06.アジト

「あれ? バクバリィのアジト……ここからどう行くんだったかな?」

「この先の十字路を右だ。郊外に出て少し行った所にある、緑の外壁の家だ」


 質問の声は、あの巨漢の剣士。

 二人のやりとりの中で、剣士の名前は柿崎かきざき、それに答えた……恐らく、カフェテラスから見えたあの黒いコートの男は須藤すどうと言う名前だと解かった。


「そう……だったか? なんだか最近、なんでこんなことを、って感じの物忘れが多いんだよな。まだそんな歳でもねぇはずなんだが……」


 そう言いながら、誤魔化すようにヘヘッと笑う声が聞こえる。


「気にするな。柿崎おまえは剣の扱いを忘れなければそれでいい」

「なんだよ、人を闘剣バカみてぇに……」

「そう、言ったんだが」


 今度は、答えた須藤の方が、揶揄するようにくくっと笑う。

 後に続いた不貞腐ふてくされたような舌打ちは……柿崎だろう。


 二人の会話を聞きながら、雫は定期的に押し寄せる痛みに顔をしかめる。

 頭皮の痛みは、時間が経つにつれて次第に和らいできた。

 しかし、腹部からの痛みは未だにズキズキと全身に広がっている。

 やはり、肋骨にヒビでも入っているのではないかと思われた。


 このまま、アジトとやらに着いたら、私は殺されちゃうのかな?

 ……そう考えて、頭の中が真っ白になる。


 友達との食事や買い物、キャンプや海水浴。

 夏休みが終われば、秋には競技会や文化祭も控えている。

 来春にはあにと一緒の校舎に通うことになる。

 希望職の専攻を決めたら、二人でパーティーを組んで、兄のテイムの手伝いをしたりするのも密かに楽しみにしていたことだ。


 まだまだやりたい事がいっぱいあるのに……こんなところで死にたくない!

 そんな思いが募れば募る程、今の状況との落差に愕然となり、悲嘆で視界が霞む。


 やがて、魔動車が動力を切ったことを床から伝わる感覚で感じ取る。

 少しの間ガサゴソと運転席の方で音がしていたが、不意に身体を覆っていた麻布が捲られ、急に明るんだ視界に目を細める。

 座席の後ろを顧みて雫を覗き込んでいるのは……黒コートの男、須藤だった。


「目、覚めてんだろ」


 どうやら須藤このおとこは、周囲の気配を察知することに長けているらしい。

 雫に対する須藤の問い掛けに、運転席から降りかけていた柿崎が振り返る。


「ああん? もっかい気絶させておくか?」

「止めとけ」


 須藤が、雫の鳩尾みぞおちの辺りに右手をかざして呪文を唱え始める。

 詠唱の短さから察するにそれほど高韻度いんどの魔法ではなさそうだが、しかし、それに伴って腹部の痛みが少しずつ和らいでいくのが解った。


「肋骨にヒビでも入ってたか。ほんと柿崎おまえは手加減を知らねぇな」


 手元から目を離さずに呟く須藤。


「治したのか?」

死霊使いネクロマンサーにそんなことはできん。痛みを遮断しただけだ」

「相変わらず、兄貴はジェントルマンなこって……」

「人質としての価値を毀損したくないだけだ。柿崎おまえこそもう少し後先考えろ」


 そう言いながら、腹部の処置を終えた須藤が雫の足のロープをほどく。

 猿轡さるぐつわはそのままだったが、後ろ手で縛られていた両手も一旦ほどかれ、体の前でもう一度縛り直される。

 須藤に二の腕を掴まれながら、「出ろ」と促されて魔動車を降りる雫。


「トイレは……行っておくか?」


 ぶっきら棒な須藤の質問に、雫は一瞬驚いたように目を見開くが、恐る恐る頷く。

 郊外のやや小高い丘の上にポツンと立っている、眼前の緑色の木組みの家コロンバージュが、恐らく二人が話していたアジトだろう。

 景色に見覚えはなかったが、バクバリィなら自宅のフナバシティからも近い。


 須藤に腕を引かれ、雫も足をもつれさせながら続く。

 玄関口から中へ入ると、途端に、しばらく人が入ってなかった家屋独特のカビ臭さが、湿気とともに鼻腔を突いた。


「そこのドアだ。さっさと済ませてこい。……言っておくが、猿轡やロープを勝手に解いたりしたらまた痛い目に会うからな。気をつけろ」


 須藤から水差しに入った洗浄水を受け取ると、雫はトイレのドアを開ける。

 お椀型の便器が備え付けられた個室の壁には、女性用の補助便座も掛けてある。 


 悪人のアジトにしては小奇麗な室内に、僅かながら驚く。

 桃色の敷物ラグなど、室内にさり気なく施された暖色系の装飾は、どこか女性的な情趣じょうしゅも漂わせていた。


 期待はしていなかったが……やはり、窓はない。

 もっとも、そんな物があれば一人でこうしてトイレに入るなどということも許されなかっただろうが……。

 

 補助便座をセットすると、縛られた手でなんとかショートパンツと下着を下ろす。

 腰を降ろすと、ひざの上にひじを着き、手の甲にひたいを乗せるようにこうべを垂れる。

 猿轡の奥で、嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪える。


 目を閉じると、気を失う直前に見た、色を失った萌花の顔が瞼の裏に蘇ってきた。

 雫がトラブルに巻き込まれたことは萌花も認識していたはずだ。


 そう……誰も目撃者がいなかったわけじゃないんだ!

 モエちゃんが、このまま黙って何も行動を起こさないはずがないわ。


 そう考え、消えてしまいそうな希望の糸をなんとか手繰たぐり寄せようと頭を振る。

 今の雫がどうにか心の均衡を保っていられるのは、一縷いちるの希望である萌花の存在が支えとなっていると言っても過言ではない。


               ◇


なげえぇな、トイレ」


 柿崎が、どこから見つけてきたのか、〝山芋〟をかじりながらダイニングテーブルを囲む椅子の一つに腰掛ける。

 そんな柿崎をチラリと見遣った後、再びトイレのドアに視線を戻す須藤。


「気にするな。窓もないトイレで、手も縛られたまま何かできるわけでもない」 

「兄貴のそういうところは前から知ってたけどよぉ……それにしても今回は甘過ぎねぇか?」

「まだガキだからな。錯乱されて騒がれるのも面倒だと思っただけだ。他意はない」


 釈然としない面持ちで、モグモグと口を動かしながら須藤を見る柿崎。


「そう言や、あのガキ……どことなく雰囲気が似てねぇか? よくここにも掃除しに来てた兄貴の妹に……えぇっと、名前、なんて言ったっけ?」


 あぁ、また度忘れだぜチクショウ! と、柿崎がパシンッと左手で膝を叩く。


「そんなことより柿崎おまえ山芋そんなもん食って大丈夫なのか?」

「なんだよ兄貴、知らねぇのか? 山芋は唯一なまで食える芋なんだぜ」

「そりゃそうかも知れんが……普通、皮ごとは食わんだろう?」

「口に入れられりゃ、何でもいいさ」


 まあ確かに、今の・・お前ならそれでもいいだろうな、と、須藤が苦笑する。


「俺も腹が減った。そんなもん食ってないで、したで何かまともなもん買ってこい」

「あんだよ面倒臭めんどうくせぇなぁ……。長居すんのかよ、ここで?」

「まだ解からんが……連中のことだ。ティーバの騒ぎの事はもう聞きつけているだろう。予定外の事態が起こった時は定時連絡で一応指示を仰ぐことになってる」


 そう言って須藤が、壁の振り子時計を見る。

 五十日巻き……一度ゼンマイを巻けば一ヵ月半以上動き続ける高級品だ。


「あと十五分ほどで定時連絡だ。買い出しは、裏手の軽魔動車を使え」

「ったく、しょうがねぇなぁ」


 残った一欠けらの長芋を口に放り込みながら、柿崎が椅子から立ち上がるのととほぼ同時に、トイレのドアが開いて雫が出てくる。

 少女の、華奢な手足のあちこちに付いた擦り傷に加え、乱れた髪や衣服も痛々しさに拍車をかけていた。


 玄関に向かいながらギロリと睨んでくる柿崎の視線に、雫が身をすくめる。

 虫けらを見下ろすかのような冷淡な瞳の奥に、淫虐いんぎゃくに濁った光が僅かに揺らぐ。

 ……が、雫も、そして須藤も、柿崎のその一瞬の変容に気が付いてはいない。


「適当に、パンか何かでいいよな? んじゃ、ちょっくら行って来らぁ」


 そう言いながら、外に出た柿崎が玄関ドアを閉める。

 足音が、家の裏手へ向かって遠ざかって行くのを聞きながら、どうしていいのか解からず、うつむきながらその場でたたずむ雫。


 おヘソを出したショート丈のレースアップTシャツがなんとも心許ない。

 肌を出しすぎだ、と心配そうに眺めていたあにの顔を思い出す。


(ほんと、こんな服、着てくるんじゃなかった……)


 久しぶりにあにと一緒の外出だったので、一番お気に入りの、ちょっとセクシーな服を選んできたのだが、まさかこんな事になるなんて……とほぞを嚙む。


「どうした? 適当に、その辺の椅子に座ってろ」


 しばしの沈黙の後、通話機の傍の柱にもたれたまま須藤が声を掛ける。

 それを聞いて、恐る恐るダイニングテーブルの方へ向かおうとする雫を「ちょっと待て」と呼び止める須藤。

 ビクッと立ち止まった雫の頭に須藤が手を伸ばし、猿轡さるぐつわを外すとそれを台所のシンクに向かって放り投げた。


「いいぞ。行け」


 久しぶりに自由になったがく間接を軽く動かしながら、思わず雫が須藤を顧みる。

 雫の視線に気づいて、須藤が言葉を続けた。


「言っておくが、騒いだりすれば即、殺す」


 感情のない、冷気を帯びたような声色に当てられ、雫は再びビクッと肩を震わせると、慌てて視線を外して足早にテーブルへ向かう。

 一番手前の椅子を引くと、つっと・・・腰を降ろして小さく息を吐いた。


 柿崎のような粗暴な禍々しさは、須藤からは感じられない。

 しかし、理性的な言動の端々に、予断を許さない不吉さが見え隠れする。

 光の宿っていない、細い切れ長の眼からは何を考えているのか皆目見当はつかないが、しかし、話している言葉に嘘がないことだけは雫にも確信できた。


 じっと時計を眺めていた須藤がおもむろに通話機に手を伸ばし、どこかへ連絡を取り始める。

 話している内容については雫にはよく解からなかったが、どうやら、黒い魔動車に積まれていた荷物を誰かに引き渡す予定だったのが、場所が変更になったらしい。


 私は、なぜ生かされているんだろう……と、雫が顧みる。

 柿崎はもちろん、この須藤も、恐らく人を殺す事などなんとも思ってない種類の人間だと言う事は、雫もすでに感じ取っていた。


 魔動車の中で須藤が、人質がどうとか話していたのを思い出す。

 萌花が自警団に連絡はしているはずだし、人質……と言う事は、追っ手でもいるのだろうか、と考えを巡らせる。

 しかし、少なくとも、可及的に何か対処を要するという雰囲気でもない。

 〝人質〟として役目を果たしている実感がないので、生かされていることに違和感を感じると同時に、いつ殺されてもおかしくないという恐怖心も頭をもたげる。


(恐い、恐い……死にたくない……)


 固く閉じた目尻から溢れて頬を伝う涙を、縛られた両手の甲で拭う。

 油断をすれば今にも叫び出してしまいそうな衝動を必死に抑える。

 殺されたくない一心で……。


               ◇


 通話機を置いた須藤と、座りながら黙って俯く雫。

 重い沈黙が室内を支配する中、二〇分ほど経った頃、家の裏手から魔動車の停まる音が聞こえてきた。

 裏手から玄関に回る重々しい足音が室内に響いた後、玄関ドアが開く。


「おう! 待たせたな。一番近いパン屋が閉まってやがってよぉ」


 川向うの屋内露店街バザールまで足を伸ばしたら遅くなっちまった……と言いながら玄関から入ってきた柿崎が、買い物袋をテーブルの上に無造作に乗せる。

 幾つかのパンと、生ハムやチーズなども一緒に入っている。


「んで……どうなった?」と、早速須藤に問いかける柿崎。

「引渡しは予定通りだ。但し、場所と時間が変更になった」

「なんだ……引渡し場所が漏れてるとでも思ってるのか、連中は」

「自警団の計画的な捕縛作戦でもあった可能性を考えてるんだろな」

「ふぅん……」


 柿崎が、買い物袋から細長い大きなパンと生ハムを引き抜きながら、あまり興味なさそうに相槌を打つ。

 椅子に腰掛け、パンとハムを同時に口に入れながらモゴモゴと言葉を続ける。


「計画的って言われてもなぁ……俺達だって今日の決行を決めたのが今朝だからな。計画の立てようもねぇと思うんだが」

「そんなことは連中も知らんからな。まあ、細心の注意を払ってるんだろ」


 須藤が腕組みをしたまま反動をつけ、凭れていた柱から背中を離すと、玄関の前まで歩いて壁に掛けてあったキーホルダーを掴む。

 幾つかの鍵に混ざり、魔動車の起動石も着いている。


「もう行くのか? パンは要らねぇのか?」

「帰ってからでいい。まだ時間はあるが……早めに行って下見しておきたい」


 ったく、落ち着かねぇなぁ……とぼやきながら、腰を浮かせかけた柿崎を須藤が手で制する。


「いや、柿崎おまえはここに残ってろ。積み下ろしの人手は連中が用意する」

「いいのかよ? ああいう連中は、ブツを受け取ればあとは用済み……なんてパターンも有り得るぜ?」

「ふん……俺が、あんな人間ども・・・・に後れを取ると思うか?」


 そう言って、須藤が口の端を上げる。


「それに、その娘を取り引きの場に連れていくわけにもいくまい。かと言って、ここに閉じ込めておいて万一自警団に踏み込まれでもしたら、それも厄介だろ」

「……って言うかよぉ、もうこのガキこいつ、用済みでいいんじゃねぇのか?」


 そう口にした柿崎を、須藤が鋭く睨みつける。


「その娘の処遇は俺が決める。柿崎おまえは、余計な手出しはするな」

「わ、わぁってるよ……」


 冷気をまとったかのような須藤の言葉に、思わず柿崎も気圧される。


「じゃあ、行って来る」


 もし何かあれば、次は昨日泊まったカゼイのアジトで合流だ、と言い残して、須藤が玄関のドアを閉める。

 程なくして表から魔動車の起動音が聞こえてきた。


 須藤を乗せた魔動車が走り去ると、後には柿崎と、手を縛られた雫の二人だけが室内に残る。

 静かな室内に、パンを頬張る柿崎の咀嚼そしゃく音だけが響く。


「おまえは、食わねぇのか?」


 途中、そう話しかけてきた柿崎に対して、俯きながら首を振る雫。

 底の知れない恐ろしさは須藤の方が上であったが、少なくとも、指示に従っている限りは手荒なことはされないだろうと見越すことはできた。

 しかし、この柿崎と言う男は――


 とにかく、情動的で、次の瞬間には何をするかわからない恐さがあった。

 ティーバで、柿崎に振るわれた暴力の記憶が、再び雫の身をすくませる。


「さて……と」


 あっという間に二つほどパンを平らげると、パンくずを落とすように、ぽんぽんと手を叩く柿崎。

 突然響いたその乾いた音に、俯いた雫の肩がビクッと震える。


「じゃあ、行くか」


 そう言いながら柿崎が立ち上がる。

 行く? 行くって――


「ど……どこへ……」


 思わず顔を上げて訊き返す雫の腕を、ぐいっと引き上げて無理矢理立たせる柿崎。

 そのまま部屋を出て、雫を引き摺りながら廊下の奥へ進む。

 雫をあの部屋以外のどこかへ連れ出すなど……そんな話は二人の間で交わされていなかったはずだ。

 急激に、どす黒い不安のつたが雫の肺に絡みつき、呼吸を乱す。


「ど、どこへ!?」


 尻込みをしながらも、勇気を出してもう一度問い直す雫を柿崎が顧みる。


「ああん? 地下室だよ。あの部屋じゃ、なんかあった時に閉じ込めておけねえ」

「ち……地下室……」

「もっとも俺等は、調教部屋だの拷問部屋だの、って呼んでるけどな」


 そう言うと柿崎は、例の淫虐な光を帯びた瞳を細めてニタリと唇を歪ませた。

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