16.優奈先生とお泊り?
(
立夏が無表情のまま通話器を戻す。
――いや、無表情に見えるが、これは立夏のいろいろ考えてる顔だ。
一体、どう言う状況なのか、上手く推測が働かない。いや、働き過ぎる想像力を落ち着かせることができない、と言った方が正確かも知れない。
昼間、紬の母は確かに『一人で』出掛けたと言っていた。
(と言うことは、外でわざわざ優奈先生と待ち合わせして秘密のお出掛け?)
でも、そうだとしたら妹が知ってるのはおかしいと考え直す。
今日、
(可憐なら、或いは何か知ってるかもしれないけど……)
時計を見ると、短針はちょうど四の位置を指していた。
◇
やはり、休憩所の軽食じゃ物足りないなぁ。
目の前に置かれたのはパンと野菜スープ。
一応、スープの中には豚肉も入っていたが、育ち盛りの十七歳男子にとっては、質素すぎる夕食だと言わざるを得ない。
中途半端に食べるとかえってお腹が減るんだよな。
「綾瀬くんは、これで足りる?」
先生が心配そうに訊いて来る。
「ええ、まあ。一日くらい、どうとでもなります」
「私は足りない!」
テーブルの上で、空になったスープの器を、物足りなそうに覗き込むリリス。
「じゃあ、先生のも食べる?」
「え! いいの! やったー!」
先生の前まで歩いて行くと、持って行ったスプーンで、無遠慮に先生のスープを飲み始める。
「先生、いいんですか、本当に?」
「うんうん、大丈夫。もともと夜はそんなに食べないようにしてるから」
ダイエットでもしてるのだろうか?
全く必要はなさそうに見えるけど。
それにしても……優奈先生、全然変わらないなぁ。
夕方に入浴した時は、化粧が落ちないように気をつけたようだが、夜のお風呂では完全に落としてスッピンになっている。
にもかかわらず、最初から薄化粧だったのか、ほとんど見た目が変わらない。
それどころか、今は今で、また別の瑞々しい魅力が加わったほどである。
人の体内酵素は二十歳をピークに急激に減少を始め、老化へ向かうらしいが、優奈先生の混じり気のない白い肌は、そんなことを微塵も感じさせない。
クラスの女子達のそれと比較しても、遜色のない透明感だ。
「な、なに?」
先生が俺の視線に気付いて少し赤くなる。
ヤバイ、ヤバイ。ついつい
「ああ、すいません。お化粧を落としても、全然変わらないなぁ、と思って」
優奈先生の表情が曇る。
あれ? どっちか言うと褒め言葉のつもりだったんだけど……。
「お化粧するだけ無駄ってこと?」
「いやいや……お化粧後に変わらないって言ってるならそうでしょうけど、スッピンを見て言ってるんですから、元が可愛いってことですよ……」
「ああ、そっかそっか!」
そう納得した後、言葉の意味に気付いてまた顔が赤くなる。
先生には、あまり遠回しな表現は止めておいた方が良さそうだ。
食事を終えて時計を見ると、夜の八時を少し回ったところだった。
係員が回ってきて
「どうする? もう寝る?」
優奈先生の質問に、俺は首を振る。この世界に来てから就寝時間はだいぶ早くなったが、それにしてもまだ早い。
「いえ、休憩室は十時頃まで灯りが点いてるらしいんで、少し本でも読んでます。優奈先生は……お先にどうぞ」
「ううん。じゃあ、私も休憩室に行くわ」
スマートフォンも、ゲームもテレビもパソコンもない。
こっちの世界で、寝る前の娯楽と言えば、筆頭は本だ。
最初は、現代日本人をこじらせすぎたせいか、マジで何をすればいいのか解らなかったが、慣れると読書と言うのはかなり楽しい娯楽だと気付いた。
実は食事前、少し休憩室を覗いた時に「チート修道士の異世界転生」を発見していた。
この世界の〝ライトノベル〟と言ったものがどんな内容なのか、少し興味があったんだよね。
ノートの精のご都合的な世界改変のおかげで、文字や言語が日本語のままというのも助かった。
「紬……くん」
先生の後に続いて休憩室に入ろうとしたその時、どこからか聞き覚えのある声がした。一瞬、優奈先生かと思って前を見るが、先生なら『綾瀬君』と呼ぶはずだ。
先生も驚いた様子で振り返り、俺の肩越しに、後ろの暗闇を凝視している。
今ここに、優奈先生以外で俺の名前を呼ぶ人って、誰かいる?
俺も振り返った視線のその先に居たのは――
立夏!?
オフショルダーのスモックに、フリルの着いたデニムのショートパンツ。
走ってきたのだろうか? 額に汗を浮かべながら、肩を大きく上下させている。
「どうして、立夏が……ここに?」
道中転んだのであろうか。膝や腕など、あちこち土で汚れている。
無理もない。こんな暗闇の中、山道を走ってきたのなら……。
「うんうん! 青春だねー、綾瀬君!」
そう言って先生が俺の背中をポンと押した。
鈍いくせに勘違いだけは
「じゃ、先生は休憩室にいるから~」
そう言って一人で中に入って行った。
どうして、ここに?
……と、同じ質問を繰り返しそうになったが、時計を見ればもう夜の八時半だ。露天風呂が九時までだったのを思い出し、まずは入浴を薦める。
俺はその間に、今日見つけた縦笛を部屋まで取りに行く。
傷だらけの縦笛を見て、再び心が痛むが――
それでも見つけるべきだと思ってここまで来たんだ。覚悟は決まってる!
その後は、立夏が出るまで、表のベンチでぼんやり月を眺めながら待つ。
月はほぼ半分に欠けてはいたが、それでも明るく辺りを照らしている。
空気の澄み具合が元の世界の日本とは違うのだろう。
なぜ、立夏がここに来たんだ?
待ちながらその理由を考える。
可憐が話すことはないだろうし、となればうちに電話でもしたんだろうか?
今日、こっちに泊まると電話したのは夕方四時頃だったから、立夏がそれを知ったのはそれ以降。
仮に四時直後だったとしても、この時間にここにいるってことは、そこで直ちに家を出た計算になる。
何か急ぎの用事でもあったんだろうか?
「その時の紬はまだ、これから起こる惨劇を知る由もなかった……」
「……変なナレーション付けるな」
ウエストポーチの中で横になっているリリスを睨みつける。
「だって、そんな傷だらけの笛を渡したら、絶対怒られるよ? 下手したら絶交だよ」
「ま……マジ?」
「さあ? っていうか、もう食事もできなそうだし、暇だし……私、寝てていいかな?」
「うん。むしろ、そうしてくれ」
温泉に入ってから三十分後、午後九時頃に、温泉から上がった立夏が脱衣室から出てくる。俺を見つけると直ぐに近づいてきて、三十センチほど開けて隣に座る。
どう話を切り出して良いか解らず、少しの間沈黙が流れるが――
まあ、立夏の方から話しかけてくることは九割九分九厘期待できない。
「えっと……これ……」
今日見つけた縦笛を立夏の前に差し出すと、『うん』と頷いてそれを受け取る。どうやら、俺がここに来た理由は察しているらしい。
暗くて笛の傷は見えなかっただろうが、手触りで状態を感じ取ったのだろう。受け取った瞬間、一瞬だけピクリと動きが止まる。
「増水した川に流されてて……下流で見つけることはできたんだけど、かなり傷が付いちゃってて……ごめん」
「うん」
「お兄さんの容態のこと、可憐から聞いた」
「………」
「それを聞いてなおさら、どうしてもそれ見つけなきゃ、って思って……」
「………」
「大切な品物だったのに、そんな風にしちゃって、ほんとに……」
ごめん……と、もう一度謝ろうとした時、月明かりの下、隣で立夏が息を吸い込む音が聞こえた。
「いい」
俺の言葉遮るように、大きく息を吐き出しながら立夏が呟く。
「それはもういいって、前にも言った」
「う、うん……」
「本当に、傷がつくのも嫌なほど大切なものだったら、最初から貸してない」
「そうかも知れないけど……」
「テイマーになれなかった私が引き出しにしまっておくよりも、紬くんの役に立てる場面があるなら、活用した方が
「うん……」
「結果的に無くなったのは仕方ないことで、紬くんのせいじゃない。それに……」
少しの間、立夏が口を
ここまで饒舌な立夏は、こちらの世界ではもちろん、元の世界での記憶も含めて、いくら遡ってみてもちょっと思い出せない。
何かを、言おうか言うまいか、迷っているような、そんな気がする。
俺は黙って立夏の次の言葉を待った。
「それに、この傷だらけの笛も……これはこれで、大切な想い出の品」
「大切な……想い出?」
「うん」
立夏が、縦笛をギュッと握り閉める。
なぜ傷だらけの笛が、大切になるんだろう?
「この傷は、紬くんがトゥクヴァルスで、みんなのために一生懸命戦ったからこそついた傷」
「みんなと言うより、自分のためでもあったけど」
「それから、私のためにも……」
「立夏の……ため?」
立夏のためと言えば、あの口移しの件や、或いは、今トゥクヴァルスにいるのも立夏のためと言えるかも知れない。
でも……それが大切な想い出?
そこまで考えて、漠然とした不安が頭を過る。
この後、立夏が何を話そうとしているのか解らないが、ただ、それを聞いたら何かが変わってしまいそうな気がする。
そしてそれは、俺や立夏にとって必ずしも望ましい変化であるとは限らないのではないか……。
いつの間にか、大して話していない俺まで、喉がカラカラに渇いていた。
立夏は今、どんな気持ちでいるんだろうか。
言葉を飲み込んだまま、束の間の沈黙。
五秒か、十秒か……恐らくその程度の時間だったとは思うが、早鳴る鼓動のせいでそれが三十秒にも一分にも感じられた。
結局、この件で立夏がそれ以上言葉を続けることはなかった。
沈黙の後、「ふうっ……」と深い溜息を漏らすと、「笛の事は、もういい」と、立夏が話を締め括る。
とにかく、立夏の中で納得のいく結論に辿り着き、そしてそれは、縦笛を見つけることができたからこそ辿り着けたのだということだけは察することができた。
そう、やっぱり、探しに来て正解だったんだ!
そう胸を撫で下ろした俺の隣で、しかし、立夏の顔にはまた別の件で憮然とした表情が広がっていることに、直ぐには気づけなかった。
「そんなことより……」
一息ついた次の瞬間、立夏が発した言葉の
「そんなことより……紬くん?」
え?
あわてて立夏の方を見る。
月明りの下で、独特の、焦点がぼやけたような藍色の瞳が、半分閉じられた瞼の向こう側からジッと俺を見据えている。
立夏の
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