06.【立夏】七月十日・キルパンサー

 私を抱きかかえているのは……誰?

 兄さん……?

 背中にゴツゴツとしたものが当たってる。……石かな? 地面だ。

 ……私は今、地面に横たわっているんだ。


 頬に走る、鈍い痛み。徐々に意識が引き戻される。

 誰かに頬を張られたみたいだけど……よく分からない。

 続けて何かが口の中に流し込まれたけど……うまく飲み込めずに唇の端からこぼれてゆく。


 生暖かい雨粒に顔を打たれ、朦朧もうろうとした意識が徐々に覚醒してゆく。

 同時に、青い魔物――恐らくキルパンサーに、塩崎くんが体当たりされて吹き飛ばされた光景が蘇ってきた。

 そのあと私は……可憐たちに危機を知らせるためにメガファイアを撃って……。


 そうだ、私に向かってキルパンサーがぐんぐん近づいて来て――!


「マジ、ごめん!」


 ぐいっと私の頭を持ち上げた人物の声が、今度ははっきり耳朶じだを打つ。

 なんとか瞼を持ち上げて取り戻す……白くぼやけた視界。

 と、その時、隙間を埋めるように唇が塞がれ、同時に何かが口の中へ流しこまれる。


 この味は……回復ポーション?

 やり場のない液体の行く先を探すかのように、自然と嚥下反応が起こり、わずかに力が戻る。


「兄……さん?」


 ようやく声を出すことができたけど、自分の言葉を聞いてすぐにハッとする。

 こんな場所に魂睡こんすい状態の兄さんがいるわけがない。 


 もう一度、たった今自分の唇を塞いだ人物の顔を見上げる。

 ぼやけた視界の中に、徐々にあなたの顔が浮かび上がってきた。


つむぎくん……」

「ああそうだ。もっと飲めるか?」


 紬くんが、今度は手に持ったポーションを私の口へ流し込む。

 さっきのは……そっか。朦朧としていた私に、紬くんが口移しでポーションを飲ませてくれたんだ。


 ゆっくりと蘇る、優しくて力強い接吻くちづけの感触。

 ううん、そういう行為じゃないとは分かっているけど、でも、胸が高鳴る。

 油断していると、記憶の彼方に溶けていきそうなその感覚を、必死に手繰り寄せて噛み締めるように思い出す。


 紬くんが、ようやく開くことの出来た私の瞳を覗きこみながら、私の意識を確認するように二、三度小さく頷くと――


「あと何本か置いておく。痛むようなら、瓶が痛み止めになってるからっ!」


 そう言い残して、急いで立ち去る。

 あとに残されたのは二本のポーションアンプル。

 もう一本を口に流し込み、空になった瓶を口に含むと、それも溶けて体内に吸収される。全身に残っていた鈍痛がスーッと引いていくのが解った。


 そのまま、少しの間だけジッとしている。

 あのキルパンサー……私たち六人が力を合わせても、ようやく対抗できるかどうかというランクの魔物だ。周りの状況も気になる。けれど――。


 今無理に動いたところで何もできない。

 魔法の詠唱にはかなりの体力を使う。

 今の、私にとっての最優先事項は、その体力を回復すること。


 どの位の時間が経っただろう。

 恐らく、紬くんが立ち去って二、三分くらいかな。

 おもむろに立ち上がると、可憐かれんと、かわむ……川島くんと、そして、紬くんがキルパンサーを取り囲んでいる様子が視界に飛び込んでくる。


 苦戦しているのは遠目でも分かった。

 けれど……とりあえず、みんながまだ無事なことに安堵する。


 すぐに駆けつけたい衝動を必死に抑えて踵を返す。

 護衛ガード目隠しブラインドのサポートがない状態で魔法使いソーサレスがフロントラインに近づいても、みんなの足を引っ張るだけ。


 今、私にできることは――


 できるだけ遠くからキルパンサーの注意を惹くため、林の入り口へ向かう。

 脳震盪でも起こしていたのだろうか。まだ、足元がふらつく。

 ……けれど、今度は私が、紬くんたちを助ける番。


 戦闘実習のとき、紬くんを失いかけたときの喪失感がまざまざと蘇る。

 絶対に、あなた・・・まで失うわけにはいかない。


「紬ぃ――――っ!」


 あと少しで林の入り口……というところで、背後から紬くんの名を呼ぶ可憐の声が聞こえた。

 振り返ると、こちらとは反対側の林へ向かって駆けて行く紬くんの後ろ姿。

 さらに、それを追いかける青い影!

 みるみる紬くんに迫ったキルパンサーが、彼の背中に体当たりをするのが見えた。

 

 急げ……急げ……急げ!!


 必死で林の入り口まで駆けて行き、もう一度振り返ると、ゆっくりと立ち上がる紬くんの姿が見える。

 良かった……生きてる!

 でも、紬くんの目の前には、彼と対峙するようにキルパンサーが立ち塞がっている。もう、一刻の猶予もない。


 寸刻の詠唱でファイヤーボールを撃つ。

 これが、最短で放てる火属性魔法。


 時を移さず、魔物の背中で不規則にぜる火の粉。

 振り向いたキルパンサーの凶暴な視線が、真っ直ぐに私を睨みつけてくる。


 良かった。こちらに注意を惹きつけられたみたい。


 その後ろで驚いたように私を見つめる紬くんの姿が目に入る。

 視力はあまり良くないので、この距離から紬くんの顔なんて見えるはずがないのだけど……でも、今だけは、私を心配そうに見つめるあなたの顔がはっきりと見える。


 ゆっくりと、キルパンサーがこちらへ向かって歩いてくる。

 本当はこの後、林の中へ逃げ込んで時間を稼ぐつもりだったけど……まだ体当たりのダメージが回復していないのか、もう足が動かない。

 たった一度の魔法詠唱で、わずかに回復した体力をまた使い切っちゃったみたい。


 でも……あなたを助けることはできたのかな。

 今のうちに、早く逃げて、紬くん。


 ふと気がつけば、私は微笑んでいた。

 兄さんが魂睡状態に陥って一年以上、まったく笑うことができなかった私が今、やっと微笑むことができた。


 今度こそ私は、大切な人を助けることができたみたい。

 そう確信すると同時に、私の意識は暗い闇の底へ引きずり込まれていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る