07.ダイアーウルフの歯型
俺の体にくっきりと残っているのは、一目瞭然。
実習で
「そっか……だからTシャツを……」
華瑠亜も、俺がTシャツを脱がなかった理由にようやく思い当たったようだ。
見られてしまったからには仕方ない。
今更だが、こうなってみると、これだけの傷を隠し通そうとしていたこと自体にそもそも無理があったようにも思える。
「怪我は治ったって聞いてたし、傷跡も消えたものだと……」
「あの時は内臓の修復に手一杯で、皮膚の傷まで手が回らなかったみたいで」
「そう……なんだ」
立ち込める湯気の向こう側でよくは見えなかったが、華瑠亜の表情が沈んでいるであろうことは、声のトーンが物語っていた。
「やっぱり、その……見られたくない?」
「いや、べつに、この傷のことはもう何とも思ってないよ」
半分本当だ。
全く気にならない……と言えば嘘になるが、こういう歴戦の勇者みたいな傷跡も、アリと言えばアリかな? くらいの気持ちになったのも本当だ。
男子なら誰でも、こんな傷を持ったダークヒーローに憧れた経験、一度くらいはあるだろう。
「Tシャツを着てたのは、これを見たらいくら
「何よ、さすがにって……。普通に気にするわよ!」
よし。だんだんと普段の華瑠亜の調子に戻ってきた。
「確かにお前を助けた時の怪我だけど、元はと言えばあれだって、俺が全く戦力になれてなかったのが原因なんだしさ」
「そ、そうね……。それが分かってるなら、いいんだけど!」
「うん。だからこそ、この傷を負ったのが華瑠亜じゃなくてマジで良かったと思ってるし……まあ、自業自得ってやつだよ」
ほんと、傷跡のことくらいさっさと伝えておけば良かったな。
昔から空気を読む……と言えば聞こえはいいが、俺自身のことより、周囲の調和を乱さないことに神経を使い過ぎるところがあるのは自覚していた。
長男長女に多い性格らしいし、今さら仕方がないとは思うが、問題と向き合うことを避けてかえって話がこじれることも何度か経験した。
もちろん相手の性格にもよるが、少なくとも華瑠亜に対しては、下手に気を使うよりもオープンに接した方が良い関係を築けそうだ。
「……がと」
ん?
何か華瑠亜が呟いたようだが、よく聞こえなかった。
キョトンとしてる俺を見て、もう一度華瑠亜が口を開く。
「ありがと! って言ったの!」
少し頬を赤くして……たかどうかはよく見えなかったが、照れ臭そうにプイっと横を向きながら話す華瑠亜が、何だか可愛らしく思える。
これがもしかして、ツンデレのデレ!?
いいじゃんこれ!
……と、ツンデレの魅力に目覚めかけたところで、華瑠亜の手から滑り落ちた手桶が、派手な音を立てて床にお湯をぶち撒けた。
「あっ……」
手桶から撒かれたお湯が俺の足元に流れてくる。
「冷たっ!」
水じゃん、これっ!
「もしかして
「そ、そ、そんな子供っぽいこと、す、するわけないじゃん!」
思いっきりどもっている。
「それ以外に、おまえが水を持って後ろに立ってた理由が思いつかないんだけど」
「夏なんだし、いいじゃない。……ほんの冗談よ。じょ・お・だ・ん!」
やっぱりかけるつもりだったんだ、こいつ!
そう言えば
世界線が変わってもやることが変わんないな、おい!
「この傷のこと、一生の貸しにするぞ」
「あ! 男が一度口にしたことを、もう
そこまで言って、不意に華瑠亜の言葉が止まる。
どうした?
「い、一生……?」
「へ?」
「あんた今、一生の貸し、って……」
「あ……いや、よくある言い回しだろ!? 別に深い意味はないよ」
俺達のやりとりを見ていたリリスが湯船から声を掛ける。
「大丈夫だよ華瑠亜ちゃん。紬くん、その傷、結構気に入ってるみたいだし」
「別に、気に入ってるとまでは言ってない」
「そう? 私に胸の傷を見せながら『おまえはもう、死んでいる』とか、嬉しそうにモノマネしてたじゃん」
「死んでる? 何のマネよそれ?」
華瑠亜が怪訝そうに訊ねる。
確かに、“北東の拳” を知らない人にとってはやや物騒なセリフだ。
「ケン……ジロウ」
心地の良いアニメ声で初美が呟くのが聞こえた。
そう、一子相伝の暗殺拳を伝承した男が悪を倒す世紀末アニメ、“北東の拳”。
その主人公である “北東健次郎” の有名なキメゼリフだ。
さすが初美。結構昔のアニメなのによく知ってるな。
「……って、あれ? 初美は?」
先程まで湯船に浸かっていたはずの初美の姿が見えない。
俺の言葉で、華瑠亜もキョロキョロと辺りを見渡す。
突如、リリスの緊迫した声が浴室に木霊した。
「初美ちゃんがっ! 沈んでるよっ!」
はあ~ぁ?
急いで湯船へ駆け寄ると、初美の黒髪が湯面に広がり、沈んだ初美の鼻からはプクプクと小さな泡が出ているのが見えた。
のぼせて失神でもしたのか!?
「華瑠亜! 優奈先生呼んできて!」
「う、うん、解った!」
慌てて華瑠亜が浴室から駆け出る。
先生~! と叫びながら、華瑠亜の足音が廊下を遠ざかっていくのが聞こえた。
“ケンジロウ” と呟いてからまだほとんど時間が経ってないし、お湯を飲んだ心配はないだろう。
湯船に飛び込むと、急いで初美の両脇を抱えて引き上げる。
その瞬間、初美の水着が
―――いや、正確に言えば、少年漫画に出てくる女湯シーンのように、初美の長い黒髪が上手い具合に大事な部分を隠してはいたのだが……。
大事な部分が見えていようがいまいが、この不測の事態が俺に与えた衝撃は計り知れない。
一瞬、頭が真っ白になるも、反射的に肌蹴た水着だけは元に戻す。
なんだこりゃああ~~!
初美の水着は脇の部分が縦にカットされており、両サイドそれぞれ二箇所で結んでフロントとバックを繋ぎ止めるデザインだったのだが、左側の結び目が二つとも解けて、完全に前後に分かれた状態になっていた。
よく見ると二箇所のうち一箇所は、結ぶための紐自体が根元から切れている。
湯船の中を覗くと、二重構造の浴槽の、内板の
恐らく、引っかかりを外そうとしているうちに紐が切れてしまい、もう一箇所の結び目まで解けてしまった……と言ったところだろう。
さっき、浴槽でモゾモゾと手を動かしていたのはこのせいだったのか?
ならせめて、俺達が出てる間に一つは結んどけ! ぶきっちょが!
端から見れば深夜アニメのようなラッキースケベイベントだが、直ぐに優奈先生を連れて華瑠亜も戻ってくるはずだ。
華瑠亜に今の
「なに、おっぱいなんて見てるのよ、紬くん!?」
肌蹴た水着を慌てて戻した俺を見てリリスが叫ぶ。
「見てねぇし! 知らねぇし! 引き上げたら水着の紐が取れてたんだよ!」
とりあえず、水着がまた捲れてしまわないように注意しながら脱衣所まで初美を運び、バスタオルで体を拭いて床の上に寝かせる。
更に、小さめのタオルを水で絞って額の上に乗せた。
まずは応急処置が最優先だ。
よく見れば、初美の黒髪が、咄嗟に戻した水着の下に潜り込んでいる。
……甚だ不自然だ。
急いで髪を引き抜き、水着の上に出した。
応急処置を終えてようやく、残った紐だけでも結び直しておこう……と手を伸ばしたその時―――
バタバタと足音がして、華瑠亜に連れられた優奈先生と、更に
慌てて手を引っ込める。
もう、気付かなかったことにしてシラをきるしかない。
「初美! 大丈夫!?」
「黒崎さん! どうしたの!?」
二人が心配そうに話しかけてくるが、まだ初美の意識は戻ってない。
「のぼせて失神したみたいです。今、体を拭いて頭を冷やしてるところです」
「ど、ど、どうしよう、綾瀬君!?」
生徒に指示を仰ぐとか、どうなってんだよこの先生!
……と普通なら突っ込んでるところだが、教師らしさを期待して先生を呼んだわけじゃない。
トゥクヴァルスで一緒に過した経験から、これくらいのことは想定済みだ。
「とりあえず、先生は
「う、うん、解った」
先生が初美の上でステッキを構え、
「華瑠亜と麗は、初美の水着を脱がしてもう一回拭いてやってくれ」
二人が頷く。
のぼせた時は、頭や足は冷やしても、湯冷めをしないように体の保温は必要だ。
「拭き終わったら、乾いたタオルをかけておいて。体を冷やさないように。俺のタオルも置いておくから、必要だったら使って」
そう言い残して、水着の件がバレないうちに急いで脱衣所を後にする。
それに、後は女子だけの方が何かと介抱もし易いだろう。
「ちょっとぉ……あの水着、大丈夫なの?」
肩に乗せたリリスが心配そうに訊ねる。
「大丈夫も何も……俺は何もやましいことはしてないからな! 何か聞かれたら正直に話すだけだ!」
キッチンでは、
表からは、定期的にパカン、パカンと乾いた音が聞こえてくる。
勇哉と歩牟は薪割りでもしているようだ。
中に入ると、可憐が気が付いて声をかけてきた。
「初美は、大丈夫か?」
「ああ。のぼせて失神しただけだ。直ぐに意識も戻ると思う」
「って言うか、
紅来がダイアーウルフの歯形を見て絶句する。
そうだ。忘れていたけど俺、Tシャツも脱いだから海パン一枚だったんだ。
夏とは言え、五分以上も濡れたままでいてはさすがに体温も奪われる。
体が、思い出したようにブルッと震えた。
「少し
「解った」
可憐が小鍋にミルクを入れて炭火で温め始める。
立夏が、窓際に掛けておいたタオルを取って貸してくれた。
「これ、私がさっき使ったやつだけど、よかったら」
「あ、ありがとう」
とりあえずそれで、髪の毛と顔を拭きながらお礼を言う。
肩の上のリリスも、俺と一緒に髪の毛を拭く。
この、ほんのりと鼻腔をくすぐるいい香りは、立夏の匂いなのだろうか?
その様子を、紅来がニヤニヤしながら見ている。
もう、俺と立夏のやりとりは何でもネタにされそうだな、こいつに。
「それにしても、のぼせた時の対処とか、よく知ってるね?」
紅来が意外そうに訊ねる。
風呂上りで、いつも纏めてる髪を解いているせいか、少し大人っぽい。
「ああ、まあ、ちょっとね……」
インターネットで調べたりしてなんとか対処した経験があったのだが、今日はその記憶が役に立った。
まあ、それはさておき、これ以上この格好でいたら俺も風邪をひきそうだ。
「部屋で着替えてくるわ」
廊下に出ると、向こうから華瑠亜が歩いてくるのが見えた。
既に水着から、寝巻き代わりのTシャツとショートパンツに着替えている。
「あ、紬……これ、着替え」
脱衣所に置きっ放しにしていた着替えを持ってきてくれたらしい。
「おう、ありがと。……初美は、どう?」
「うん。さっき、意識が戻ったとこ」
「そっか。ミルク温めてもらってるから、落ち着いたら飲ませてやって。のぼせたのなら脱水症状になってるだろうから」
そう言って階段を上ろうとすると、再び「紬っ!」と呼び止められた。
「ん?」
「さっきは……
そう言いながら、照れ臭そうに視線を逸らす。
単語的には憎まれ口だが、文章的には一応褒めてくれてるらしい。
「うちの親父も風呂で寝たことあってさ。その時の経験が生きたよ」
「そっか……」
そんな事を言うためにわざわざ呼び止めたのか?
「……じゃあ、俺、ちょっと着替えてくるから」
そう言って二階を指差す。
「うん……、ああ! その……えっと……」
「何だよ!」
華瑠亜にしては珍しく歯切れが悪い。
「紬のこと……ちょっと、見直したかも……」
何とも言えない奇妙な表情で、絞り出すように華瑠亜が言った。
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