第5話

 歩いて、歩いて、歩く。

 二人いるのに黙ったまま歩く。


 沈黙は得意じゃない。

 二人いるなら何か話したいし、静かだと気分を害してしまったのではないかと不安になる。宮城が怒っていてもかまわないけれど、なんで怒らせてしまったんだろうと気になる方なのだ。だから、何か喋って欲しいが彼女は黙りっぱなしで喋らない。


 少しは気を遣って喋れよ。


 なんて念を送っても宮城が喋らないので、本屋から黙々と歩いている。

 やっぱり、帰れば良かった。

 宮城の家に行こうと思わなければ良かった。


 どんよりした空の下、軽率な自分を悔いながら黙々と歩いていると高そうなマンションに辿り着く。


 五千円、ぽんと払うだけあるな。


 そんなことを思うくらい立派なマンションは、わりとうちから近かった。歩いて十五分か、二十分くらい。こんなに近いところに同じクラスの子が住んでいるとは思わなかった。


 でも、考えてみれば当たり前だ。

 本屋でばったり会って、そのまま歩いて家に帰るわけだから、私の家から遠いわけがなかった。


「うち、ここの六階だから」


 エレベーターに乗り込みながら宮城が言う。


「そうなんだ」


 ここからうちが近いことは伝えない。

 わざわざ言うようなことでもないし、宮城と親しくするつもりもないから告げても仕方がない。


 エレベーターの表示に目をやると、四、五、六と数字が変わって止まる。私は、宮城の後を付いて歩く。彼女は一番端にある玄関を開けて中に入ると、私を招き入れた。


「適当に座ってて。何か持ってくる」

「おかまいなく」


 彼女の部屋は私の部屋と同じか、それよりも広いくらい。高校生の部屋にしては大きい部類に入る。綺麗に片付けられていて、大きめのベッドと馬鹿みたいに本が詰まった本棚が置いてあった。


 どんな本があるんだろうと本棚に近寄ると、ドアがバタンと開く。振り返ると、宮城が小さなテーブルに透明な液体が入ったグラスを置いていた。


「漫画、読むんだ?」


 本の背表紙を眺めながら問いかけると、宮城は「読むよ」と素っ気なく答え、突然「そうだ」と大きな声を出した。


「漫画読んでもらおうかな。仙台さん、こっち来て座ってて」


 そう言って、宮城が立ち上がる。それでも私が本棚の前にいると、彼女に「あっちに行ってて」と肩を叩かれた。


 働かせるという話はどこへ行ったんだろうと思いなら、テーブルの前に座って透明な液体を飲むと、口の中がシュワシュワとした。甘ったるい液体の正体がサイダーだとわかり、私はグラスを置いた。


 炭酸はあまり好きじゃない。


 こんなとき、いつものメンバーならサイダーを出してきたりしないなんて考えていると、私の向かい側に宮城が座った。


「これ、読んで」


 格好を付けた男の子と気弱そうな女の子が表紙に描かれた漫画を手渡される。ぺらぺらと数ページ読んだところ、中身は恋愛漫画らしかった。


 こんなものを読むだけで五千円?


 宮城の考えが理解できない。

 でも、読めと言われたから素直にページをめくっていると、宮城がつまらなそうに言った。


「そうじゃなくて。声に出して読んで」

「音読?」

「そう。それが五千円の仕事っていうか、命令なんだけど」

「働くんじゃなくて、命令になったんだ?」

「うん」


 いつの間に仕事が命令にすり替わったのか知らないけれど、どうしてなんて聞いてもたぶん無駄だろう。宮城は深く考えていない。その場のノリか何かで決めているに違いない。


「仕事でも命令でもいいけど、本読むなんて簡単なことが五千円?」


 私はさっさと家に帰るべく、話を進める。


「うん。でも、最後のページまで全部読んでね」

「おっけー」


 漫画を声に出して読むだけでいいなら、楽なものだ。

 私は気軽に返事をして、愛してるとか、お前だけだとかいった歯が浮くような台詞を読み上げていく。


 小説を一冊読み上げろと言われたらげんなりするけれど、文字が少ない漫画だからサクサク進んでいく。でも、すぐに軽く引き受けたことを後悔することになった。


「……この本、エロくない?」


 読み上げるという仕事を放棄して、先の方までストーリーを確かめた結果、めくってもめくっても登場人物はほぼ裸だった。


 本の半分くらいベッドシーンじゃん。

 しかも、台詞も喘ぎ声とかそういうのばっかりじゃん。


 内容も結構激しいし、こんなものを音読させるとか、宮城の頭はどうなってるんだ。


 エロいものが嫌いというわけじゃないが、読み上げたいものではない。というか、読み上げたい人なんてそうそういないだろう。宮城みたいな地味な子もこういう漫画を読むんだと新鮮な驚きもあったが、後悔の方が上回っている。


「エロいね」


 あっさりと宮城が言う。


「この先も声に出して読むの?」

「全部声に出して読んで」

「もしかして、エロい言葉聞くのが趣味?」

「趣味じゃないけど、他に命令なんて思いつかないし」

「命令する必要ってなくない? おつりもらって、明日返すお金ももらってくれたら解決するでしょ」


 何故、お金を受け取りたくないのか知らないけれど、宮城は面倒くさすぎる。強情で扱いにくい。


「五千円なんてどうでもいいし、返してもらいたいわけじゃないから。早く読んで」


 本気でお金のことはどうでもいいらしく、宮城が私を急かす。


 こんなくだらないことに付き合う義理はないのだが、彼女から五千円をもらいたくはないし、五千円分働くと約束したのだからそれは果たさなければならない。


 そう、私もそれなりに面倒くさい人間なのだ。


「――わかった」


 もっととか、いくとか。

 あんとか、なんとかかんとか。


 延々と続く声に出したくない台詞にくらくらする。


 私は何をやってるんだ。

 クラスが一緒なだけで、今まで一度も話したことがない宮城の前で何を読まされているんだ。


 絶対、宮城は馬鹿だ。

 間違いない。変態の馬鹿だ。

 確か、成績は――。


 成績どれくらいなんだろう。

 私は、宮城のことをよく知らない。


「仙台さん、声が小さい」


 意識が本から離れて、宮城に注意される。


「大きい声で読むような内容じゃないでしょ」

「今日、誰もいないし声が大きくても大丈夫だから」


 そっちが大丈夫でも、こっちは大丈夫じゃない。


 今日は最低だ。ついてない。

 財布は見つからないし、エロ漫画は朗読させられるし。


 心の中で文句を言いながらも、私はきっちりと喘ぎ声まで声に出して読むことになり、飲みたくもない炭酸で喉を潤すことになった。


「意外に下手って言うか、棒だよね。遊んでるから、こういうの上手いかと思った」

「一応、清楚系で通してるんで。あと、遊んでないから」


 宮城の失礼な物言いを訂正する。


「そういうのって、男ウケが良いからやってるんでしょ」

「違うから」


 学校で清楚っぽく振る舞っているのは、男ウケのためじゃない。先生ウケを狙っているだけだ。


「清楚っぽく見せて、実は遊んでるって言われてるけど」

「そういうイメージなんだ、私」


 宮城たちが属するグループに、遊んでると思われていたとは知らなかった。というか、そういう噂になっていたのか。嬉しくない事実だ。


「で、命令はこれで終わり?」


 とりあえず不名誉な噂は投げ捨てて、宮城に尋ねる。


「終わり」

「これからどうしたらいい?」

「帰っても良いし、帰らなくても良いし。仙台さんの好きにして」

「じゃあ、帰る。あと、この漫画の続き借りてもいい? 結構面白かった」


 背表紙に一と書いてあるから、二もあるんだろう。読み上げるのは趣味じゃないけれど、漫画自体の続きは気になる。でも、宮城は愛想の欠片もない声で期待とは異なる言葉を発した。


「駄目」

「うわ、ケチ。漫画貸すくらいいいじゃん」

「五千円」

「なに? 漫画一冊借りるだけで五千円も取るつもり? 自分で買った方が安いじゃん」

「違う。私が仙台さんにあげる」

「はあ?」


 予想もしない言葉に、思わず間抜けな声が出る。


「私が仙台さんの放課後、一回五千円で買うって言ってるの。だから、続きはここに来たときに読めばいい」


 クラスメイトを五千円で買うとか、ありえなさすぎる。

 さっきも、エロ漫画を音読しろとかわけのわからない命令をしてきたし、体目当てだと言われてもおかしくない。


「いや、売らないし。というか、私を買って何するつもり? セックス? それ、五千円じゃ安くない? あと私、女同士とか興味ないんだけど」


 考えてもみなかった提案に早口で捲し立てる。


「仙台さんこそ何するつもり。私、仙台さんとそういうことするつもりないんだけど」

「じゃあ、なんなの。五千円で私に何するつもり」

「週に一回か、二回くらい。放課後うちにきて、私の言うこと聞いてよ。今日みたいに」


 にこりともせずに宮城が私を見た。


「エロい漫画、朗読するってこと?」

「そういうのもありだし、宿題やってもらうとかそういう感じで」

「なにそれ。あー、便利屋?」


 五千円で体を売れと言われても困るが、五千円で宿題をさせるというのもどうかと思う。

 宿題を代わりにするという対価としては悪くないけれど。


「ちょっと違う。命令するから、それ聞いて」

「命令ってなに? 殴ったりとか困るし、セックスもお断りなんだけど」


 宮城の頭の中が本気でわからないから、何を言い出すか予想できない。だから一応、体は売らないと宣言する。


「暴力は私も嫌いだし、仙台さんとセックスするような関係になるつもりもないから」

「嫌だって言ったら、他の人に頼んだりするの?」

「しない。五千円出すから命令させてとか言ったら、絶対におかしい人だって思われるじゃん」


 いやいや、今の状況だって十分おかしい。

 すでに、私の頭に“宮城はヤバイ奴”でインプットされているくらいだ。


 でも、興味がないわけじゃない。学校でグループのメンバーと話をあわせるために読みたくもない雑誌を買ったり、ご機嫌を取ったり。そんなことをしているよりは、面白いことが起こりそうに思える。


「私ならいいんだ?」

「いいわけじゃなかったけど、成り行きだし」

「まあ、いいか。暇つぶしに、一回五千円で命令聞いてあげる。休みの日は無理だけど、放課後なら」


 そっちが成り行きなら、こっちも成り行きだ。

 エロ漫画を読まされるのは避けたいけれど、そこら辺が命令ごっこの上限のようだし、少しくらい付き合うのも悪くない。


 宮城という人間にも興味がある。

 この変な子が私に何を命令するのか知りたい。それに、本気で嫌なことがあれば五千円を突き返せばいいのだ。――受け取らないとは思うけれど。


「じゃあ、それで。あと、学校で話しかけたりしないし、連絡はスマホでしていい?」

「それでいいよ」


 私はまた後悔することがあるかもしれないと思いながらも、軽々しく宮城の提案を受け入れた。

 そして、連絡先を交換して彼女の部屋を出る。


 律儀に私をマンションの入り口まで送る宮城に手を振って、家へと向かう。


 雨は降っていない。

 どんよりしていた空を見上げれば、いつの間にか雲が消えていた。

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