的に理解が及ばなかった。

悪意があった方が改められるので、悪意がないのが最悪という考え方もあります。


お茶に耽溺したという話も、ずっと努力をしてここまで昇って、何となく気が緩んでしまったという脇の甘さを感じますし、信長公に対する甘えを感じます。


拡大し成長する組織に於いて、自分のやり方、在り方を変えられない社員というのは、どんなに有能であれ、いや、有能であればあるほど、そこがうまくいかない原因になります。

そして最終的に人情に負けてそれを切ることができないトップは、トップである資格を失います。

もしかすれば、その時期が早すぎたのかもしれませんが、信長公としては待ったなしの状況であったのでしょう。



では佐久間信盛たちの評価が、プラスよりもマイナスの方が大きいぞ?と逆転したポイントは、どこだったのでしょうか。


 天正8年に追放された彼らが一堂に会し、信長公が面目をかけ、更には雌伏時代の寵臣が亡くなった重要な戦があります。


これは佐久間信盛への折檻状でも挙げられている「遠江のこと」、つまりは、元亀3年12月22日(1573)、三方ヶ原の戦いです。


「一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事」


「(信長公の)人生のうちで、勝ちを失わなければならなかったものは、元亀3年(1573)遠江(三方ヶ原)に軍勢を出した時のことだ。勝敗はその時、その時のものではあることは、紛れも無い事である。

確かにそうであると言うが、(自らのものではなく武田、徳川の戦で)家康への手合で援軍として送ったにも関わらず、遅れを取った上に、まだ自らの兄弟や宿老、連枝が討死しておれば、(佐久間信盛は)運良く生き残れたかと、世間も不審がることもなかっただろうに、(自らの兵は)一人も討死させず、あまつさえ、(平手政秀の嫡男の)平手汎秀を見殺しにして、なお平然としていることをもってしても、思慮のないことは紛れもないことである。」(麒麟屋訳)


 敗戦は数あれど、本来勝てるものが勝てなかった戦い、勝ちを失った唯一の戦と、三方ヶ原の戦いを信長公は位置付けています。

確かにこの頃の形容は、オーバーな面はありますが、この戦のことを悔いの残る、或いは心の痛みとなっているということがわかります。


『甲陽軍鑑』によりますと、「平手汎秀、佐久間信盛、大垣(氏家)卜全、林秀貞、安藤守就、弟与兵衛、遠藤久左衛門、毛利長秀、滝川一益、それから家康からの求めを受けて叔父水野信元」が参陣しています。


磯田道史氏の研究で、この時信長公は十分な兵力を援軍として送っており、総勢として武田軍を凌駕していたとされています。

そもそも武田信玄がこの戦を起こす折に、信長公は世間に向けて大いに面目を潰されていますので、天道的に見ても絶対に負けるわけにはいかない戦であり、負けるはずのない戦でした。

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