05.バクバリィ
「バクバリィじゃ、ティーバからちょっと近過ぎやしねぇか?」
「引渡し予定の場所がそこだからな……。定時連絡で今後の指示を仰いでみる」
(バクバリィ……)
暗く冷たい意識の底に、ゆっくりと手を差し伸べてくる……五感。
口の中に残っている食べ物のカスと、ネットリとした独特の塩酸臭。
ぼんやりとだが、気を失う前に
唾を飲み込みたかったが、
しばらく固い床の上で横になっていたせいか、背中がギシギシと痛む。
……が、寝返りは打てない。
かなり狭いうえに両手足が縛られていることにすぐに気が付く。
「あの、組織の元メンバーだって言う
「一部は
「ふん……最初から俺達に頼んどきゃ、直ぐに犯人も突き止められたのにな。安物買いの銭失いとはこのことだぜ」
二人の男の話し声……。
一人は、声に聞き覚えがある。
麻布のようなものを掛けられているため、周囲を見ることは出来ない。
……が、
男達の声の大きさと方向から考えると、恐らく運転席の後ろ辺りの狭いスペースに押し込められているのだろう。
意識の覚醒が進むに連れて、急激に増してくる腹部の痛み。
気を失う直前、大男の膝が自分の
下手をすれば、肋骨にヒビでも入っているかも知れない。
頭部も、毛穴がズキズキと痛む。
髪の毛がむしり取られたかのような痛みだ。
体のあちこちも、擦り傷を負ったかのようにヒリヒリと痛む。
気を失っている間、髪の毛を掴まれて引き摺り回されていたのだから当然だ。
定期的に全身を襲う痛み。
その都度、思わず漏れそうになる声を……しかし、雫は必死で堪える。
もし意識が戻ったことを悟られれば、また何をされるか解らない。
気を失う直前の、大男から受けた暴力の記憶に身が
もう、あんな痛い思いをするのは絶対に嫌だった。
痛みに耐えながら歯を食いしばると、溢れた唾液が
目を強く閉じると、なぜか瞼の裏に浮んでくる
『今日はちょっと嫌な予感したんだよ』
ティーバ駅前で別れる直前、兄は確かにそう言っていた。
昔から、兄の〝悪い予感〟はよく当たっていたことを思い出す。
目尻からこぼれた涙が、こめかみを伝い、床を濡らす。
(助けて……お兄ちゃん……)
◇
「んで? ……
「
前を向いたまま訪ねてくる
魔動車の一〇メートルほど先を、
本当に大丈夫なんだろうな、マナブ?
実は、臭いとか関係なくただ飛んでました……なんてオチはないだろうな?
チラリと隣を見ると、俺の視線に気づいた
「マナブは、大丈夫」
また、先回りして短く答える立夏。
「〝つむぎ〟かあ! なんだか今風の、お洒落な名前じゃねぇか!」
「そうですかね?」
「ほら、最近
予想外のところから本の話題が出てきて、思わず寅さんの横顔を見る。
「寅さんもあの本、読んでるんですか!?」
「まあ、本はよく読むねぇ。魔動車乗りなんかしてると待ち時間も多いからなぁ。流行ってる本は一通り目を通してるな」
確かに、前の世界のようにカーナビもなければスマートフォンも無い。
この世界で暇を潰そうと思ったら、読書はかなり有効な選択肢だろう。
「もしかして、
「いや……俺が生まれた時期の方がずっと早いと思いますよ、本の発刊日より」
「そうだな、そりゃ違いねぇ! アッハッハッハッ!」
大して面白くもない話で大笑いをする寅さん。
横で急に大きな声を出されて耳が痛い。
「確か、著者の名前、〝月島薫〟でしたっけ? 他にも著作はあるんですか?」
「お! 作者名まで知ってるたぁ、
結局、
名前を聞いた意味、あるんだろうか?
「いえ、読んだ事はないんですけど、流行ってるみたいだし、気になって……」
「確かあの作者、あの本が処女作だった気がするなぁ」
「そうなんですか。確か、初版の発売日は春頃でしたよね?」
「詳しくは覚えてねえが、一巻が出たのが二巻の二ヶ月くらい前だったと思うから、デビューは五月か六月か……そのくらいだろうな」
月島薫という人物が前の世界からの転送組だとすれば、時期的にはやはり、
いや、転送後、直ぐに本の出版なんかできるとも思えないし、タイミング的には
やはり初美や、あるいは麗も、なんらかの事情を知っていたとしても不自然ではない気がする。
「ところで……
「ああ、え~っと……肩のちっこいのがリリス、後ろのちっさいのはメアリー。どちらも俺の使い魔です」
「ほぉ! ってことは、
「ええ、まあ……」
自分の話題が出たのを聞いて、座席の後ろから顔を覗かせるメアリー。
「メアリーとは今日ケッコンしてきたばかりですけどね!」
「いえ、してませんから」
口を挟むメアリーの言葉をすかさず否定する。
もう、いい加減理解していそうなものだが、わざと言ってるんだろうか?
とりあえず、亜人と人間の間には何か微妙な
「で? そっちのピンクのお嬢ちゃんは……
ピンク? ああ……立夏の髪の色のことか。
この世界では、魔法職専攻の学生が、属性に合わせて髪の色を染めることは珍しいことではないらしい。
火属性の立夏も、赤系統に染めている。
それにしても〝好い人〟なんて言い回し、久しぶりに聞いたな。
「そんなんじゃないですよ。立夏は、ただのクラスメイトです」
ハァァー……、と、大きな溜息をついて立夏が助手席の窓から外を眺める。
あれ? 紹介の仕方、まずかった?
いつの間にか街道の左側には砂浜が広がり、その先には海……恐らく、
「え~っと、ただの、というか、それなりに親しい方ですけど……」
そう言ってもう一度、立夏の横顔を覗き見る。
気づけば立夏も、顔は外に向けながらも横目で俺を見ていた。
一瞬目が合ったあと、外に視線を戻して再び小さな溜息をつく立夏。
まだ……ダメ?
「なんでい。こんなところまで付いてくるなんて、俺はてっきり
心なしか残念そうに呟く寅さん。
なぜ残念そうなのかは解からないが、
仮に、立夏が本当に〝好い人〟だったとしても、空気を読めばここは単なるクラスメイトと答えておくのが無難――――
「弐号さんは、愛人ですよ。パパの」
いたっ! ここにっ! 空気の読めない
「弐号さん? 愛人? パパぁ!?」
さすがの寅さんも、突っ込み所に困ったように言葉を詰まらせながら、首を二、三度忙しく回してメアリーの方を見る。
「ああ~、すいません、パパって言うのはニックネームみたいなもんで、愛人
一度思い込んだらなかなか修正できない性質のようで……と説明をする俺の肩口から〝
「でもさぁ……単なるクラスメイトなのに、
「辞めさせるって言うか……嫌だなって思った俺の気持ちを伝えただけだよ。最終的に決めたのは立夏なわけだし……」
「何でい? 仕事を辞めさせるって?」
早速、寅さんが食いつく。
ルサリィズ・アパートメントでの出来事を簡単に説明すると、興味津々の様子で何度も頷きながら聞き入る寅さん。
「なるほどねぇ……。そりゃあ、
顔は窓の外に向けながら、目だけをこちらへ向ける立夏。
「それは、前から分かってるので」
代わり映えしない景色を眺めながら、立夏が短く答える。
窓の
「他の男の視線が気に入らなくて仕事を辞めさせるなんてなぁ……
「好きですよ。立夏のことは」
「違うんだよ! そういう好きじゃねぇんだよなぁ……」
寅さんまで小さな溜息を
どうした? いつのまにこんなアウェーに!?
「
「ええ、まあ、一応……」
正確にはこの世界線での記憶はないのだが、
年上という共通点からしても、恐らく前の世界で付き合っていた人と同一人物ではないだろうか。
「ただ、二ヶ月ほどで別れましたから……付き合っていたと言えるかどうか……」
「まあ、
「確かに、そんな感じでしたけど……なんでそれを?」
俺の質問には答えず、流し目でチラリと俺の方を見て口の端を上げる寅さん。
「ま、こういうことは外野が口を挟んだところで上手くいくもんでもないからなぁ」
「はあ……」と、相槌を打ちながらも頭の上にはクエスチョンマークが浮ぶ。
「
「そうですね。……実習班も一緒です」
「俺も学生時代に経験したから解かるが、そう言う距離間の間柄になるとな……」
そこまで言って、寅さんがこちらを見る。
俺と、いつの間にか車内へ向けている立夏の顔を交互に見遣ると、再び前方に視線を戻して言葉を続ける。
「わざわざ恋人同士になろうって思わなくなるんだよな。もし思う時が来るとしたらそれは、友達同士でいられなくなった時だ。……どっちかがな」
ん~、言ってることは、何となく分かる。
が、俺と立夏について、何か大きな勘違いをしているんじゃないか?
恋人同士? 俺と立夏が!?
立夏が俺を好きになる理由なんてこれぽっちも見当たらない。
そして俺も、見込みのない女の子をわざわざ好きになる事はない。
たまに、
しかし、残念ながら? 俺はそんな思考回路は備わっていない。
「実はうちのカミさんも学生時代の同級生でな。
そう言ってまた高笑いする寅さんだが、似てるのは男と女って部分だけだろう。
二〇年後の俺がこんな江戸っ子になってるとはとても思えない。
「あっ! マナブが……」
前方を見ていたリリスが、肩の上から指を差す。
前を飛んでいたマナブが、ティーバ街道から右の側道へ逸れていく。
「バクバリィ方面か……」
寅さんが呟く。
この辺りはまだ、
バクバリィ……そうか!
とは言え、街道の左側は直ぐ傍まで海岸線が迫っている。
と言う事は、
「寅さん、ここまでありがとうございました。相手が幕……バクバリィだと解かれば、あとは徒歩でも追跡できます」
「はぁ? バカ言ってんじゃねぇやい! 乗りかかった船だ。魔動車が見つかるまで付き合うぜ!」
「で、でも……仕事は大丈夫なんですか?」
「仲間の命が関わってるかも知れねぇ、って時に、そんなこと言ってられるかい!」
仲間――――
いつの間に? という突っ込みはさておき、今はその言葉が非常にありがたい。
確かに、現時点ではまだ、あの魔動車がバクバリィに滞留している確証もないし、寅さんが付き合ってくれるのはとても心強い。
「分かりました。じゃあ、引き続き、宜しくお願いします」
頭を下げる俺の肩を、運転席の寅さんがバンバン叩く。
「なんでぃ、他人行儀だな。こうして今ここにいるのもの何かの縁だ。もっと気軽に頼ってくれていいんだぜ」
「〝袖振り合うも多生の縁〟ってやつね!」
リリスが納得したように相槌を打つ。
悪魔のくせに、なんでそんなことわざ知ってんだ?
「なんでぃ、使い魔の嬢ちゃんの方がご主人様よりずっと解かってんじゃねぇか!」
寅さんの高笑いを響かせながら、俺たちを乗せた魔動車はバクバリィへ向かって進路を変えた。
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