津島仮装盆踊② 津島と堀田道空(津島)

 今回は津島風流踊の訪問先の津島と、屋敷を貸した堀田道空を見ていきます。

何故、この時津島へ向かったのか、堀田道空の屋敷が何故会場に選ばれたのか、この辺りも簡単になりますが触れていきます。

 

 まず織田弾正忠家と津島の縁について確認します。

大永4年頃(1524)再々揉めていた津島で、下尾張守護代織田氏に対する叛乱(大橋の乱)が起き、織田弾正忠信貞が鎮圧し、その結果、津島は織田弾正家に従属しました。

そして他の国衆と同じように、トップに織田氏の娘(くら姫)が入り、津島の家々では織田家に直接出仕したり、織田家の家臣と通婚したり、養子縁組したりし、縁を深めていっています。

稲生合戦の後林秀貞は頭を丸めると大急ぎで津島に向かい、信長公の長姉くら姫の旦那様の大橋重長を頼りました。秀貞の嫡男の正室が重長の娘だった為、重長は仕方なく口をきき、彼の顔を立てる形で許されたとも言います。

津島の影響力を感じさせる逸話ですね。


 では次に津島という都市についてです。この津島は非常に興味深い都市です。

津島はご存知のように、津島四家七苗字が支配している街でした。

「四家」は新田系武士の大橋、恒川、岡本、山川氏。「七苗字」は公家庶流の堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村。


南北朝時代に後醍醐天皇の曾孫の良王親王が南朝方の津島に逃れてきた際、親王に害を与えんとした北朝の武士尾張佐屋村の台尻大隈守を船遊びに事寄せて討ち、良王を護った豪族「南朝方十五党」(四家、七名字、四姓。四姓=宇佐見、宇都宮、開田、野々村)と伝わります。またこれが、津島天王祭の由来のひとつであるといいます。

良王親王には、大橋氏の娘が入輿しています。


良王親王の父親であるとされる尹良親王は、後醍醐帝の息子である宗良親王(或いは興良親王)の子とされているのですが、尹良親王、良王親王ともに正史、同時代の記録に残っておらず、実在は確認されていません。

また台尻氏というのも、なかなか珍しい名前ですが、見つかっていません。佐屋村は津島と渡し船で結ばれていた、川沿いの村です。


 しかしなんであれ、彼らが南朝方だったことは間違いがないのでしょうし、「南朝方十五党」と共に、松平家の祖である世良田氏(松平家の祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、「世良田」 他5カ郷を譲り受けた、息子の義季であるとされる)と桃井氏(足利庶流。頼朝亡き後北条氏と争い敗北、後に新田軍として倒幕)が吉野から三河、尾張へと随行したというのは、「尾張の平氏の亡霊を成仏させるための弁慶」という部分と被り、非常に興味深い話です。(尾張平氏長田氏は、主君源義朝を裏切り、後に頼朝に処刑され、嫡流は滅亡。傍流が生き残り大橋氏と合流。のちに三河松平氏に仕える)


 津島牛頭天王社自体は、おおよそ12世紀あたりから文献に名が上がり始め、戦国当時では伊勢内宮と外宮、白山妙理権現、 熊野三所大神社、山王三聖(日吉大社)、南宮大社(美濃国一宮)、 多度大社とともに、全国有数の大社でした。

それは病が悪霊、生き霊の仕業であるとされ、医療が進んでいなかった当時、疫病退散の霊験あらたかな牛頭天王を祀る神社だったというのが理由の一つで、「西の祇園社(現在の八坂神社)、東の津島」と呼ばれるほどの信仰を集めていました。


つまりこの時、熱田ではなく、津島に向かったのは疫病退散のためでしょう。

それは無念の想いを抱く戦没者などの死者が出、怨念などから疫病の発生が考えられる。

その年、大変な疫病の発生があるとお告げやら予言があった。

何やら怨念をかっていて、疫病で信長公か後継者が死ぬとかいう占いが出た。

やっと長男が生まれた。或いは御内室のどなたかが妊娠した。

などの理由でしょうか。

(当作では、那古野時代、正室鷺山殿や側室の方々に子供が生まれなかったのは、当時の出産の方法、倫理観、天道的君主論を考えると、林秀貞が信長公の権威失墜のため、裏で手を回し胎児、新生児を闇に葬っていたからだと考察しています)



 そのような津島の祭は当時から華やかであったらしく、弘治4年(1558)「上総介様は天王橋の上で御見物された。女房たちは橋の近くの桟敷に座られた」と『大祭筏場車記録』に記されており、祭でわく津島との交流が記されています。


 また伊勢、熱田が大社と湊で富を集め、有数の商業都市であったように、津島の湊は木曽三川沿岸部を繋いでおり、様々な物資と人と銭が流通し「尾張の富は津島を通す」とまで言われていたそうです。


ということは、東美濃で問丸業をしていた国衆土田氏、小折で問丸、馬借で富を築いていた生駒氏は、津島を通じて信貞の時代から織田氏と繋がっているわけで、土田氏、生駒氏、上下守護代家、美濃斉藤氏との婚姻、そして尾張海東に領地を持つ明智家の光秀など、現在の通説とは違う状況があったかもしれませんね。


木曽川の流れが大きく変わった天正14年の大洪水により、現在は当時の様子を偲ぶことは難しくなっています。

当時の木曽川は、現在のそれよりも多くの支流を持った川であり、津島の東を流れる天王川は満々たる水を湛えた大河で、現在の新堀川の流れが当時の天王川になるそうです。

上流では現在津島北高のあるあたりで日光川と合流し、北東へ流れをかえて勝幡城へと向かっていたそうです。

津島の西を流れるのは佐屋村のある佐屋川で、現在の海部幹線水路が流れているあたりであったといいます。この佐屋川と天王川は現在の津島高校のあたりで合流し、伊勢湾につながっていました。


 津島は他国との経済的繋がりだけではなく、別の理由で深い繋がりがありました。

例えば美濃と津島の繋がりは、大変有名です。

大永2年(1522)美濃の高須城を、信秀娘のくら姫の夫である大橋重長が築造あるいは修築しています。

重長の高須在城は天文3年(1534)までで、以後、弘治2年(1556)までは高津直幸(中島氏。先祖は貞和7年(1351)3月27日付足利直冬から美濃地村東方一方地頭職を申し付けられている書状が残っている)が城将になっています、

そして弘治3年から永禄3年(1560)までは、平野長治(横井氏。尾張国海東郡赤目城主)、鷲巣光康(土岐氏。美濃國多藝郡鷲巣邑。美濃鷲巣城主)、林長正(伊予河野氏、美濃本巣十七条城主)、稲葉成政(伊予河野氏、曽根城主)など南朝十五党とその関係者が守将になっています。

彼らは江戸時代に至っても、頻繁に婚姻関係、養子縁組を行っており、とても結束力が強かった様子が見られます。

美濃斎藤家の家臣団を見ると十五党関係者がかなり数おり、尾張より美濃との関係の深さが伺えます。これは南北朝時代、尾張の守護職が土岐氏だった関係ではないかと考えられます。


ちなみに今回、津島の中でスポットライトを当てて見ていく堀田氏も家康に合流し、4代将軍家綱の大老堀田正俊を輩出します。彼は同じ十五党の稲葉氏娘を正室に迎え、稲葉氏の血流を汲む(母親が稲葉氏)春日局の養子になって、頭角を現しました。

つまり南朝系の繋がり、結束というものは、この時代に於いてもまだ濃厚に続いていたということになります。


 更に信長公は、津島神社の御師活動を保護しています。保護を与えるとは、何かあった時の後ろ盾に、織田家がなるということです。

現代のことは存じ上げないのですが、戦国当時、神職は神明奉仕(神社において神に奉仕し祭儀や社務を行う)のみ勤め、布教活動はできなかったそうです。それに対して御師(御祈祷師)は、参拝に訪れた人々を案内したり、宿を提供したり、御祈祷をしてあげたりして縁を結び、師と弟子(檀那)として一種の契約関係に持ち込むそうです。

その関係を他の国領、敵である国の領民たちにまで結ぶことを、信長公は許可したと言います。

また御師は諸国を巡り、牛頭天王の霊験あらたかな疫病退散のお札を配ったり、祈祷をしたりして、布教活動をします。そして村人たちが檀那になれば、そこを檀那場と呼びます。

津島の檀那場は、尾張のみならず、伊予、播磨、丹波、近江、山城、美濃、伊勢、志摩、紀伊、三河、遠江、上野、越前、越中、越後などに及んだそうです。

これは非常に興味深い話ですね。


例えば今川家に寝返った山口氏の偽書(時が来れば今川を挟み討ちにする)を持たせた森可成を駿府に潜入させて、わざわざ「かような物が!」と届け出させたという話に、もしかすると今川義元が寄進を繰り返しておられた、牛頭天王をお迎えしている吉田神社が津島の御師たちと共に何か関係したかもしれません。

また桶狭間の折の情報戦、世良田氏の末裔で、後述のように大河内氏の血筋でもある、みんなが逃げ込む家康とのこと、密書の運搬、道案内など、津島衆は私たちが知る以上の働きをされていたかもしれません。


 では次に堀田道空をみていきます。

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