仙台さんが守るべきルール

第121話

 目覚ましはかけずに寝た。

 でも、日曜の朝にしては早い六時過ぎには目が覚めた。


「……眠い」


 私は、枕の横で転がっている黒猫のぬいぐるみを布団の中に引っ張り込んで胸の上に置く。頭を撫でて、目を閉じる。


 夜はきちんと眠くなる。

 でも、よく眠れないし、朝はやけに早く目が覚める。

 ここに来てからずっとこんな調子で、頭がすっきりしない。


 それもこれも仙台さんのせいだ。

 と言えたら良かったけれど、原因は私にあるのだと思う。


 家の中にいつも人がいることに慣れない。


 朝起きれば仙台さんがいるし、大学から帰ってきても仙台さんがいる。休みの日だっている。家には誰もいないことが当たり前だったから、常に人の気配がする新しい家は他人の家にいるようで落ち着かない。それでも前の部屋から持ってきたものが近くにあるとよく眠れそうな気がして、ここに来てからも黒猫を枕元に置いている。


 大きく息を吐いて、目を開ける。

 床の上には、背中からティッシュを生やしたワニがいる。

 小さなことだけれど、あるべき場所にあるべきものがあるとここが私の居場所だと感じられる。


 早くこの部屋が自分の部屋になればいいと思う。

 私はのろのろと起き上がって、クローゼットを開ける。


 朝はいつも迷う。


 スウェットのままこの部屋を出ていいのか、着替えてからの方がいいのかわからない。ここに来る前は朝起きたらスウェットのままご飯を食べたり、歯を磨いたりしていた。でも、今は仙台さんがいるから、パジャマ代わりのスウェットでふらふらすることに抵抗がある。


 たぶん、仙台さんはまだ寝ている。


 どうしよう。


 少し考えてから、カットソーとデニムのパンツを引っ張り出して着替える。そのまま部屋を出ようとして、私はベッドの上の黒猫を手に取った。


 部屋には勝手に入らない。

 そういうルールだけれど、仙台さんはルールを破ることがある。


 私はなにがあってもいいように、黒猫を本棚に置く。ぬいぐるみなんてどこにあってもいいものだと思うけれど、枕元に黒猫を置いていると仙台さんが知ったらなにか言ってきそうで嫌だ。


 定位置から移動させた黒猫。

 床にいるワニ。

 整えたベッド。

 確認してから、部屋を出る。


 共用で使っているダイニングキッチンに仙台さんの姿はない。

 歯を磨いて顔を洗ってから戻っても、仙台さんはいなかった。冷蔵庫を開けて、オレンジジュースを出す。グラスに注いで、テーブルの上を見る。


 パンの残りが入った袋が一つ。

 私は椅子に座って、グラスを袋の隣に置く。


 仙台さんの好みがわからなかったからあれもこれもと選んだら、二人分の夕飯にしては量が多くなった。パンは嫌いじゃないけれど、買いすぎだったと思う。


「おはよ」


 声とともに、起きたばかりらしい仙台さんが視界に入り込んでくる。


「おはよ」

「顔洗ってくる」


 眠そうに言って、仙台さんが洗面室に消える。


 私はオレンジジュースを一口飲む。

 時間がなかなか進まない。

 つまらない授業を受けているときのように、一分が長い。もう一度ベッドに入っても眠れないだろうけれど、ここにいてもすることがない。部屋に戻ろうか迷って、オレンジジュースを飲む。半分も中身が減っていないグラスを見ていると、仙台さんの声が聞こえてくる。


「朝、これでいい?」


 声の方へ顔を向けると、仙台さんが私ではなくグラスを見ながらパンの袋を持ち上げた。


「いいよ」

「それにしても宮城、起きるの早くない?」

「仙台さんだって早いじゃん」

「目が覚めちゃって」


 部屋着らしい大きめのスウェットにデニムパンツを履いた彼女はそう言うと、大きく伸びをして椅子に座った。視線は私のグラスに固定されていて、仕方なく尋ねる。


「ほしいの?」

「一口飲みたいだけ」

「じゃあ、飲めば」


 返事を聞かずにグラスを仙台さんに渡すと、彼女は私を見ずに「ありがと」と言って飲みかけのオレンジジュースに口を付けた。そして、言葉通りに一口飲んで、テーブルにグラスを戻す。


 朝、こういう風に仙台さんと目が合わないときがある。


 私の気のせいかもしれないし、ただ仙台さんの寝起きが悪くてぼんやりしているだけなのかもしれないけれど、あまり感じが良くない。こういうときは体の奥でぎしりと骨が軋む音が聞こえる。


「仙台さん、全部飲んでよ」

「もういらない」

「残りどうするの」

「宮城が飲みなよ」


 いつも通りではないけれど、なんとなく会話が続く。

 昨日、ルールを決めたおかげかもしれない。


 仙台さんが私の生活にぴたりとはまるようになるまでまだ時間がかかりそうだけれど、今までよりはずっといい。でも、このまま会話が続くとは思えなくて、私は空白の時間ができる前に会話がなくても時間が潰れる方法を口にする。


「朝ご飯食べる。仙台さんは?」


 宣言すると、仙台さんが立ち上がる。


「食べる。オレンジジュース出すけど、宮城、もう少しいる?」

「いらない。あとお皿もいらない」

「なんで?」

「洗い物増えるじゃん」

「まあ、そうだけど」


 不満そうな声が聞こえて、しばらくすると仙台さんがオレンジジュースが入ったグラスを一つ持って戻ってくる。


「仙台さん、先に選びなよ」

「昨日、先に選んだし、宮城から選べば」

「残ったヤツでいい」


 椅子に座った仙台さんの方にパンが入った袋を押す。するすると袋がテーブルの上を移動して止まる。仙台さんが私の顔を見てから、あんバターサンドとくるみパンを袋から取り出した。そして、軽くなった袋を私に返してくる。


「いただきます」


 そう言って、仙台さんがくるみパンを囓る。私も同じようにいただきますと言ってから、クリームパンを取り出す。


 母親がいなくなってから、一人の時間の方が長かった。今は仙台さんが誰よりも長く私と一緒にいる。


 ――五千円を払っていないにもかかわらず。


 ルームメイトになった私たちの間に五千円が必要ないことはわかる。

 私はクリームパンを囓って、仙台さんを見る。


 今までとは関係が違う。

 それは理解している。


 仙台さんがルームメイトという関係を用意して、私はそれを受け入れた。でも、新しい関係になった今も、仙台さんが使いもしない五千円のために私の命令を聞いていた理由が気になっている。


 私にとって五千円は仙台さんを手元に置いておくために必要なもので、なくしてしまうわけにはいかないものだった。仙台さんにとっての五千円は、仕方なく命令をきくご褒美でなければいけなかった。使わずに貯めておいていいものじゃない。


 あんな風に使われたら、私に五千円以外の価値があるみたいに思える。そんなことがあるはずがないのに、そんな風に思ってしまう。


 キスをしたがったり、触りたがったりしていたから、そういうことがしたいだけなのかもしれないと思ったこともある。けれど、私にそれほどの価値はない。そもそも仙台さんなら、男女問わず相手には困らないはずだ。高校でも、仙台さんが告白されたという噂を何度か聞いたことがある。本人に確認を取ったこともあるから、それなりにモテることは間違いない。


 五千円がなくても仙台さんは私と同じ時間を過ごしてくれたのか。

 命令をさせてくれたのか。


 今となってはわからない。

 ただ、五千円がなくなった今も仙台さんが側にいる。


 どうして、と考え始めると頭の中がざわざわして落ち着かない。けれど、理由を聞いてしまうと今の関係がまた変わってしまいそうな気がする。


 終わりにすることをやめて続けることを選んだのだから、ルームメイトという関係が続いてくれなければ困る。


「宮城。それ美味しくないなら、こっちと変えてあげようか?」


 仙台さんがあんバターサンドを手に取る。

 私は、半分も食べていないクリームパンを囓る。


「大丈夫。眠くてぼーっとしてただけ」

「お昼、外で食べる?」


 そう言って、仙台さんがくるみパンの残りを一口で平らげる。


「それでいいよ。これ食べたら、時間まで部屋にいるから」

「わかった」


 ぽつりぽつりとたいしたことのない話をしながら、パンを食べる。もともと共通の話題がない。でも、今までは会話が途切れても気にならなかった。ここに来てからは沈黙が重い。なんとか話題を探しながら会話を繋げて、残っていたオレンジジュースとパンをすべて胃の中に押し込む。


「ここ出るの何時?」

「十二時だとお腹空きそうだし、十一時頃にしよっか」

「じゃあ、十一時ね」


 仙台さんにそう言い残して部屋に戻る。

 ベッドに寝転がったり、漫画を読んだりして時間を潰す。


 居心地が悪いけれど、部屋を出るわけにはいかない。

 共用スペースに出ていくと、もっと居心地が悪くなる。


 時間を消費することだけを考えて、部屋にこもっていると約束の時間が近くなる。

 私はクローゼットを開けて、春色のスカートを見る。

 卒業式の後に買ってから一度も履いていないそれを手に取って出してみる。


 ベッドの上に置いて、考える。

 このスカートを履いて部屋から出たら、仙台さんに言われたから履いたと思われる。たまたまクローゼットの中にあったスカートが目に入って、たまたま履いただけでも、仙台さんのために履いたみたいになる。


 私は、スカートをクローゼットに戻してニットを出す。

 カットソーの上からそれを着て部屋を出る。


「用意できた?」


 私を待っていたらしい仙台さんに声をかけられて、「できた」と答える。彼女の大きめのスウェットは、ブラウスに変わっている。


「じゃあ、行こうか」


 仙台さんは、スカートを履いていなくてもなにも言わない。

 昨日の言葉が気まぐれだなんてことはわかっている。あんな言葉はなんとなく口から滑り出ただけのもので、スカートを履いている私を見たいなんて本気じゃない。


 仙台さんが鞄を持って歩き出す。

 私は彼女の後を追いかけるように玄関を出た。

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