第60話

 夕方と言うべき時間だというのに、窓から入り込む光が明るい。

 振り向かなくても、太陽が昼に近い暑苦しさで街を照らしていることがわかる。


「カーテン、閉めなくていいの?」


 カーテンが開いたままだとか、閉まっているだとか、そんなことは些細なことで、マンションの一室を凝視している人がいるとも思えない。けれど、今日はそんな些細なことが気になる。


「黙ってて」


 宮城が面倒くさそうに言って、ベッドに片膝をつく。そして、カーテンを閉めて部屋の電気を一つ明るくすると、ベッドを椅子代わりにしている私の前に立った。


 必然的に彼女を見上げることになった私の髪に、宮城の手が触れる。編んでも、結んでもいない髪を梳くようにしてから、自信がなさそうな顔をした宮城が唇を寄せてくる。


 こういうところがわからないと思う。


 この前は当たり前のように顔を寄せてきたのに、今日は近寄ることに躊躇いが見える。五千円を強引に渡して、キスをする準備を整えたにも関わらず、初めてキスをするみたいに煮え切らない態度を取るのはおかしい。


「目、閉じなよ」


 家の前でうろうろとしている野良猫みたいに思い切りが悪い宮城を見ていると、乱暴に言われる。それでも目を閉じずにいると、宮城が私の目を手のひらで覆った。明るい部屋が一気に暗くなって、唇に柔らかな感触が降ってくる。


 昨日と変わらない。

 少し乾いた唇がそっと触れて、目を塞ぐ手と一緒にすぐに離れる。


 唇が触れ合っていたのは本当に短い時間で、シュークリームみたいなふわふわとした感触くらいしか記憶に残らない。


 宮城とは何度かキスをしたけれど、彼女は触れるだけのキスしかしてこない。そもそも、私がそれ以上のことをしようとすると嫌がる。そのくせ、物足りないような顔で私を見る。今だってそうだ。


「宮城」


 名前を呼んで手を伸ばすと、触れる前に命令される。


「そのまま座ってて」


 そう言って、宮城が隣に腰をかける。けれど、そんな命令をしなくても逃げたりしない。


「座ってるのはいいけど、なにするの?」


 口にした質問に答えが返ってくることはなく、そのかわりとでもいうように太ももを触られる。


 ショートパンツなんて履いてくるんじゃなかった。


 そっと動く指先に、もっと違う服を選べば良かったと後悔する。


 するすると肌の上を滑る手は、深い意味を感じるようなものではなかった。医者が患者に触るような事務的な触り方に似ている。それでも、触られたら意識が手の方へ向く。


 気持ち悪いとくすぐったいの間くらい。

 脳が宮城の手が与えてくる感覚をそう認識する。


 彼女の手は太ももから膝へと下りていく。

 私は、遠慮なく触り続ける宮城の手を捕まえた。


「動かないでって言ったよね」


 感情を抑えた声が聞こえ、手を払われる。


「くすぐったいから無理」


 命令に従わなかった理由を告げると、宮城が眉根を寄せた。


 不満そうに私を見てから、膝を撫でる。

 やっぱり、気持ちが悪いようなくすぐったいようなどちらとも言えない感じがして、私は宮城の手首を掴む。けれど、それが気に入らなかったのか、宮城が私の手をほどいて距離を一気に詰めてくる。おかげで、目を閉じることもできずに彼女の唇を感じることになった。


 手が腰骨を掴んでくる。

 ぞくりとして目を閉じると、押しつけられた唇の感触がより鮮明になる。繋がっている部分が溶けてしまいそうなほど熱くて、理性を手放したくなる。


 こういう命令が良いのか悪いのかは別にして、キスすることに文句はない。ただ、キスをされるのは苦手な部類に入ると思う。


 キスはするときよりもされるときの方が宮城にもっと触れたくなって、悪いことをしているような気持ちになる。気持ちの良さはかわらないけれど、なんだか気持ちが落ち着かない。


 宮城の腕をぎゅっと掴むと、唇が離れる。それを追いかけるようにして顔を寄せると、宮城に手のひらで口を覆われた。


「勝手なことしようとしないでよ」


 私は彼女の手をべりべりと剥いで尋ねる。


「一つ聞いてもいい?」

「駄目」

「キスしたがるの、どうして?」


 即答した宮城を無視して、問いかける。


「駄目って言ったじゃん」


 答えるつもりがないらしく、低い声が返ってくる。けれど、少し間があってから、言うまでもないことだというように小さな声で言葉が付け足された。


「キスしたくないなら逃げればいい」

「宮城が命令するから逃げられない」

「それ、したくないってこと?」

「そう思う?」

「質問に質問で返しちゃいけないって言ったの、仙台さんでしょ」

「じゃあ、答え。命令しないでキスしてみれば」

「自分で試して答えを確かめろってこと?」

「そういうこと」


 知っている。

 こういうとき、宮城は絶対に逃げる。

 だから、キスはしてこない。


「夕飯、なにか作ってよ」


 案の定、宮城が話をそらすようにぼそりと言った。


 答えを知っているくせに意気地がないと思う。


 フレンチトーストを作った日、宮城がしようとしたキスから逃げなかったことが答えで、宮城とするキスは嫌いじゃない。


「キスはいいの?」

「お腹空いた」

「まだ夕飯には早いと思うけど」


 話をそらし続ける宮城を捕まえようとするけれど、私から逃げるように彼女は立ち上がった。


「早くてもいいじゃん」


 断言して、宮城が部屋から出る。そうなったら私もキッチンへ向かうしかなくて、冷蔵庫の中身を確かめる作業をするしかなくなる。


「卵しかないけど」


 冷蔵庫を開いた私は、カウンターテーブルに座っている宮城に声をかける。


「空じゃないからいいでしょ」

「ていうか、宮城って毎日なに食べて生きてるわけ」

「夜、仙台さんに出してるようなもの」

「……だよね」


 過去に何度か開けた冷蔵庫には、食材がほとんど入っていなかったし、それがたまたまだとは思えない。私がこの家で夕飯を食べて帰るとき、彼女はレトルト食品だとか、冷凍食品だとか手間の掛からないものを出してくる。それに、宮城は料理が下手だ。上手くなろうという気持ちもない。


 健康に良いとは言えない食生活が垣間見えるけれど、今のところ具合が悪そうな宮城というものを見たことはなかった。この先も彼女が健康でいられるか知らないが、私が口を挟む問題ではない。ときどき、料理を作るくらいはしてもいいと思ってはいるけれど、宮城が今日のようにそれを望むことはあまりなかった。


 私は冷蔵庫の中身と過去に卵焼きを作ったことを加味して、それほど多くないレパートリーの中からオムライスをチョイスする。


 フライパンを火にかけて、油を引く。

 具材があればと思うが、ないものはどうしようもない。大人しく、冷蔵庫から出してきたケチャップでご飯だけを炒める。


 卵はフレンチトーストを作ったときに使った死にかけのバターでオムレツにして、ケチャップライスの上にのせる。ただ、オムレツは焼きすぎたらしく、それらしく包丁で切れ目を入れても卵がとろけだすことはなかった。


 お腹の中に入ったら一緒だし、いいか。


 カウンターテーブル越しにキッチンを眺めている宮城に「できたよ」と声をかけてから、お皿とスプーンを運ぶ。


 夕飯には少し早いような気がするけれど、彼女の隣に座る。「いただきます」という言葉が重なって、カチャカチャとスプーンがお皿に当たる音が部屋に響く。一口、二口とオムライスを口に運び、三分の一ほど食べてから隣を見た。


「宮城の家っていつも誰もいないけど、親っていつ帰ってくるの?」


 踏み込みすぎないように、気になっていたことの一つを聞いてみる。


「まだ帰って来ない」


 小さな声で、微妙にずれた答えが返ってくる。


 今まで言わなかったということは聞かれたくなかったということで、私は「そっか」とだけ答えて話を切り上げる。


 答えたくないなら、それ以上追求するつもりはない。


 一人でいることが怖くて何かいるかもしれないと思うような夜、それが終わる時間がいつなのか知りたいとほんの少し思っただけだ。


 出来損ないのオムライスをスプーンですくう。


 ちょっとした興味が満たされることは期待していない。


 私は宮城が黙ってオムライスを食べているところを見てから、スプーンを口に運んだ。

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