第122話
目的地は聞いた。
でも、それがどこにあるのかはよくわからない。
家の周りと大学の周りのことくらいしかわからない私は、迷うことなく歩く仙台さんにただついていく。
いくつか角を曲がって、電車に乗って、立ったまま窓の外を眺めていると、流れていく見慣れない景色に自分がよそ者であると強く感じる。新しい環境に溶け込めずにいることがよくわかって、憂鬱になる。
このままだと目的地に着くより先に電車を降りたくなってしまいそうで、視線を仙台さんに移す。
「なに?」
私の視線に気がついたらしい仙台さんがこちらを見ずに言う。
「別に、なにも」
「もう疲れたとか?」
「疲れてない」
素っ気なく言うと、会話が途切れる。
仙台さんは、相変わらず窓の外を見ている。
流れていた景色が止まって、ドアが開く。
ざわざわとした車内がさらに騒がしくなる。
人が降りて乗ってドアが閉まると、仙台さんが「ねえ、宮城」と静かな声で私を呼んだ。
「朝オレンジジュース飲んでたの、なんで?」
電車が走りだして、スピードを上げる。
私も仙台さんと同じように窓の外を見る。
「なんとなく」
「ふうん。じゃあ、私から逃げ回ってた理由は?」
一定の速度で変わっていく景色と同じように、会話が滑らかに流れて違う場所に着地する。
「じゃあ、ってオレンジジュースと全然関係ないじゃん」
私は、あまりにも自然にすり替わった話題に文句を言う。
「いいから答えなよ」
いつもと変わらないふわりと軽い声が聞こえてくる。
窓の外に固定していた視線を仙台さんに向けると、声とは裏腹にやけに真剣な顔をしている彼女が見えて、適当に答えるわけにはいかなくなってしまう。
「……どうしていいかわからなかったから」
「やっぱり」
「だって、仙台さんずっと家にいるんだもん」
本人に言うべきではないと思っていたけれど、誤魔化す雰囲気でもなくて仕方なく本当のことを告げる。
「そりゃあ、一緒に住んでるんだし。いない方がいいって言われても困るんだけど」
「いない方がいいとは言ってない」
「私に慣れてよ。あと避けられると傷つく」
「――ごめん」
避けたくて避けていたわけじゃないけれど、悪いとは思っていたから謝っておく。
ただ、仙台さんだって私を避けているときがある。
悪いのは私ばかりではないと思うが、彼女は私ほどあからさまに避けてはいないから文句を言いにくい。
「家にいないときって、宇都宮と会ってたんでしょ?」
仙台さんの視線が窓の外から私に向く。
「そうだけど」
「いつもどこ行ってるの?」
舞香と約束があるから。
家にいない理由としていつも舞香の名前を出して、仙台さんに告げてきた。けれど、どこに行っていたのか聞かれても困る。
「どこってこともない。その辺」
「その辺がどこか聞いてるんだけど」
「よくわかんないから舞香に任せてる」
「任せっぱなしにしてるにしても、どこかには行くでしょ」
「たいしたところには行ってないし」
舞香とは特に変わった場所には行っていないから、嘘は言っていない。でも、すべてが正しいわけでもなかった。
仙台さんに告げた半分近くは舞香と会っていない。本屋に行ったり、カフェに行ったりして一人で時間を潰していた。どこへ行っていたか詳しく答えると、舞香に会っていなかったことがバレてしまいそうな気がする。
「まあ、いいけど」
仙台さんの声は私の答えに納得しているようには聞こえなかったけれど、それ以上追求してこない。私は彼女が諦めてくれたことにほっとする。でも、黙られてしまうと仙台さんの興味がどこにあったのかわからなくなる。
舞香だったのか、行った場所だったのか、それとも私だったのか。
仙台さんが本当に聞きたかったことがなんだったのか気になるけれど、電車が揺れて景色が流れる速度が落ちる。
「降りるよ」
仙台さんの声が隣から聞こえてきて、思考が途切れる。
電車を降りて軽くお昼を食べてから目的地まで歩いて、家電売り場へ向かう。
買いたいものは電気ケトル一つだけなのに、随分と時間がかかる。
急いで買わなければいけないものでもないから、通販でも良かったはずだ。なんなら、家の近くで買うこともできた。わざわざ電車に乗らなければいけないような場所まで来て、お昼を一緒に食べてまで買うようなものじゃない。
私は、エスカレーターの一つ上の段に乗っている仙台さんの背中を見る。
一緒に暮らすようになってから編んだり編まなかったりしている長い髪は、両サイドを編んで後ろで留められている。朝、起きてきたときはしていなかったメイクも今はしている。
制服ではないという点を除けば高校のときとあまり変わらない姿をしているのに、仙台さんがあの頃とは違う人のように思える。
いや、正確には私があの頃と同じように仙台さんを見ていない。
きっと、使われていなかった五千円のせいだ。
感情の置き場が見つからない。
新しい生活も、今までとは違う仙台さんも、私の中で酷く収まりが悪くて扱いにくいものになっている。高校生だった頃は五千円を払うという行為でなんとなく丸く収めていたけれど、五千円がなくなって丸くならなくなった感情はどこにも収まらなくなってしまった。
制服だった頃に戻れたら、なにも考えなくていいのにと思う。
朝、なにを着て部屋から出ればいいのか悩む必要がなくなる。途切れそうになる会話に不安を感じずに済む。スカートを履けなんて仙台さんが言ってくることもないし、スカートを履いていないことをなにも言ってこないなんて気にすることもない。
私は、エスカレーターを降りる。
そして、また乗って上へと向かう。
視線の先にある背中は、背筋がぴんと伸びている。
長い髪が綺麗で触れたくなる。
思わず手を伸ばしかけて、息を吐く。
たぶん、私は疲れている。
あまりよく眠れていないから、頭が働いていない。
「宮城、こっち」
仙台さんが次のエスカレーターに乗らず真っ直ぐに歩く。後をついていくと、すぐに並んでいる電気ケトルが目に入った。仙台さんが、どれがいいかな、と呟きながら電気ケトルをいくつか手に取って確かめはじめる。そして、私はそんな彼女を眺める。
丸っこい形のものや注ぎ口が細長いもの。
仙台さんが真剣に見ている電気ケトルは色も形も違う。機能も違うはずだけれど、お湯が沸けばどれでもいいような気がする。でも、仙台さんは真面目に見比べている。急かすつもりはないが、もう少し適当に選べばいいのにと思う。
「宮城はどれがいい?」
仙台さんが私を見る。
「どれでもいい。っていうか、調べてないの?」
「一応、良さそうなの調べてある」
「じゃあ、それでいいじゃん」
「候補二つあるから、選んでよ」
仙台さんが、これとこれ、と二つの電気ケトルを指さした。
「どっちだっていいから、仙台さんの好きな方にしなよ」
「一緒に使うんだから、色くらい決めてよ」
そう言うと、仙台さんが大きめの電気ケトルを指さす。そして、「こっちにするから、好きな色選んで」と私を見た。
「特に好きな色ないし」
お湯を沸かす機能に色は関係ない。
白でも黒でも赤でも好きな色にすればいいと思う。それに電気ケトルに興味がない私が選ぶよりも、ほしがっている仙台さんが好きな色を選んだほうがいい。
「……宮城。宇都宮と買い物してるときもこんな感じなの?」
仙台さんがため息交じりに言う。
「こんなって?」
「冷たい。非協力的すぎる」
責めるような口調に罪悪感が刺激される。
舞香となら、なにをするときももっと真剣に考えられる。電気ケトルならほしい機能を尋ねたり、デザインや色を選ぶことができる。というよりも、仙台さん以外とならもっと上手くやれる。でも、相手が仙台さんだと、他の人と普通にできることが急にできなくなる。その代わり、他の人とはしないことをすることがあるけれど。
「どうしても決めたくない?」
仙台さんの声が聞こえて、私は並んだ電気ケトルをじっと見た。そして、一呼吸おいてから無難な色を口にする。
「白がいい。電気ケトルって感じだし」
「電気ケトルっていうか、家電って感じじゃない?」
「じゃあ、赤」
「わかった。白ね」
一致しない意見に色を変えると、仙台さんが不自然なほど明るい笑顔をつくって白い電気ケトルを手に取る。そして、レジへ持って行く。仕方なく私も彼女の後を追って二人で会計を済ませる。
「これで買い物終わり?」
問いかけると、うん、と短い答えが返ってきて、これから来た道を戻るのだと思う。でも、仙台さんは寄りたいところがあると言って上りのエスカレーターに乗った。
「帰らないの?」
行き先は言わないけれど、行き先が決まっているとしか思えない足取りの仙台さんに尋ねる。
「ちょっと寄り道」
「ほしいものあるの?」
「ないけど、時間あるしいいでしょ」
そう言って、仙台さんが微笑む。
彼女は柔らかく笑っているけれど、私の意見に耳を貸しそうにない目をしている。私は無駄な労力を使うよりも黙って仙台さんについていくことを選ぶ。
ご飯を食べて買い物をして、ほしいものがなくてもお店を見て回る。それは仙台さんを避け続けているよりは楽しいことだと思うし、模範的な日曜日の過ごし方だとも思える。
今は、思い出が増えることがそれほど怖くはない。
でも、これがルームメイトとして一般的な距離なのかはわからない。
「宮城、ここ」
仙台さんに引っ張られるようにしてエスカレーターを降りると、ぬいぐるみの山が目に入った。
「こういうの好きでしょ」
仙台さんに私がどう見えているのかよくわからない。
ぬいぐるみを集めているわけではないし、部屋に並べているわけでもない。もちろん、売り場にはぬいぐるみの他にも小物だとかおもちゃだとかいろいろなものが置いてある。それでも当たり前のようにこういうものが好きだと決めつけられると、仙台さんの中の私がどんな人間なのか尋ねてみたくなる。
でも、見るのは嫌いじゃないし。
仙台さんが楽しそうだし、すぐに帰らなければいけないわけでもない。私はぬいぐるみに近づいて、いくつか手に取って戻す。奧へ向かうと、そこにももこもことしたものが置いてある。その中に地味な色をしたぺたりとしたものがあって、足を止める。
なんだろうと見てみると、それはティッシュカバーだった。
そういえば、キッチンにあるティッシュの箱にはカバーがかかっていない。
私は、焦げ茶色のティッシュカバーを手に取る。
「それなんだっけ?」
隣にいる仙台さんが私の手元を見る。
「カモノハシ」
「ワニに似てない?」
「似てない」
「哺乳類なんだっけ、それ」
「たぶん」
記憶が曖昧だけれど、カモノハシは哺乳類なのに卵を産む変な生き物のはずだ。
「宮城、こういうの好きだよね」
「好きなわけじゃない」
「嫌いでもいいけど、結構可愛いじゃん」
そう言うと、仙台さんが私からカモノハシを取り上げて頭を撫でた。
「それ、買ってくるから貸して」
私は、仙台さんが持っているカモノハシのくちばしを引っ張る。
「いいよ。私が買ってくるから」
「なんで?」
「これ、キッチンに置くヤツでしょ? だったら二人のものだし、二人で使うものを買うお金から出しておくから」
仙台さんが当然のように言って、カモノハシの手をぴこぴこと動かす。
「キッチンに置くって言ってない」
「違うの?」
「……違わないけど」
「買ってくるから」
仙台さんが私の答えを待たずに歩き出す。
結局、私は彼女の後をついて歩くことになって、カモノハシも“共用のものを買うお金”で買われてしまう。
仙台さんのこういうところが気に入らない。
いつも私がしようとすることを先回りしてしてしまう。
文句を言っても絶対にきいてくれない。
「じゃあ、帰ろうか」
今日の予定はこれで終わりのようで、仙台さんが明確に家へ帰る道を辿りはじめる。私たちは、ここへ来るまでと同じ時間をかけて家へ向かう。寄り道をせずに、くだらない話もそれほどせずに歩く。
沈黙はあまり気にならない。
電車に乗って、また歩いて家に着く。
買ってきた電気ケトルはすぐに開封されて、仙台さんが紅茶を入れる。向かい合わせでテーブルに座って、ティッシュカバーが入った袋を仙台さんから渡される。
「はい」
「仙台さんが開けてよ」
そう言って袋を押し返すと、彼女はなにも言わずに袋の中からカモノハシを取り出した。そして、私の近くにあるティッシュの箱を指さす。
「それ取って」
言われたとおりに、はい、とティッシュの箱を渡すと仙台さんが箱ではなく私の手を掴む。
心臓がどくんと鳴る。
仙台さんの手に力が入る。
ぎゅっと握られた手が痛い。
仙台さんはなにも喋らない。
こういうとき、今までだったら嫌だと言ってもキスをしてきていたけれど、今日はなにもしてこない。
当たり前だ。
今までとは違う。
仙台さんはルームメイトで、ルールにもキスをしていいなんてない。でも、してはいけないというルールもない。
「ごめん」
仙台さんが静かに言って、私の手を離す。
ティッシュの箱が彼女の元へ行く。
そして、カバーがかけられる。
キスに関する明確なルールはないし、禁止するルールがあったとしても仙台さんは破りたければ平気でルールを破る。それなのに、今日は見えないルールがあるみたいにそれに従う。
仙台さんのこういうところが嫌いだ。
「はい、できた」
それほど大きくないテーブルの上、仙台さんがカモノハシのカバーがかかったティッシュを置いた。
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