治天の君と相撲
【100回記念企画で、コダーマ氏よりリクエスト頂きました(感謝)】
相撲の歴史は非常に古く、埴輪や須恵器にも力士verがあるそうです。
相撲の起源は、垂仁7年(紀元前7年)7月7日という、恐ろしくluckysevenな吉日に、出雲の
して、内容は……
『日本書紀』「垂仁七年秋七月己巳朔乙亥」の条。
有り体に言うと、「宿禰が、蹴速の肋骨と腰の骨を、踏み砕いて殺した」
……こ、これは!これが起源で良かったですか?怖いよ……
相撲協会に、問い合わせたくなりますね……
それから時は下り、天平6年(734)7月、相撲の逸話に感動した聖武帝は、勅命を出し、天覧相撲会を執り行います。この時、street fightな相撲に、ルールを作り、相撲の原型ができました。
また、宿禰さんの日付を採用。
しかし、直ぐに七夕節会から分離、独自の会として執り行われますが、武士の台頭と同じ頃、残念なことに、廃れていきます。
武士の時代の相撲に移る前に、現在にも影響している、その
儀式次第は、時と共に変更されていますので、ザックリで。
相撲会は二日に渡って執り行われます。当日の前に「内取」と呼ばれる、稽古というのか、選抜戦のようなものが行われ、左右の衛府で、20人ずつが選ばれます。
一日目は「召合」と呼ばれます。
まず宮中にて、
舞台には幕が張られ、門に作られた桟敷席には、帝や親王、公卿たちが着座されています。
江戸期に入るまで、土俵はありません。
土俵は、鎌倉時代に、桟敷席と分ける為に描かれた円が起源だそうです。
この頃は、地面に体が着いた方が負けというルールで、全体的に、運動会や体育祭の雰囲気が、近いかもしれませんね。
まず、左方と右方の相撲司が、それぞれ、
相撲人は、各国より貢進され、衛府に所属します。強い者はそのまま衛士になりました。
彼らは「国相撲人」と呼ばれ、他の衛士と違い、国費で都と在地を自由に往復したり、道中、接待を受けたり、破格の待遇だったそうです。
また、芸人たちも、衛府に所属しています。
相撲人は、裸体に
観覧している帝、公卿たちには
まず「占手」という、4尺以下の小童の相撲が行われます。
大人でも、身長121.2cm以下なら参加出来、当日、再度、身体測定があり、4尺を越えていれば不戦敗になりました。
勝方は乱聲が奏されます。
それから本番です。
最後の取組を「最手」と呼び、勝方による、また引き分けの場合は、両者による乱聲、奏舞が行われます。
中期以降は、最手の試合が行われず、日没までで、勝者の人数が多い方が、これを行いました。
左右の奏舞は、左方は「
これらも、youtubeで観ることが出来ます。
それから退場し、召合が終わります。
乱聲(らぜう、らんぜう)は、「雅楽の笛の曲で、
舞楽を見ると、始まって少しすると、一旦演奏を止められます。ここの部分ですね。
出発、到着、登場、開始あるいは勝負が決した時などに演奏されるそうで、落語のお囃子や映画のブザー、試合の入場曲の原形かもしれません。
この様式は、射礼、騎礼でも同じです。
二日目は「抜出」です。
気に入った相撲人同士を取り組ませたり、白丁(従者)や陣直(衛士)たちの追相撲が行われ、全ての取組が終わると、振桙三節の後、左右の楽人たちによる奏舞や雑芸があり、より娯楽色が強くなっています。
雑芸はのちに散楽と呼ばれる、奇術や曲芸、軽業、物真似芝居などの芸能のことで、室町期に入ると、物真似芝居が、狂言、能になり、この二つを猿楽と呼ぶようになります。
これも左右で行うものが決まっていたようです。
射礼も、1日目は真面目な取り組みを行い、2日目になると
帝や親王たちは、2日目だけ出御されるようになり、格式が落ちていくとともに、廃れていきました。
こうした傾向が相撲にもあり、格式の低下と共に、次第に廃れていったのでしょう。
さて、宮中行事の相撲に、一般的に言われている農耕儀礼的、あるいは神事との関わりを見いだすのは、なかなか困難です。
期日から見ても、夫役の百姓たちの能力を見極めるため、力比べをさせたものが、宮中行事になる過程で、様々な逸話が盛り込まれたものと考えた方が自然です。
では、いつから、神事の相撲が取られるようになったのでしょうか。
節会の最盛期、京周辺の寺社でも、節会が行われるようになりました。
在京している相撲人が、楽人らと共に、寺社に出向き、祭礼に参加している姿が、『小右記』(1027)などに記録されています。
相撲人の派遣は、祭主が衛府に申し込んでいましたが、相撲節が開催されなくなると、衛府に言わず、自分たちで調達するように、白河上皇が通達した記録が残っています。
相撲節は、次第に地方にも広がっていきます。
地方で、国相撲人を呼んで開催した相撲は、「国衙法会」と呼ばれ、会場は「一宮」と呼ばれる権威のある社になりました。
寺社で定期的に行われる様になると、神事との関わり合いができ、農業儀礼としての側面を持つようになり、全国巡業する技能集団の相撲人と楽人等の集団が出来てきます。
更に、相撲の裾野は広がり、小さな神社でも開催されるようになり、国相撲人の参加しない、野相撲も盛んに取られるようになって行きます。
また相撲は、公卿から武士の手へ移っていきます。
相撲人が所属していた衛府では、鍛練のために相撲を取り、武芸としての相撲が浸透していきます。
平安後期、北面武士たちも相撲に親しんでいました。
その為「曽我物語」によると、源頼朝の配流時代、家臣たちによる相撲会を開き、主君の気持ちを引き立てたそうです。
更に文治元年(1189)、頼朝は、鶴岡八幡宮の祭礼において、家臣参加の
この武家相撲は、文永3年(1266)以降、廃れていきます。
その反面、寺社による相撲は、益々盛んになって行きます。
国相撲人を招いていた頃、開催国では相撲役賦課として、近隣の相撲人を徴発していました。この手配をしていた役人は、鎌倉末期に至って、地頭の一種「相撲頭」になります。
室町期になると、芸能としての相撲が確立し、見物料を取って、収益にするようになり、相撲頭は職業になって行きます。
また室町期には、守護職たちが自邸に相撲人たちを呼び、相撲会を開くようになりました。
さて、時は戦国、信長公の話になります。
信長公は、相撲史に於いて、中興の祖と呼ばれることもある、大の相撲好きでした。
信長公の頃、尾張では、相撲は然程盛んでは無かったと言われています。
尾張一宮である、真清田神社の社史が手元になく、確認できていません。
信長公と相撲の関わりのはじめは、『信長公記』に依ると、永禄13年(1570)2月の事になります。信長公は上洛する為に、居城、岐阜城を出立しました。
25日に関ヶ原の手前、大垣の赤坂に宿泊し、翌日、常楽寺に入りました。
後に安土城の舟入(湊)になる常楽寺は、当時、信長公の上洛時の常宿でした。元々、六角氏の観音寺城の湊で、琵琶湖舟運の要衝であり、木村氏の居城でした。木村さんは、宮内卿局の旦那さんの木村さんですね。
どういう経緯かは分かりませんが、近隣の腕自慢の方々に呼びかけた処、数限りなく集まったと『信長公記』が語っています。
3月3日、境内に幕を張り巡らせ、上覧相撲会を開催しました。
前日までに内取が行われ、選別された相撲人が、トーナメント式で戦ったものと言われています。
これは、のちの相撲会も同じで、選抜された相撲人が、信長公の見守る、舞台に上がって相撲を取ったものと考えられています。
この頃には専門職の行司が出現しており、この時も相撲節会の流派の
内取には、のちに名前が出てくる木瀬太郎大夫ら、弟子筋が見守ったでしょう。
この木瀬蔵春庵は、後の安土相撲会でも行司を務め、時期は分かりませんが、信長公の軍配を下賜されました。この軍配、「黒漆塗日輪梵字蒔絵軍配扇」は、木村庄之助の手に渡り、ネットで閲覧可能です。
安土相撲でも、良い成績を残した日野長光が、漆塗りの軍配を拝領しています。
信長公の目に叶った取り組みをした相撲人たちは、着物や刀などを拝領しています。
当時の相撲会は、平安期と然程変っていなかったようで、散楽や雑芸など、大いに盛り上がったようです。
暗闇の中、天を焦がすばかりに篝火を焚き、舞い踊る舞人たちに混じって、公も踊りを楽しんだのではないでしょうか。
というのも、信長公は、散楽などに幼い頃から親しまれ、御自ら「御狂」と呼ばれる、徹夜で踊り明かす催しを度々行いました。
大名職は、非常にストレスが高いので、こういった趣味を持つことは、重要な自己管理ポイントです。
また信長公は、よくイベントで髪に花を挿されていますが、これも舞人が左は桔梗、右は女郎花など挿して、左右を分けていたことの影響でしょう。
常楽寺相撲会では、鯰江又一郎、青地与右衛門が勝ち残り、これを家臣にし、「相撲奉行」に取り立てました。
醜名、苗字を持っている相撲人は、寺社、大名家のお抱えです。
この動きは、瞬く間に日本中に広がり、寺社から相撲の独占権を取り上げることになっていきます。
大名は気に入った力士を召し上げ、自らの邸宅で相撲を取らせたり、寺社で行われる相撲会へ送り込んで競い、家名を高める手助けにしました。
常楽寺相撲で優勝したのは、宮居眼左衛門とあります。
宮居には、重藤の弓を授け、これが弓取り式の始まりになったと言います。
現在、行司さんから渡された弓を、力士の方がヌンチャクのようにクルクル回したり、スコップみたいに、ヨイショヨイショと掘るような仕草をするアレです。
その動きは、振鉾にも似ています。
時代が下ると、振鉾の代わりに、弓取り式が行われるようになったのでしょう。
「弓取り」とは、「海道一の弓取り」「坂東一の弓取り」と言われるように、古くは武者、戦国期には領主級の武家のことを指します。
江戸期に締めの儀式となっていくうちに、天下人から直々に褒美を下され、家臣に取り立てられ、武士になっていった、当時の力士たちの栄達を
この後、信長公は岐阜、安土の居城に舞台を作り、相撲会を頻繁に行いました。
信長公が、相撲史に影響を及ばしていることが、もう一点あります。
それは天正9年(1581)正月、左義長を行なった信長公は、興が乗って、爆竹の太くて長い竹の左右を、力自慢の相撲人に持たせて、引っ張り合いの相撲をさせました。結局勝負がつかず、引き分けに終わったのですが、二人の死闘にご機嫌の信長公は、東方から舞台に上がった伝蔵に「東」、西方から上がった、常楽寺のお抱え相撲人の右馬次郎には「西」という姓を与えました。
ここから、相撲は左右ではなく、「東西」の二方で戦うことになりました。
西の右馬次郎は常楽寺ですが、東の伝蔵は、豊浦冠者の家です。この豊浦というのは、安土城の麓の西湖のそばで、そこには新宮大社が建っています。
伝蔵は、豊浦の支配権を持った、新宮大社に関係してるのかもしれませんね。
場所的にも、新宮大社と常楽寺は、東と西の位置にあります。
その新宮大社には、茅葺の大きな拝殿があります。
下は土間で、中に入ると、近年のものですが、織田木瓜の家紋に伝蔵と右馬次郎の竹相撲の絵が掛かっています。
何に使ったのでしょう的な書かれ方をしていますが、そりゃあ、相撲だろうよという感じですね。
まさに、ここで引っ張り合いの相撲を取ったのかもしれません。
茶の湯、競べ馬、相撲、猿楽など、古来からのイベントが好きだった、信長公を評してか、今でも両国国技館には、公の相撲絵図が掲げられています。
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