14-1.消え去りなさい <その①>

「消え去りなさい――」


 弱弱しい……しかし、冷徹な囁きがタナトスの背に投じられた。

 この声――。


「ひ、ひじりさん!?」


 貝塚かいづかと、そして寿々音すずねさんも、異口同音にその名を叫ぶ。

 よく見れば、先ほどまで意識を失ってぐったりと横たわっていたはずの聖さんが、わずかに後頭部を持ち上げ、毒島ぶすじま相対あいたいする伏姫タナトスの背を見つめている。


 力強さの欠片もないトロンとした視線……のように見えたが、その虚ろな赤眼の奥に、一瞬ギラギラとした炯眼けいがんを感じたのは俺だけだろうか?

 いつの間にか聖さんの右手に握られた魔導杖の先端に、白の粒子が集束してゆく。


 いや、まてまて。聖さんの杖は確か、さっきタナトスにへし折られたはずじゃ?

 そう思って周囲を見回すとすぐに、真っ二つにへし折られ、床に放置されたままの聖さんの杖が目に止まる。


 じゃ……じゃあ、聖さんが今掴んでいるあの杖は――

 そうか! あれは寿々音すずねさんの……!?


 聖さんの、感情のない冷ややかな声に触れ、ゆっくりと振り返る伏姫タナトス

 その視線の先には、全裸に寿々音さんのコートをかけられただけの聖さんの姿。

 しかし、能面のような表情で宙を見つめる聖さんの視線に射られ、あきらかに狼狽の色を浮かべたのはタナトスの方だ。


『おまえ……なぜ……』


 顔に続き、その身体も聖さんへ向け直す伏姫タナトス

 と同時に、その顎門あぎとから放たれる高速のダークブレス!


 しかし、聖さんたちに届く手前で闇の瘴気は堰きとめられ、消散する。

 既視感のある光景――。

 メアリーの張った聖域結界サンクチュアリがまだ効果を持続させているんだ!


「お……優奈先生おっぱい!!」


 ふらりと倒れそうになった優奈ゆうな先生の上半身を、メアリーが慌てて抱きかかえる。


「だ、大丈夫よ。久しぶりに、連続の深長詠唱ディープアリアで貧血になっただけ……」

「巨乳でも貧血になるんですか?」

「こ……乳房ここに血を貯めてるわけじゃないのよ、メアリーちゃん?」


 と、オフショルダーのブラウスから覗く白い胸元に手を当てて答える優奈先生。

 その横で、さらに輝きを増す魔導杖が聖さんの銀髪をブリリアントにめる。


「タナトス……わたくしは今まで、人々を救済できているのだから、自分は幸せな人間であるはずなのだと、そう信じてきました」

『その通りだ、ひじりよ……。幸福な者が不幸な者に手を差し伸べるのは当然のこと。ならば逆も然り。手を差し伸べられる者こそが幸福――』

「いいえ違います」


 タナトスの言葉を途中で遮り、自らに言い聞かせるようにゆっくりと首を振る聖さん。


「わたくしは幼き頃から不貞の子とさげすまれ、殺人者である父の影に怯え、正気を失いかけた母を支えながら貧しい暮らしを送ってきました」

『そうだ。だからこそ私は、おまえの心の闇に根を下ろしていくことができたのだ』

「ええ……おかげでわたくしも、人々を救済できるほどの力を得、貧しい境遇から脱することができました」


 しかし……と、聖さんが唇を噛みしめる。


「自ら呼び寄せた災禍を自ら沈める偽りの救済に、真の幸福はありませんでした」

『真の幸福だと? 幸福の真贋になんの意味がある? どんな手段であれ、幸福を享受する立場の人間でありたい……おまえの心は確かにそう言っていたはずだろう?』


 タナトスの質問には直接答えず、噛んで含めるように、聖さんが言葉を紡ぐ。


「救済は幸人さちびとの義務かもしれません。しかし、それは必ずしも幸人の証ではありません。このように、さち薄そうな少年ですら、私のために身を挺してくれました」


 そう言いながら、左手で勇哉ゆうやを指差す。


「い、いや、別に俺、幸薄いわけでは……」という勇哉の言葉は耳に入らない様子で、さらに聖さんが言葉を繋ぐ。

「貝塚さん、寿々音さん、先生や生徒たち、そしてそこの自警団の剣士……毒島さん。みな、必死でわたくしを守るために身を挺してくれました」

『勘違いをするな聖よ……。こやつらはただ、自分自身が助かるために私に抗っているに過ぎぬ。決しておまえを救うために戦っていたわけではない』

「いいえ……」


 朦朧としていた状態からようやく表情を戻した聖さんが、タナトスの讒言ざんげんを拒絶するかのように閉目する。

 反駁はんばくと同時に、タナトスの呪縛から逃れようとする決意をも滲ませながら。


「意識を手放しながらも、私は曇りのなくなった心の深い部分でずっと、彼らの気持ちを感じていました。そして、初めて知ることができたのです……」


 一呼吸置いたあと、伏姫タナトスを見据えながら力強く呟く。


「本当に……心が温かくなるという感情を」


 聖さんの言葉を聞きながら、だんだんと胸が苦しくなる。

 違う……。

 俺はさっき、一瞬とはいえ、聖さんや寿々音さんを諦めてでも優奈先生やメアリーにだけは助かって欲しいと願った。


 しかし、直後に勇哉は、迷わず全員を助けるための行動に出た。

 勇哉には皆を助けられる手段があり、俺にはなかった。ただそれだけだ。


 カルネアデスの板――極限状態で命の取捨選択をしたとしても、それは責められることではないかもしれない。

 しかし、元の世界では雑談の中の例え話にしか出てこないような究極の選択も、この世界では常日頃から迫られる覚悟をしていなければならないだろう。


 ブルーに助けたい人を選べと促されたとき、そんなことはできないと俺は首を振った。結果的に今回は、あそこで動かなかったことが正解だった。

 でも、それはあくまで結果論……。


 これからも同じような選択を迫られた時、俺のミスや、判断の遅れが原因で助けられるはずの命まで失うことになるかもしれない。

 そんな選択をしなくてもいいくらい、圧倒的な強さを身につけられればそれが一番の理想だろう。


 しかし、人一人ができることには自ずと限界もある。

 一人で越えることができない壁は、仲間と協力して乗り越えるしかない。

 あらゆる状況を分析して最善手を打てるよう、敵のことも仲間のことも、そして己のことも熟知しておかなければならない。


 痛感する――。


 この世界で生きていく――文字通り〝命を繋いでいく〟ための力も、そして知識も、今の俺には圧倒的に足りない!


『心が温かくなる……だと?』


 聖さんの述懐に、苦笑とも苦渋ともとれる表情で伏姫タナトスが口元を歪める。

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