第42話

 ブラのストラップに触れる。

 白い肩紐は頼りなくて、少し手を動かせば簡単に外せそうだ。


 肩にかかっているそれを少しずらして仙台さんを見ると、露骨に私を拒否するような顔はしていないけれど歓迎されていないとわかる表情をしていた。それでも、仙台さんは止めてと言わない。

 私は彼女から手を離して尋ねる。


「抵抗しないの?」

「宮城が動くなって命令したから。抵抗しろっていうならするけど」


 命令じゃなかったら抵抗している。

 当たり前だけれど、そう聞こえる声で仙台さんが言う。


「抵抗したかったらすれば」

「約束破ったら抵抗する」

「これはルール違反じゃないんだ?」

「制服が濡れてなかったら、張り倒してた」

「特例ってこと?」

「そう。このままだと風邪引くからって、宮城が言ったんでしょ」


 服を脱がすことは違反でも、脱がすことに理由があればいい。


 そういうことなんだろう。

 約束はそれほど厳格じゃない。

 思っていたよりも柔軟で、融通が利くらしい。

 都合が良いとも言える。


「でも、まだ五千円渡してない」

「渡さないつもり?」

「後から渡す」


 仙台さんに五千円を渡さないということはありえない。

 今日だって、彼女がずぶ濡れじゃなければ渡していた。そうしなければ、仙台さんはもうここには来ない。そのかわり、五千円を渡せば彼女は命令のほとんどに従う。


 緩やかなルールは、今の私たちにとって丁度良い形に変わって続いている。後払いが許されるし、今日は特例という大義名分も得た。


 だから、仙台さんをこのまま脱がすことに何の問題もない。でも、濡れたブラウスのボタンを外したのにその先に進めずにいる。

 私は、大したことじゃないことができない。


 こんなのは、服を脱がすことに意味があるみたいで嫌だ。


 自分の中にやましい部分があるみたいで嫌だ。


 服を脱がされそうになっても動揺すらしない仙台さんが嫌だ。


 彼女はいつもこうだ。

 私に面倒くさい選択肢を押しつけて、選ばせる。今日も、この先どうするか決めるのは私だ。仙台さんは、自分は関係ないという顔をしている。


 今だって、本当は脱がされたくなんてないくせに。


 手を伸ばして、仙台さんの心臓の上辺りに置く。そして、手のひらを押しつけた。


「仙台さん、冷たい」


 心臓の音が速いかどうかはわからなかった。

 ただ、私の体温が高いと勘違いしてしまうほど仙台さんが冷たい。


「濡れたから」


 よく見なくても、水を滴らせる制服が仙台さんの体温を奪っていることはわかる。


 頬に触れると、やっぱり冷たい。

 唇に触れても、冷たさは変わらない。

 どこもびっくりするほど冷たくて思わず手を離すと、仙台さんが私の頬に触れた。


「宮城はあったかいね」


 冷たい手が私の体温を奪う。

 そう言えば、あのときも仙台さんは頬に触れた。


 初めてキスした日。


 彼女の手は、今よりもはるかに温かかった。あれは五月のことで、その日のことはよく覚えている。けれど、それが何日だったのか、何曜日だったのかまでははっきりと覚えていない。


 もし、今ここで仙台さんにキスをしたら、私の中のカレンダーはどうなるんだろう。


 頬に触れている仙台さんの手を掴んで引き寄せる。

 唇が触れるほどではないけれど、整った顔が近くにある。


 仙台さんと目が合う。

 もう少しだけ顔を近づけてみる。

 でも、仙台さんは目を閉じなかった。


 キスをしたという事実が記憶に残ることはかまわないけれど、目を閉じようとしない仙台さんにキスをしようとして拒否されたという思い出は欲しくない。


 掴んでいた彼女の手を離して、少し下がる。

 仙台さんの目が見られなくて、私は彼女のブラウスの前を開いた。


 外すことができなかった白い下着が目に入る。


 心臓が反応しかけて、小さく息を吐く。

 肩紐をずらして、胸元に唇をつける。

 冷たい体を強く吸うと、仙台さんが私の肩を掴んだ。けれど、掴んだだけで私を引き剥がしたりはしない。


 私は自分の中のカレンダーに印をつけるのではなく、仙台さんに赤い印をつける。こういうことは私の記憶じゃなくて、仙台さんに残しておけばいい。


 顔を離すと、胸元に赤い跡が薄くついていた。

 確かめるようにそこを撫でる。


 湿った肌が吸い付くようで、指先で強く押す。赤くなった場所だけが熱いような気がしてもう一度唇をつけると、私の肩を掴んでいる手に力が入った。


「脱がすんじゃなかったの?」


 不機嫌そうな声が聞こえて顔を上げると、仙台さんが面白くなさそうな顔をしていた。


「跡、そんなに長く残らないと思うから」


 私は、質問の答えとは違う答えを言いわけのように口にする。


「これくらいならすぐ消えるからいいよ」


 赤い印は強くつけていない。

 明日になったら消えているかもしれない程度だ。場所だって、人から見えない位置を選んでいる。仙台さんが怒る理由はないし、脱がさなかったことも怒られるようなことじゃない。それでも、居心地が悪くて私は彼女から離れる。


「着替え持ってくる」


 また逃げたって言われる。


 そう思ったけれど、私の足は仙台さんを置いて部屋に向かう。クローゼットから着替えを引っ張り出して、玄関にいる仙台さんに押しつける。


「部屋にいるから、着替え終わったら呼びに来て」


 そう言い残して、部屋へ戻る。

 ベッドに座って手を見ると、仙台さんを濡らした雨が私の手のひらも湿らせていた。


「いつもと違うじゃん」


 手をぎゅっと握りしめる。

 いつもの仙台さんと同じに見えて、今日は少し違った。


 私の知っている仙台さんは理由があったって、今したみたいなことを黙って受け入れたりしない。特例なんて言ったりしないし、胸元にキスマークをつけることを許したりもしない。


 仙台さんはおかしい。


 正しく言えば変わった。

 どこがと言われても困るけれど、前とは違う。


 そして、私もおかしい。


 理由を作ってまで仙台さんを脱がせたいと思った。

 もっと言えば、脱いだ姿を見たいと思った。


 ――こんな気持ち、絶対におかしい。


 抵抗しない仙台さんだって絶対におかしいし、こんなことが簡単に起こるなんて変だ。


「宮城、入るよ」


 ノックとともに、いつもなら声をかけたりしない仙台さんの声がドア越しに聞こえてくる。


「いつもみたいに勝手に入ればいいのに」


 廊下に聞こえるように文句を言うと、私のTシャツとスウェットを着た仙台さんが部屋に入ってくる。


「そうなんだけど、なんとなく」


 まるで自分の服みたいに私の服を着ている仙台さんは、見慣れた制服姿とは違って新鮮だ。


 ついでに言えば、私が着るとただの部屋着のTシャツとスウェットは、仙台さんが着ていると少し高そうな服に見える。容姿の差だとは思いたくないけれど、そういうことなんだろう。

 納得はできないが、否定もできない。


「制服貸して」


 なんだかもやもやとした気分のまま、立ち上がって手を出す。


「どうするの?」

「浴室乾燥機あるから、それで乾かしてくる」

「助かる。濡れた制服着て帰るの嫌だし」


 そう言うと、仙台さんが制服を渡してくる。私はそれを受け取って、バスルームへと向かった。


 今日は全てがおかしい。

 きっと、雨のせいだ。

 雨なんて降るから、こんなことになる。


 私はハンガーに制服を掛けて、浴槽の上に干す。

 浴室乾燥機のスイッチを入れて、深呼吸をする。


「大丈夫。もうなにもない」


 自分に言い聞かせてから部屋へ戻って、机の上に置いてあった五千円札を手に取る。


「これ」


 五千円を本棚の前にいる仙台さんに渡す。


「ありがと」


 お礼とともに五千円が財布にしまわれる。そして、部屋には沈黙が訪れる。


 漫画を読んだり、宿題をしたり。


 そういうときの沈黙が気になったのは最初の頃だけで、今は喋らないことが苦にならない。でも、今日は違う。沈黙が体に纏わりついて、首をじわじわと絞めてくる。


 隣では仙台さんが宿題をしている。

 私は、ベッドを背もたれにして漫画を読んでいる。


 これまでと同じことをしているのに、息苦しくて部屋から出て行きたくて仕方がなかった。


「あのさ、五千円っていつも五千円札でくれるけど、毎回両替してるの?」


 仙台さんも同じように感じていたのか、宿題をする手を止めて明るい声でしゃべり出す。


「そうだけど、なんで?」


 正確には毎回じゃない。何回分かまとめて両替をしている。


 一万円札を出して仙台さんからおつりをもらうことも、千円札を五枚渡すことも、いかにもお金のやり取りをしているという雰囲気になってしまいそうだから、五千円札を用意することに決めている。


「いや、可愛いなって」

「え?」

「だって、私に渡すためにわざわざ両替しに行ってるんでしょ? そういうのって可愛いじゃん」


 見慣れた服を着た見慣れない仙台さんが笑いながら言う。


「うるさい。そういうこと言わなくていいから」

「うるさいくらいが丁度良いんだって」


 今日はそういう日だと言うように、仙台さんが私を見る。


「そう言えば宮城ってさ、夏休みに塾とか予備校とか行かないの?」

「行かない」

「勉強は?」

「宿題はする」

「それは最低限必要な勉強。それ以外は?」

「したくない」


 しなければいけないことはわかっているけれど、したくない。塾も予備校も行きたくないし、夏休みに勉強を教えてくれる人もいない。


「勉強しなよ。受験生でしょ」


 仙台さんが真面目な声で言って、私の足をペン先でつついてくる。


 夏休みまでそれほど時間がない。

 長い休みがもうすぐ来ると思うと、憂鬱になった。

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