第37話

 黒板には世界の歴史が綴られ、どら橋は今日も青い服を着ている。聞こえてくるのは興味が持てない国の栄枯盛衰の繰り返しで、先生の声は私を素通りしていく。


 いつだって思い通りにならない。


 結局、仙台さんに命令をしても彼女が動揺するのはとても短い時間だけで、最後には私の方がたなびく煙のように頼りのない気持ちになる。


 望んでいるのは、こういう結果じゃない。

 私は教科書を一ページめくる。


 仙台さんの息づかい。

 甘い香り。

 柔らかな耳たぶと骨の感触。

 そして、ほんの少しだけ赤かった頬。


 頭に浮かぶのは昨日のことばかりだ。

 記憶の引き出しにしまいきれない出来事が続いたせいで、思考の大半が仙台さんに奪われている。


 こんなのおかしいじゃん。


 今までだってあの程度のことはしている。

 キスマークをつけたこともあるし、首筋を噛んだことだってある。昨日したことは、そういうこととたいしてかわらないことだ。

 それなのに記憶は頭に残り続け、鮮明になっていく。


 最近はこんなことばかりだ。

 仙台さんが絡むと、良いことがない。気まぐれに始めた関係なのに、彼女の存在が随分と重くなっているような気がする。


 私は、ペーンケースの中から仙台さんに渡し損ねて部屋に残されていた消しゴムを取り出す。

 私の元から彼女の手に渡り、戻ってきた消しゴムは使われた形跡がない。


 わざわざ返しにくるようなものじゃないのに。


 学校で仙台さんから呼び出されなければ、私と彼女の関係は途切れていたかもしれない。キスをすることだってなかった。こうして授業とは別のことが頭の中を占めるようなこともなかったはずだ。


「よそ見してないで、こっち向く」


 まるで私のことを指しているようなどら橋の声が聞こえて、顔を上げる。けれど、注意されていたのは前から三番目の男子で、やけに難しい質問が投げかけられていた。


 今日は私じゃないか。


 八つ当たりのターゲットから逃れた私は、ペンケースからもう一つの消しゴムを引っ張り出して、消したい文字もないのにノートに書かれた文字を消す。


 意地悪な問題に対する答えは、いつまでたっても聞こえてこない。

 私は黒板を写し直し、仙台さんから返ってきた消しゴムをペンケースにしまう。


 今日最後の授業は八つ当たりを交えながら進んでいき、それでも私がどら橋のターゲットになることはなかった。


「こういうときって、天気予報外れるよね。体育祭の練習、中止になるかもって期待してたのに」


 ホームルームが終わると舞香がやってきて、残念そうに言う。


「私も中止だと思ってた。全体練習とかだるいんだけど」


 朝見たニュースでは傘を持って行けと言っていたのに、窓の外は曇っているものの雨は降っていなかった。


「放課後にわざわざやる? 授業潰してやればいいのに」


 亜美が忌々しいものでも見るかのように雨粒一つ落とさない空を見て言い、体育祭の合同練習に関する文句を並べ立てる。そして、最後に「早く帰りたい」と付け加えた。


「まあでも、文句言ってても中止にならないし、怒られる前に行こっか」

「そうだね」


 私は諦めたような舞香の声に同意して、体操服を持って立ち上がる。やる気が出ないまま三人で教室を出て更衣室へ向かう。廊下では亜美が「やりたくない」と呟き続け、舞香が同意し続ける。


 そんなことをしていても天気予報は外れたままで、私たちはグラウンドへ出た。

 合同練習だけあって、広いはずのグラウンドが狭く感じるほど人がいる。探すまでもなく、仙台さんだっている。


 まだ整列はしてない。

 けれど、何となく学年別、クラス別にまとまっているから、隣のクラスの彼女がすぐに目に入ってくるのは仕方がないことだ。必然的に隣にいる茨木さんの姿も視界に入ってきたけれど、これもどうしようもない。


 仙台さんも目立つ方だけれど、茨木さんはもっと目立つ。

 明らかに茶色い髪に、着崩した体操服。

 ピアスもネイルも装備して、学校に敵なんていないように振る舞っている。側にいるもう何人かの友だちも似たようなもので、そこだけ別の世界のようだ。


 でも、楽しそうに男子に声をかけている茨木さんを見ていると、仙台さんとは合わないと思う。


 何で一緒にいるのかわからない。

 遠くから見ているだけだったときは、二人は似た者同士だと思っていたけれど、今は違う。

 仙台さんは、茨木さんと趣味趣向が合いそうにない。


「志緒理、なにぼーっとしてんの」

「え? あ、早く終わらないかなって」


 舞香に、ぽん、と肩を叩かれて、私は仙台さんを視界から消す。


「まだ始まってもいないのに、終わらないでしょ。って、茨木さんいるじゃん。こういうのサボりそうなのに」

「内申点気にしてるんじゃないの?」


 亜美が笑いながら言って、舞香が呆れたような声を出した。


「今さら?」

「今さらでも気にしないよりいいじゃん」

「まあ、そうだけどさ。あ、そう言えば志緒理。あれから仙台さんとなんかないの?」


 舞香が茨木さんから仙台さんへと視線を移し、期待に満ちた声で聞いてくる。亜美も「それ聞きたい」と私の腕を掴んでくる。


 仙台さんが教室にやってきて、私を呼び出した。


 それは舞香と亜美にとって驚くべきことで、あれから二人は仙台さんのことをよく口にするようになった。簡単に言えば、私をわざわざ呼び出しにやってきた仙台さんは二人の興味の対象になっている。


 一応、それらしい理由を告げたものの、こうやって仙台さんのことを聞いてくるということは納得はしていないということになる。

 二人の顔を見ると面白い話を聞きたいとはっきりと書いてあって、私は小さく息を吐いた。


「なんかってなに?」

「えー、なんかはなんかじゃん」


 舞香が当然のように言う。


「なんかあるわけないじゃん」

「そりゃそーか」


 当たり前の言葉が舞香から聞こえて、ちょっと心が重くなる。

 でも、本当に少しだけだ。

 たいした重さじゃない。


「体育祭なんてぶっつけ本番でやればいいのに」


 仙台さんとの関係に興味を失った舞香が面倒くさそうに言って、しゃがみ込む。私は「雨じゃなくても中止にすればいいのにね」と返して、仙台さんをもう一度見た。


 何を話しているのか、茨木さんと笑い合っている。

 当然だけれど、こっちを見たりはしない。


 三年生になってから、仙台さんに向かう感情を持て余している。

 のろのろと走っていたかと思ったら、スピード違反で捕まりそうなくらいすごいスピードで気持ちが走り出す。理性は振り回されて役に立たない。


 こういう気持ちは、仙台さんごと手放してしまった方がいいはずだ。そうしなければ、面倒なことになる。わかっている。わかっているけれど、彼女にずっと命令をしていたいとも思う。


 言うことをきかせて、従わせて、服従させる。


 ――馬鹿みたいだ。

 私はのろのろと空を見上げる。


 本屋で仙台さんに五千円を渡したときも、こんな中途半端な天気だった。

 あのときは梅雨が明けていたから、ギリギリ一年は経っていない。


 去年の今ごろは、何をしてたっけ。

 思い出そうとするけれど、記憶はぼんやりとしている。


「整列しろってさ」


 ぼうっとしていると、舞香からとんとんと背中を突かれる。

 とりあえず、去年の体育祭はつまらなかった。

 それだけは記憶に残っていた。

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