03.第三層
しかし、これで完全に、第三層以降はリリスが使えなくなったってことか。
室内を見渡すと、今度はメアリーから足の治療を受けている
「紅来も、負傷したのか?」
「うん? ああ、ちょっとふくらはぎに噛み付かれてね。大丈夫、メアリーちゃんのおかげですぐに治りそうだし」
飄々とした紅来の表情とは裏腹に、大きな獣の歯型が刻まれた剥き出しのふくらはぎが痛々しい。
だが、それ以外にも、
一つ一つは大した傷ではないが、数はかなり……多い。
毒島を除けば、
「悪かったな……。俺もいるのに、女子に前線なんてさせて」
「何言ってんの。同じチームで男も女も関係ないよ。それに、逃亡時は最後尾が一番危険だって、常識でしょ」
紅来が青墨色の目を細めてニッと笑う。
昔読んだ戦記物の小説でそんなフレーズを読んだ記憶もあるが……同じ逃亡戦でも、ただの前線離脱と包囲網の突破とでは、リスクの分担も度合いも違うだろう。
もちろん、それを知った上で紅来も言葉に気を使っているんだろう。
意外と気遣い屋のところもあるんだな。
「怪我したのは……足だけか? 上半身は?」
「上は大丈夫……って、さては
「また?」
一瞬なんのことかと戸惑ったが、すぐにオアラ地下空洞でのことを思い出す。
蘇ってきたのは、肩の手当てのため、シャツを脱いで下着姿になった紅来の姿。
「人聞きの悪いこと言うな! あれはお前が勝手に……って言うか、触ってもいない――」
馬耳東風、といった様子で、俺の語尾に被せるように紅来が口を開く。
「残念でした~! 怪我は足だけなので、紬が期待してるような性的なサービス、今回はありませ~ん」
「今回も前回もねぇよ!」
さっきまでの気遣い女子はどこにいった!?
いつのまにかまた、いつもの引っ掻き回し紅来だ。
「そもそもああいうのは、二人っきりじゃいとね♡」
「なんだそのハートマーク?」
と、紅来に突っ込んでいるうちに、背後から漂ってきた異様なプレッシャーに気がついてブルッと肩をすくめる。
この感覚は……まさか……。
恐る恐る振り向くと、そこには暗黒色の何かをまとい、眉を吊り上げて立つ
心なしか、ツインテールまで逆立っているように見える。
「ゆっくり聞かせてもらおうじゃないの、紬。その、性的ナントカってやつを」
「そんなもんねぇからっ! って、なんで
「大丈夫。メアリーちゃんもいるし、二、三本頭に刺さったって一年後には笑い話になるわ」
「ならねぇよ!!」
ボウガンを向けられてるんですよ?
どう見てもじゃれ合いレベルじゃないでしょ!?
「それじゃあ、みんな準備はいい?
「大丈夫ですよ。バッチリです!」と、
「
階下では一瞬感情に流されかけた先生も、今は優先順位の再確認ができたようだ。
毒島は俺たちを逃がすために、第二層に留まった。
ティンダロスハウンドの注意を引きつけている毒島の意思に報いるためにも、俺たちは早く退室して、階段の接続先を別のキューブに変える必要がある。
「んじゃ、ちょっと待ってて」
たいした罠じゃないけど一応ね、と言いながら入り口付近で膝を着く紅来。
二、三分で
「階段部屋は……南西に三百メートル。近い位置に出られたみたいだね」
紅来の言葉に頷きながら、優奈先生が、らしくない鋭い視線で全員を一瞥する。
「あともう少しだから、みんな、しっかり……(グキッ!)」
入り口に向かって方向を変えた直後、優奈先生の足首が妙な方向に曲がる。
きゃぁ! と叫びながら転倒する優奈先生。
もう、伝統芸の域だな、あれは……。
第二層では奇跡的に転ばなかったが、やはり、一人だとまだまだ不安だ。
「あーもう、
足首、大丈夫ですか?と、駆け寄ったメアリーに助け起こされながら、優奈先生がしょんぼりと頷く。
メアリーも、先生の介添え役がだいぶ板についてきたようだ。
「よし……準備できたなら、さっさと突っ切ろうぜ、残り二百メートル!」
左手で
紅来も、乱れたクロスオーバーポニーをまとめ直して入り口の前へ。
「それじゃ、出るよ!」
紅来の瞳が再び碧色に輝く。
先頭は、これまでと同様紅来と勇哉だが、二列目には手を繋いだ優奈先生とメアリー。俺と華瑠亜が、最後尾をガードする隊列。
第二層と同じようになんとなく手も繋いでいるが、紅来の余計な発言のせいか、さらに華瑠亜の握力が強まった気がする。
これは、だいぶ怒ってるなぁ、こいつ……。
最後に外へ出たあと何気なくキューブの中を見返すと、第二層から上ってきた階段は既に消えていた。
どこかは分からないが、毒島が上り始めたときにはまた、第三層内の別のキューブに接続されるのだろう。
「紬くん、
「ああ。あるけど……ちょっと待ってろ」
ウエストポーチを開けると、リリスが詰め込んでいたレーションがぎっちり詰まっていたので、一本だけ取り出して手渡す。
「それくらい、言われる前に出してよね」
「言われなきゃ分かんねーよ!」
何様だよこいつ……。
「それにしても、あれよね。第三層……見た目は二層と変わらないけど……殺気の量はもの凄いわね」
受け取ったレーションを頬張りながら、モゴモゴと呟くリリス。
ん? 今、なんて言った?
思わず周囲をキョロキョロと見渡す。
……殺気?
第二層と同様、石柱で支えられた大部屋に乱立するキューブ群。それ以外に、特に変わった様子は見られない。
だが、言われて初めて、密度の高い禍々しい空気に気付いてハッとする。
思い返せば第三層に登ったときから、独特の気配に晒されていたような気がする。
突然の刺激は察知できても、最初から充満している悪臭には鈍感になるのと一緒だ。
隣の華瑠亜もそれに気がついたのか、「紅来……」と先頭に向かって声をかける。
その声に紅来も首だけは縦に振るが、しかし前を向いたまま歩みは止めない。
「マズッたね。張り付かれてる……」
ゾクリ……と、背筋に冷たい水滴が流れるような悪寒。
歩きながら振り返る。ゆっくりと……。
視線の先、五十メートル程後方で、キューブの隙間からユラリと姿を現す魔眼。
猟犬のシルエットが照明石に照らされると、茶や緑の肉塊を無造作に固めて作られたような……子供の粘土細工のような醜悪な姿があらわになる。
「ティ……ティンダロスハウンド?」
あえてあだ名を付けるなら〝ドーベルマンゾンビ〟とでも形容できそうなその風貌はまさに、第二層で見てきたティンダロスハウンドそのものだ。
だが、しかし――。
前へ向き直ると、俺以外にもう一人、後ろを振り向いていたメアリーと目が合う。
「で……でも、パパ……あいつら、やけに大きいですよ!?」
「え……遠近法かな?」
「パパはアホですか? 遠近法で、遠くのものを大きく見せてどうするんですか」
だよな。……そう、大きさが、下階にいた不死犬どもとは全然違う。
背後に現れた連中は、
「ティンダロスハウンド〝改〟……★4のアンデッドだね」
先頭の紅来が、相変わらず前を向いたまま呟く。
その言葉に、チーム全員の心胆が一気に冷え込むのが分かった。
まるで、目を合わせればすぐにでも襲われるんじゃないかと恐れているかのように、前方を向いたまま歩き続ける他のメンバーたち。
前から思ってたんだが……★3と★4の差が大きすぎないか?
「ティンダロスハウンド改……って、なんだよその、付ける名前に困ったようなネーミングは……」
俺の質問に、今度は隣の華瑠亜が答える。
「多くのTハウンドが寄り集まって進化した、ってところから、その名前に……」
「どこに〝改〟要素があるの?」
「う~ん……。なったとか、ならなかったとか……」
あやふやになった!
「でも……おかしいわ……」
華瑠亜の説明を引き継いだのは、すぐ前を歩く優奈先生。
「集合体型の進化は通称〝魔改造〟とも呼ばれていて、悪魔系の精霊を媒介にしないと成し得ない進化形態なんだけど……」
この世界の悪魔って、精霊だったのか!
……と、なんとなく驚いてはみたものの、そもそも精霊ってなんだろう?
「悪魔系の精霊なんて滅多に人間界に出てくるものじゃないし、だからこそ、魔改造の目撃例だってかなり希少なのに……」
「メアリーの計算では、五頭くらいはいましたよ!」
うん……計算するまでもなく、普通に数えて五頭いた。
表情を失った先生が首を振りながら説明を続ける。
「あり得ないわ。一頭出現することすら非常に稀なのに、そんなに同時に出現するなんて……」
「と、とりあえず近くのキューブに、避難しとく?」と、華瑠亜。
確かに、あんな二メートル級の化け物を五頭も同時に相手して無事で済むとは思えない。俺も、ここは一旦隠れてやり過ごすのがいいと思ったのだが……。
「いえ、篭るのはまずいわ。すぐにいなくなる保証はないし、水を失った今、私たちも長くは持たない」
確かに……毒島の話によれば、第二層のケルベロスは一晩中キューブの前で中から人が出てくるのを待っていたことになる。
優奈先生の言葉に、先頭の二人――紅来と勇哉も頷く。
わずかに首を回して後ろを流し見たのは、勇哉だ。
「とにかく……残り百五十メートルでゴールだ。突っ走ろうぜ」
「このまま歩いていれば、襲ってこない……ってことは?」
俺の希望的観測にも、紅来が素早く首を振る。
「魔物はあいつらだけとは限らないでしょ? ★3に比べればだいぶ賢いし、もたもたしてたら他の連中と連携されて徐々に包囲網を形成される可能性もあるよ」
そうなのか……。
「私がトラップサーチしながら先頭を走るから、みんな付いて来て」
紅来の言葉に答える代わりに、全員の喉がゴクリと鳴るのが分かった。
三、二、一……
紅来の、囁くような秒読みに合わせて、徐々に足元に力が篭る。
「走って!!」
叫ぶと同時に、駆け出す紅来。
すぐに後ろから勇哉、さらに手を繋いだ優奈先生とメアリーが続く。
最後尾から俺と華瑠亜が――さすがに今は、繋いでいた手を離して皆のあとを追う。
俺たちが駆け出したのを見て、予想通り〝Tハウンド改〟も追走を開始する。
しかし、第二層までと比べて重い荷物がなくなった分、俺の身体もとても軽い。
これならかなりのスピードで走れそうだ!
――と、思ったのだが。
相変わらず足元がおぼつかない優奈先生と、トタトタと
いきおい、それに合わせて俺と華瑠亜もペースを落とす。
急速に近づくTハウンド改の
五十メートルも進まぬうちにTハウンド改――死猟犬たちの
階段部屋まであとどれくらいだ? 百メートル!?
とてもじゃないが、このペースじゃ逃げ切れない!
そう悟ると同時に、思わずペースを落として隊列から離脱していた。
「おれつえ――っ」
両手の中で、二本の杖を縁取るように煌く青白い光。
と同時に、踏み出していた足を踏ん張って体を百八十度回転させる。
振り向きざま、六尺棍を繋げて構えたその先には――。
頭を低く落として猛追してくる五頭の死猟犬。
まだ二十メートル程度は離れていると思っていたのだが、すでにその半分以下の距離にまで肉薄されていた。
「ちょ、ちょっと、紬くん? そっちじゃない!! どぅーどぅ――っ!!」
乗馬かっ!
リリスが俺の髪の毛を引っ張り、慌てて向きを変えようとする。
「おまえはどかに避難してろ!」
「お願いだから、死なないでよ!」
心配そうに振り向きながらも、急いで俺の肩から飛び立つリリス。
一人になり、急接近する死猟犬の腐乱体を睨みつけながら腰を落とす。
俺はなぜまた、一人で自分の身を危険に晒しているのだろう?
寸刻……いや、ほんの一瞬?
緩慢になった時間の流れの中で、相対的に加速した思考が俺の感情を内観し始める。
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