馬に乗るで御座る

 「今川大双紙いまがわおおぞうし(大草子)」という武家の礼儀作法を記した書があります。(国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能)

ここに書かれている馬の乗り方が非常に不可解で、首をひねっていたのですが、和種馬に武家装束で乗られる方をtwitterでフォローしていまして、その方のツイートでなるほど!と膝をうつことがありました。

今回は、こちらを皆さまと共有したいと思います。


時代劇など見ておりますと、ほらよ!と身軽に馬上の人になりますが、どうも昔はそんな簡単なものでは無かったようです。

「今川大双紙」によりますと、口取が馬を押さえ、殿は段差を利用してよじ登るようにして、馬上の人となります。

なんでまた、そんな大変なことに?と言いますと、日本古来のあぶみは、西洋の固定されたそれとは違うからなのだそうです。


和鎧わあぶみというのは、以前申し上げましたように、「し」の字型というのか、カバーのないスリッパみたいな形をしていまして、上の先っちょに付いている金具に「力革」とか言う鞍から下がったベルトを通して止めるんですね。

どう説明したらいいのやらなので、一度「和式馬具」でググって確かめてもらえると非常に助かります。


このあぶみ、平たい処に足を置くだけですし、先っちょを止めてあるだけなので、グラグラして回転するんですね。可動域が大きいために、馬の上で体を自由に動かせ、後ろを振り返ったり、立ち上がって弓を射たり、柄の長い刀(薙刀ではないです)や槍で戦うことを容易にさせています。

しかし乗るときには、50キロ、戦国期ですと25キロほどの鎧兜を着用し刀を差した身で、片足を振り上げて、「よっこらしょ」と地面から乗ろうとしても、かけた片足がクルンクルンして、体が持ち上がらず、困難を極めることになります。


 ではどうするかと言いますと、城から出陣する折には、中門から乗ることになります。

中門ってなんやねんですが、殿が住まわれている主郭の玄関部分のことです。


 主郭の一番前、表の部分には、前に広場を伴った主殿が建っています。この主殿は元々は「寝殿造」で建てられ、室町中期あたりから武家では簡略化された「主殿造」で建てられるようになりました。


最初の「寝殿造」の主殿の広縁の東西の端に、長く突き出した部分があります。屋根がついていて外側には連子窓のついた土壁あるいは木造の壁があり、内側に向けては壁がない作りです。これが中門廊で、途中に中門と呼ばれる両開きの門が二つ並んでついています。

古い伝統的な主郭では、おそらくきちんとした中門廊が残っていたと思いますが、弾正忠家などの新しい城では、簡易な「主殿造」になりますので、広縁の端っこに短い中門廊と中門があるのみだったのではないかと思います。

どちらにしても、外側から見るときちんとした建物に見えるんですが、内側から見るとまるで撮影のセットのように、片方の壁が無いように見えるほど広い広縁がついた面白い作りです。

「主殿造」は江戸期になると見られなくなる建築様式で、よく「書院造」と混同されています。

私が見たことがあるのは近江三井寺の光浄院客殿で、これは1601年に建立されたものです。そのほかには近年の再建になりますが、篠山城大書院があります。


ネットで見られるところは無いか探したのですが……もしかしたら、用語自体が変化しているのかもしれません。なかなか見つかりませんで……とりあえず、これは見て分かりやすいかな?と思えたのは、三井寺のホームページと上杉家の洛中洛外図です。


戦国期に武家が建てていた「主殿造」の「主殿」とここで呼んでいる建築様式は、三井寺光浄院客殿では書院造として紹介されていますが、お気になさらず。

それと上杉verの洛中洛外図にも、これが見てとれます。

お手間ですが、一度ググってみてください。(最近、図を差し込めるところへ移動した方がいいかなぁと考えています。良い所ございます?)


 まず、主郭の入り口には表門がございます。そこを潜ると正面に広場を伴った車寄せの階段のある主殿が見えます。主殿の向かって左端の部分が中門になります。三井寺の方を写真で見ていると、この表門と中門を勘違いしてしまう可能性があるので、少し気をつけていただけるといいかなと思います。

中門はお屋敷のほんの一部です。

中門の外までは家臣ならば自由に入れますが、この門の中には、勝手に入ることはできませんでした。


さて、えらい中門で手間取ってしまいました。

主殿の端っこの中門のところで、殿は馬上の人になります。

あ、馬はこの主殿の中門より奥の、会所の近くにある一厩いちのうまやから引き出します。

奥様や嫡男やそのお付きの家臣たちは、主殿や会所へ続く廊下で、殿を見送っています。



「出陣の時 其の外に出る時、馬に乗るべき次第 東へ馬を引き向けて乗るべし」


今川大双紙をまとめた今川家は、何しろ足利将軍家の血縁ですから、さぞや壮大な中門廊がついていたのでしょう。古来よりの荘厳な寝殿造ですと、長々しい中門廊が屋敷の東西に付いており、この東中門廊で乗ると自然に東向きで乗馬できます。

奥の方にある西中廊門から出るときには、騎乗の後、左回りで門を潜ることになります。


「主殿造」の中門の場合には南に向くことになりますので、「主殿造」で主殿が建てられるようになりますと「東か南に向けて乗るべし」と書かれるようになります。

ところで、なぜ建物の右側だけに中門があるかといえば、西洋馬術では馬の左から乗りますが、和種馬術では刀を差してる関係で右側から馬に乗るからです。

お帰りの際は反対方向に馬が向きますから、非常に合理的な造りです。


 大名や武将たち、騎乗の皆さまは我が屋敷の中門で、引き出された馬を口取に押さえて貰い、右手で弓杖をつき、左手でくらの、後ろのふちである後矯こうきょうを持って、段差を利用して騎乗されます。


くら自体も、割と動くそうなので、日々体幹を鍛えていた大名、武将以外は大変だったでしょうね。


手綱は乗った後、「左右の手にて」「輪にして左へ三度廻すべし 但し出陣の折は口を引かず廻し乗るべし」


ということで、口取は馬を引かず側に寄り添って、殿はご出陣なされます。

出陣ではない、普段の外出では、口取に馬を引いてもらい、共に表門へ向かわれます。

もちろん、騎乗の小姓たちも一緒です。


 さて問題は外出先で降りられた後、再び乗るときでございます。


寺や余所のお城、屋敷で降りられれば、自然とそこの中門を利用できます。また戦の折ですと、当然のことながら鎧櫃よろいびつを背負った小者が付き添っていますから、その鎧櫃を足がかりにして騎乗することができます。

鎧櫃、あるいは具足櫃と呼ばれる箱はなかなか重宝なもので、首級改や出陣式、軍議の折に虎の皮やらを敷いて座ることもありました。


では、鎧櫃を背負った小者がいない時はどうするのか。口取は馬を押さえていないといけませんから、両方一緒にすることはなかなか難しそうです。


石、岩、切株、斜面、そういった足場があれば、それを利用したとことは想像に難くありません。ではそうしたものがなかった場合どうしたのでしょうか?


馬から降りて、その場で乗るシーンというのが、なかなか発見できなかったので、ちょっと微妙な戦での例になります。

もし適切なシーンをご存知の方がおられましたら、教えてください。


「平治物語」に、源頼朝のお父さんの義朝が、逃げ帰ってくる所の描写に、このような箇所があります。


 義朝が追われて小勢になりつつ、比叡山坂本を過ぎ、大原から八瀬に抜けていこうとしたところで、西塔法師たち150人ほどに行く手を遮られます。そこへ義朝に追いついた家臣の長井斎藤別当実盛が馬をおりて、「我らは下賤の者である」と命乞いをし、「武具をくれてやる代わりに道を通せ」と持ちかけます。法師たちは承知し、別当は小脇に抱えていた自らのかぶとを群衆の中へ投げ込みます。皆がワッとそれに飛びつき、大騒ぎになったところで

「ある法師の打ち払ひて立ちたりけるを、斎藤別当、つと馳せ寄りて、甲ひん奪い、馬に打ち乗りて、太刀を抜き」

我こそは日本一の剛の者と名乗りを上げて、「我と思う者あれば、勝負せん!」と言い放ち馬を走らせ、義朝たちを通したというくだりです。


この「馬に打ち乗りて」ですが、非常に勢いがあり、鎧櫃を足場にした感じがありませんね。「我らは下々のものでございますぅ」とやってる横で、小者くんが背負っていた鎧櫃を下ろして、馬のとなりに置いてるのを見たら、気の利く法師が「あっれれぇ?おっかしいぞぉ?」とメガネをかけた小学生男子なみに気がつきそうな気がします。

それとも甲争奪戦で、頭がいっぱいなんでしょうか……


じゃあ、どんな感じだとスムーズに場面が進むのかな?と考えてみます。


手にした甲を頭に乗せるか、小者に渡し、右手で手綱か馬のたてがみ、左手でくらの後矯、右足はあぶみ、小者の膝か手に左足を乗せて、息を合わせて、飛び乗ったという感じだとどうでしょう。

体育祭の集団演技とか、男子体操の団体の床運動で、やってる奴ですね。

これは、普段からの練習が必要かもしれません。


皆様はいかが思われますか?


また資料が発見し次第、追記したいと思います。(そして忘れる)


 ところで、日本の騎馬戦では、両手を離して乗るのが基本です。

鞍には腰を下ろさず、鐙に立って前屈姿勢を取ると以前申し上げました。信長公ほど朝晩に馬責めをしている武将は、ゆったりとした走法であれば、そうした姿勢でも居眠りが出来ますが、慣れない騎馬兵や武将は、すぐに転げ落ちたそうです。


そうしたすぐに転げ落ちてしまう人のことを、当時「桃尻」と言ったそうです。小姓の男色系の褒め言葉?と思った方も多いかもしれませんが、時代が変われば、意味も変わりますね。


それでは、また。











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