02.グレイ

「どちらさ……ま、って、なぁんだ、グレイ兄さん? ちょっと待ってて」


 直ぐに覗き窓が閉じられ、チェーンキーを外す音。

 続いて玄関ドアが開き、中から小柄な女性が顔を覗かせる。


「さあ、入って。隆弘さんも帰ってないし、遠慮しなくていいわよ」


 黒髪のショートボブに黒く大きな瞳。

 まだ二十歳前の見た目とは裏腹に、甘くて柔らかい大人びた目元。

 筋の通った隆鼻りゅうびと、その下の薄桃色の唇を見て、須藤は自然と昼間かどわかした少女のことを思いだす。


(雫……と言ってたか? 柿崎じゃないが、確かに雰囲気は似ているな)


「グレイ……兄さん? 私の顔に、何か付いてる?」

「何でもない。それより、本名で呼ぶなと言っただろ」


 靴を脱ぎ、外套を脱いで壁に掛けながら須藤――グレイが静かにたしなめる。


「だって……今は何だっけ? 佐藤さん? 違う……須藤さんだっけ?」

「須藤は今日で終りだ。今後は加藤でいく」

「ほらっ! コロコロ変わるんだから、覚え切れないわよ。しかも、そんなありふれた苗字ばっかり!」


 グレイから帽子と外套コートを受け取り、先に立って歩きながら女性が頬を膨らませる。


「おまえも名前を変えたらどうだ? 人間共が持ってるダークエルフの残存者リストには、おまえの名前だって載ってるんだぞ」

「大丈夫よ、苗字は隆弘さんのだし……サラサ・・・なら、人間界でもそんなに違和感ないでしょう? 真樹更紗まきさらさ。私はそれでいいわ」


 下手に偽名なんて使うとうっかり間違えそうだし、と言って更紗がクスっと笑う。

 リビングに入り、軽く首を振って室内を見渡すグレイ。


「で……その旦那は、いつお帰りなんだ?」

「え~っと……う~ん、最近は朝方が多いかな? 仕事、忙しいみたい……」


 仕事? と、グレイが眉をひそめる。

 真樹隆弘……更紗と所帯を持った人間の名だ。

 官憲に発見されれば夫婦関係は解消させられ、それどころか投獄の恐れもある。

 それを承知で自分との生活を選んだ気丈夫な人だと、この家に住み始めた当初は更紗もそう説明していた。


 しかし、グレイは隆弘をあまり信用してはいなかった。

 自分は裏社会で生きる身のため落ち着いて隆弘と話したことはなかったが、軽く挨拶を交わす程度の会話は何度かしたことがあった。


 悪い人間でないのはグレイにも解った。

 だが、若さゆえの浅慮せんりょが、仕草や言葉の端々で目に付く男だった。

 もちろん、寿命が三〇〇年とも四〇〇年とも言われているダークエルフから見ればほとんどの人間が幼く見える。

 精神年齢が三分の一のノームと違い、ダークエルフの精神は年月相応に成熟する。


 だが、それを差し引いても更紗と一緒になった頃の隆弘は、グレイにはひどく軽躁けいそうな性格に見えた。

 有体ありていに言えば〝チャラい〟印象だった。

 更紗のことを愛してくれている……その一点においてのみ真剣な眼差しで語る隆弘と、同じく隆弘を愛していると言う更紗に押し切られて内縁関係を許した。


 しかし――


「仕事? 旦那あいつは……船電車ウィレイアの操縦士だろう?」

「うん、そうなんだけど……なんか、整備の仕事とかも最近は多いみたい」

「操縦士がか?」


 更紗は黙って頷きながら、お茶を持ってくると言ってリビングを出る。

 その後姿を眺めながら、グレイはテーブルの上に荷物を置いて椅子に腰掛けた。


(女か……)


 表情から察するに、更紗も薄々は気づいているようだった。

 隆弘が外に別の女を囲っていることを……。

 それでも、努めて平静を装って振舞っているのはまだこの生活を手放したくないという意思の現れだろうか……と、グレイは思案する。


 なぜ、そうまでしてあんな男を……と、心の中で首を捻るが、とは言えグレイから離縁を勧めるようなことをしようとも思わない。

 下手な助言をして意固地になられるよりも、一年でも二年でも、愛想が尽きるまで付き合ってやればいいというくらいの気持ちだ。

 ダークエルフにはそれくらいの時間的な余裕があるし、同族がほぼ絶滅状態である今、独り身になったところで次の相手がいるわけでもない。

 妊娠をしたりすればかなり厄介なことになるが、ダークエルフは同族同士でも非常に受胎率が低く、人間との間に子供ができる確率はほぼゼロに等しい。


 台所から戻った更紗が、麦茶の入った木製のコップを二つ並べながら、自らもグレイと向かい合うように空いている椅子に座る。


「大丈夫なのか?」

「え? 何が!?」


 グレイの問い掛けに明るく聞き返す更紗。

 台所で動揺した気持ちを落ち着けてきたのだろう。

 先程まで僅かに見られた暗い影も、今はもうすっかり消し去っている。


「私なんかより、グレイ兄さんの方こそ大丈夫? なんか、顔色悪いわよ」

「今日は、少し魔力を使い過ぎてな。一晩眠れば回復する」


 袋から錠剤の入ったガラス瓶を四つ取り出し、テーブルに並べながら言葉を続けるグレイ。


「今回の分だ」

「こんなに!? これだけあれば半年は持つけど……お金、大丈夫なの? 最近、マナ錠剤も高くなってるでしょう?」

「ああ。久しぶりに実入りの良い仕事だったからな」

「また……危険なこと、してるの?」

「大したことはない」

「ごめんなさい。私が、人間の男性と一緒になったばっかりに……」

「大したことないと言ってるだろ。気にするな」


 グレイを心配そうに見つめる更紗も、しかし、それ以上の質問は重ねない。

 訊いても何も答えてくれないであろうことは更紗にも解っている。


「そう言えば……そろそろバクバリィの別荘にも掃除に行かなきゃね」

「いや、もういい。あそこの別荘は手放した。因みにカゼイの別荘にも近づくな」


 やはり、何かあったようだと更紗は直感する。

 でなければ〝近づくな〟などという言い回しをするはずがない。

 ただ、こうして無事な姿をここへ見せに来たということは、既に問題は解決はしたのだろう。

 もうこの話題を続けても意味は無さそうだと、更紗も軽く首を振った。


「そう言えばグレイ兄さん、今日ギルドホールに来てたでしょう? 何で顔出してくれなかったのよ?」

「柿崎の再登録に行っただけだ。あいつも一緒で良かったのか?」


 柿崎の下卑げびた薄笑いを思い出して、軽く身震いする更紗。

 グレイの手前、決して自分に手出しをしてくることはなかったが、時折よこしまな眼差しを向けられていることは更紗も気が付いていた。

 ダークエルフとは言え、グレイのようにそれなりの鍛錬を積んだ者以外は戦闘力も人間とさして変わらない。


「あの人……仕事で大怪我をしたって聞いてたけど、また復帰したのね?」

「ああ……ただ、今日で完全に死んだけどな」

「え!? し、死んだ? ……って、亡くなった、ってこと?」

「ああ」


 〝死んだ〟と言うのがなにかの暗喩かとも思ったが、どうやら違うらしい。

 数回顔を合わせただけの、しかも印象の良くなかった人間が死んだと聞いても、更紗にもなんの感傷も湧いてこない。

 それよりも、やはりグレイは何か危険な仕事をしてきたのだと不安が過る。

 その話題を蒸し返しても、答えが同じであることも解ってはいるが……。


「そう言えば今日、ギルドホールでね、面白い子達が医務室に来たのよ」

「ふぅん」

「亜人の女の子と、そのパパっていう若い男の子と、その愛人さん。で、どうやらその亜人の女の子とパパって呼ばれてた人、今日結婚したみたいなの!」

「なんだそれ?」


 グレイも、亜人の女の子と聞いてすぐにピンと来る。

 バクバリィのアジトまで妹を助けに来ていたあの少年達だろう。

 柿崎に絡まれた後に医務室を訪れたのは、考えてみれば当然の流れではあろうが、しかし、そんな複雑な人間関係だったとはさすがのグレイも見抜けなかった。


「そもそも、亜人と人間が結婚なんてできるようになったのか?」

「いえ、そんな法改正はされていないはずだけど……」


 それにしても、なかなか面白い連中だったな……とグレイが思い出す。

 ほぼ、あの変な使い魔のおかげとは言え、柿崎を倒すほどの手練れがあんな若い連中の中にもいるとは思っていなかった。

 人間も、あまり甘く見るのは危険かもしれないと気を引き締め直す。


「さてと……」


 空になったコップをテーブルに戻してグレイが立ち上がる。


「そろそろ、帰る」

「帰る、って……今から? 泊まっていかないの!?」

「朝には旦那が帰ってくるんだろう? 顔は合わせたくない」

「そう? たまには挨拶くらいしてもいいかな、って思ったんだけど……」


 玄関へ向かうグレイを追いかけながら、少し寂しそうに呟く更紗。


「生憎、俺はあいつが嫌いなんだよ」

「それは……知ってるけど……」

「落ち着き先が決まったらまた、連絡する。じゃあな」

「うん……。あ! 薬、ありがとう!!」


 振り返ることなく、黙って手を挙げながら歩き去るグレイ。

 その後ろ姿が夜陰に紛れて見えなくなるまで、更紗は玄関からしばらく見送っていた。


               ◇


「まったく何ですか!? 施療院に来て頭を木桶に当てるとか、ふざけてます?」

「木桶が頭に当たったんだよ!」


 メアリーが治療小杖キュアステッキで俺の頭をポンポン叩きながら短い呪文を唱える。


「こらこら。叩きながら治療したことなんてないだろ? 何で今だけ叩くのかな?」

「メアリーの呆れた気持ちを表現してるんですよ。大丈夫、タンコブくらい、どうやったって治りますから」

「そもそもさ、こんな棚の上に木桶を置いておく方がどうかしてるだろ?」


 マジで、悪意しか感じない。


「そうは言っても棚の幅だってそれなりにありますし……よほど激しくぶつからないかぎり、あんなもの落ちてきませんよ」


 棚の上に戻された木桶を見上げるメアリー。

 入りきらずに飛び出ているわけでもなく、棚の中にすっぽりと納まっている。

 棚ごと、そうとう激しく揺らしでもしない限り落ちてきそうもない。


「一体、しぃちゃんは何を見たんですか?」

「え、ええ? 私……な、何か見たなんて、い、言ったっけ?」


 急に話を振られてしどろもどろになる雫。


「変な声だして、慌ててドアを閉めてたじゃないですか。あれで、何も見てないって言う方が無理がありますよ」

「え~っと、それは……そう、あれよ。ドアを開けたらカナブンが飛んできて……」

「かなぶん?」

「う、うん。私、あまり虫が好きじゃないから……」

「どこにいるんですか、そのカナブンは……」


 キョロキョロと辺りを見渡すメアリーに続き、俺の肩の上でリリスも口を開く。


「でも、しずくちゃんさぁ、『ごめん、お邪魔しましたぁー』って言ってたよね? カナブンにそんなこと言う?」

「……え?」


 さすがの雫も言葉に詰まる。

 ほんとリリスこいつは、変なことだけ覚えてると言うか……。


「はい、終わりましたよ」


 そう言ってメアリーが、キュアステッキで俺の頭を軽くパチンと叩く。

 頭の痛みはなくなったけど……その最後のパチン、必要!?

 気のせいかも知れないけど、なんだか扱いが雑になっている気がする。


「アーン……」


 治療が終わったのを見て、再び、オートミールを掬ったスプーンを俺の目の前へ持ってくる立夏。

 何が何でも、このオートミールは全部食べさせるぞ! という使命感すら感じる。


 そんな俺達の様子を、雫、メアリー、リリスの三人が薄目で眺めているのは気づいていたが……もういいや。

 見れば残りはあと二、三口だし、大人しくさっさと食っちゃおう。


雪平立夏ゆきひらさんって……お兄ちゃんとお付き合いされてるんですか?」


 突然、雫が立ち入った質問を投げかけてくる。

 さっきの場面だけを切り取ればキス直前のカップルだし、誤解は無理もない。


「違うって! 寅さんじゃあるまいし、おまえまで……」


 代わりに俺が答えるが、いつものように立夏は黙ったままなので嫌疑が晴れない。


「でも……お兄ちゃんがトゥクヴァルスで泊まった日、電話で確認してきたのも雪平さんの声でしたよね?」

「……アーン」


 雫の質問には答えず、ひたすら自分の使命を果たそうとする立夏。

 すっかり冷めたオートミールを飲み込みながら俺も説明を続ける。


「だからぁ、俺と立夏はクラスメイトとしての付き合いだけで、それ以上のことは何もないんだって! なあ、立夏?」

「……ないと言えば、ない」


 だからっ! 言い方っ!


「雪平さんだったら……私は別に、何かあるならそれでもいいかな、って思うけど……。しっかりされてるし、ちょっとアレなお兄ちゃんでも安心だし」


 だから、アレって何?


「メアリーも、立夏りっちゃんなら、二人目のママとして認めてもいいですよ。気が合いそうですし」


 二人目どころか可憐ひとりめすらママじゃないんだけど?

 と言うか、立夏はいつの間にこんな大人気になってるんだ?

 なんて言うか、気が付いたら外堀を埋められていた感じだ。


 最後にリリスも口を開く。


「今回、危機を救ってくれた立役者だからね~。ライバルとして不足はないわ!」

「ライバル? 何の?」

「何の、って……私が人間界にいる目的よ。忘れたの!?」


 リリスが俺の右耳に両手を当て、耳打ちでヒソヒソと囁く。


(紬くんを骨抜きにするためじゃない!)


 そのミッション、まだ継続中だったのかよ!

 とっくに全国食べ歩きに変更したのかと思ってたわ。


「アーン……」


 周りの雑音に動じることもなく……いや、珍しく少し頬が赤らんでいる?

 最後のオートミールを掬って、立夏がスプーンを差し出してくる。

 口を開けてそれを迎え入れようとしたその時――


つむぎ、この部屋!? あんた、大丈夫なの!?」 


 入り口のドアが開き、病室内に聞き覚えのある声が響く。

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